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探偵と刑事とおやすみ・二

 その提案は働きづめのウィルクスには魅力的だった。休みもあるにはあるが、それでも休日であろうと早起きができなくなりそうで怖いので、‪七時半に‬は起きるようにしている。しかしウィルクスも本当は、遅く起きてゆっくり朝食を食べて、読書にふけったあと昼寝して……というひとときに憧れがある。  行こうかな、と思った。それでもハイドに、そんなに休みがとれるとは思わないと言った。しかし、ウィルクスがまったく期待していなかったにも関わらず、彼の上官は「休めばいいよ」とあっさり言った。 「休めるときに休まないとな。ちょうど出張組が帰ってきたから、きみが休んでもヤードもなんとか通常のパフォーマンスを保てると思う。ゆっくりすればいいよ」  ねぎらいの言葉を掛けてもらって、ウィルクスは喜んだ。しかも、認められた休暇は連続で四日。クリスマス休暇でもこんなことはなかったと思う。 「事件があれば容赦なく呼び出すからな」と上官は言った。ウィルクスもそのつもりだった。しかし、ロンドンからの呼び出しはいっこうにない。まさかあなたが握り潰しているのでは、とウィルクスはハイドに言ったが、彼はただ笑っていた。  そうだな、まだ寒いけど海辺を散歩したり、推理小説を読んだり、昼寝をしたり。ウィルクスはしたいことを考えて、休暇の前日から愉しみにしていた。ホテルのバーでカクテルを飲んだり、ハイドさんといっしょに近くの教会を見に行こう。そう思うとわくわくする。サザーランド・ホテルはウィルクスにとってもお気に入りの場所だった。日常を離れ、リラックスした快適な場所で大好きな相手とのんびりできる。彼はそのつもりだった。  だから、まさかこんなことになろうとは思っていなかった。着いたその日から丸三日、ほとんどベッドから外に出ていないなんて。  出発の日、車を運転しながらハイドが言った一言、「ゴムもローションも持ってきたからね」を、ウィルクスはほとんど聞き流していた。むしろ、そういうことをするのもいいな、と思っていた。しかし、彼が思っていたのは一回、せいぜい二回までだった。  おれは甘かった、と今、ベッドの中で丸くなってウィルクスは思った。 ○ 「ブラックウッドさんに、『ウィルクスさんはお加減が悪いのでしょうか?』って訊かれてしまった」  レストランから運ばれたムール貝のパエリアや鴨のロースト、ハムと卵とオニオンのサラダや熱い紅茶が入ったポットをベッドの前に用意したテーブルに乗せながら、ハイドが言った。  そりゃそうですよ、とウィルクスがつぶやく。素肌に羽織ったガウンの前を合わせながら言った。 「おれ、ホテルに着いて以降、ブラックウッドさんの顔を見てません。あ、そういえば初日の夜はレストランで会ったな。でも、それ以来ですよ」 「とても元気です、って言っておいた」  ウィルクスはかすかに赤くなって年上の男を睨む。ハイドは機嫌よく、サラダをとり分けている最中だった。ウィルクスはフォークをつかむ。 「あなたのほうが元気でしょう?」と言いながら、目の前の皿に山ほど盛られたパエリアに目を輝かせた。ハイドは氷の入ったグラスにペリエを注いだ。ウィルクスはがつがつ食べた。食べはじめると激しい飢えを覚える。ほとんど噛まずに飲み下し、パエリアを平らげていく。合間にペリエを飲み、鴨も貪る。ハイドは彼の隣、ベッドに腰を下ろして、パートナーが食欲を満たしていく姿をじっと見守っていた。  手元の皿に盛られたパエリアの山が姿を消してやっと、ウィルクスは我に返った。 「すみません、行儀悪かったですね」  ばつの悪そうな顔で口元をぬぐうウィルクスに、ハイドは微笑む。また彼の頭を撫でた。 「お腹すいてたんだな。いっぱい食べたね」  頭を撫でられてうっとりしながら、ウィルクスはこくっとうなずいた。ハイドはさらにパエリアを盛る。もっと食べて、と言われて、ウィルクスはおとなしく皿に向き直った。彼がひたすら食べているあいだ、ハイドもいっしょに料理を食べた。大柄で逞しい体躯に見合うように、料理を一皿ずつ着実に平らげていく。レストランにいつも控えているソムリエが選んでくれた赤ワインを飲み、ウィルクスにも勧めた。  ウィルクスはおとなしくワインを飲み、もぐもぐと口を動かしている。ハイドは隣を向いて、じっとその姿を見つめた。ウィルクスが視線に気がついて顔を上げる。ハイドと目が合って、ちょっと赤くなった。 「おれ、酷い格好ですね。あなたはちゃんと服を着てるのに……」  レストランまで行ったハイドはグレーのピンストライプのシャツにグレーのジャケット、ネイビーのタイまで結んでいたが、ウィルクスは裸にガウンを羽織っただけの格好だ。足も素足で、スリッパをつっかけただけ。ハイドはちらと視線を落として微笑んだ。 「気にすることはないよ。でも、乳首が見えてる」   ウィルクスは慌ててガウンの前を合わせ、怒った顔になった。猛烈に恥ずかしがっていることを感じて、ハイドは笑みを抑えきれない。右隣にいるウィルクスの腰に腕を回すと、彼はきっと鋭い目でハイドを見た。 「ごはん、食べてください。おれにかまわず」  ハイドは腰に回した腕を下ろし、手元のパエリアをスプーンですくう。そのまま、その手をウィルクスの口の前に持っていった。 「あーん」  にこにこしながらささやく恋人に、ウィルクスは赤くなる。それでも怒った顔のまま、差しだされるがままにハイドの手からパエリアを食べた。ワインで流しこむように飲みこみ、ちょっとだけげっぷをする。口を押えてごめんなさいと言うと、ハイドはまた頭を撫でた。ウィルクスは彼の顔をぼんやりした目で見た。 「おれ、子どもじゃないですよ。十三歳しか違いません」 「わかってる。たしか二十八歳だったな。そうだったね、”My dear boy”」  ぼうやじゃないですよ、とすねた顔で言って、しかしウィルクスは笑った。はにかむような笑顔に、ハイドは彼を抱き寄せる。強く抱きしめたためガウンがはだけて、痩せた直線的な肩があらわになった。ウィルクスは黙ってハイドの首に顔を埋めていた。  二人はしばらく黙って抱きあっていた。お互いの息遣いと、エアコンがあたたかい空気を吐き出す音だけがかすかに聞こえる。体を離し、ウィルクスの頬を指の背で撫でながらハイドが笑った。 「たしかに、髭が伸びてるな。痛い」  ウィルクスは唇をへの字に結んで、だから言ったでしょと言った。それから、いたずらっぽくにこっとする。 「腹がいっぱいになって、ちょっとやる気が出ました。このぶんだと……」 「もう一ラウンド?」  ウィルクスは結婚相手の頬をつねった。力を入れてもう一度つねる。「痛い」と言ったハイドを無視して、凛々しい眉を吊り上げた。 「散歩にでも行こうかと思ったんです。おれ、ここに来てほぼベッドから出てませんから」 「不満?」 「……そういうんじゃないですけど。でも、さすがにしすぎかなって。だって……」  ウィルクスの言葉はキスで塞がれた。するとみるみるうちに、彼の体から力が抜けていく。芯が溶けて肉体が溶け、液体となって外に流れ出していく。弛緩し、恍惚となった顔でウィルクスは確かにそれを感じた。ハイドの腕に体をあずけ、太い樹の幹のように締まった腰に腕を回す。ウィルクスはそのままベッドに押し倒された。ガウンの合わせ目が広がり、胸元も下腹部もあらわになる。ハイドはちらりと自分の下に力なく伸びる体を見た。視線を這わせ、脚のあいだを見る。その目に、ウィルクスは赤くなったままぷるっと震えた。怯えた声で、「ご……ごめんなさい」と口走る。いいんだよ、とハイドは笑った。その目は狼のように据わりかけていた。  組み伏せたまま、彼は低い声でささやいた。 「しようか」  ウィルクスは目を逸らしたまま、またぷるっと震えた。 「か……カーテン、閉めて」  力なく訴えると、ハイドは「大丈夫だよ」とささやいた。ウィルクスはもうなにも言わなかった。ふたたび唇を塞がれる。ハイドはねっとりと舌を絡めた。ウィルクスも応え、舌に吸いつく。濡れた音を立てながらキスを繰り返し、それは相手の喉の奥を舐めそうなほど深く、貪欲になっていった。

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