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探偵と刑事とバラ・一

 十七歳の少年、ナイルズ・ワイルダーに出会ったのは、エドワード・ウィルクス刑事が仕事を終えて帰路についた午後九時四十分過ぎのことだった。  あまりいい出会いではなかった。なぜならナイルズは万引きをしようとしていたからだ。正確には中古のCDショップからCDをバッグの中に隠して、店の外に出た。ウィルクスはそれを店の中で見ていて、ガラスの扉を出たところで捕まえたのだ。 「なにするんだよ」  ナイルズはウィルクスに腕をねじりあげられて体をひねった。そうされながらもがき、顔を見ようとしたが、このときはウィルクスが刑事だなどと知らなかった。 「万引きはだめだ」  ウィルクスは職務で疲れた顔で、それでも表情を引き締め、腕でがっちりナイルズをつかんだまま言った。少年が叫ぶ。 「万引きなんかしてないよ!」 「いや、してる。バッグにCDを入れただろう? 見てたんだ」 「嫌なやつ」  その罵りも、本当に凶暴で危険な連中を相手にしてきたウィルクスにとっては、可愛い毒づきくらいにしか聞こえない。青年はさらに下品なスラングを吐いた。”くたばれ、淫乱野郎”。ウィルクスは手首に力を入れる。ナイルズがうめいた。どぎついピンクのネイルをした、若い黒人の女の店員が遠巻きに、心配そうに二人のことを見ている。  ナイルズは体をねじった。腕をねじる力が弱くなり、彼は戒めから抜け出す。ウィルクスに向き直ると、彼を睨んだ。そのとき、刑事の目と目が合った。  ナイルズの体がぶるっと震えた。彼は目の前の男に見惚れた。すらりとした長身痩躯、茶色い短髪の若い男。グレーのスーツ姿で、焦げ茶色の目をしている。騎士のように凛々しい美貌。睨み返してくる目は鋭くきつい。それでも、全身から立ち昇る大人の男の色香。ナイルズは確かにそれを感じた。左手の薬指にはまったシルバーの指輪に視線を走らせる。  ウィルクスも素早くナイルズを見た。はるかに訓練された、「観察」というのが正しい見方だった。  ナイルズ・ワイルダーはブロンドの髪に長めの前髪をした、華奢な男の子だった。きりっとした眉に、深みのある緑の瞳。下睫毛は長い。可愛い顔立ちだな、とウィルクスは思った。グレーのパーカーを羽織り、その下に黒いハイネックのカットソー、細身のデニムを履いている。袖で半ば隠れた左手の手の甲にはタトゥーが入っていた。祈りのポーズをとる黒人の男の両手と、桜らしき花を描いたもの。身長は百七十四センチ。ウィルクスと十センチは差がある。  二人の年齢もまた、それだけの開きがあった。  ナイルズは首を振り、汚れたスニーカーの爪先で、これもまた汚れた床をとんとんと小突いた。小さな声でつぶやく。 「……店の人?」 「違う。刑事」  目を見開き、ナイルズは「は?」とつぶやいた。 「刑事? マジで? どうしよう」 「盗んだものを返して、店の人に謝れ。だが、通報されても文句は言えないぞ」 「冷たい。ていうか、お巡りさん、顔キレ―……」 「は?」ウィルクスの目が冷たくなる。「からかうな」  ナイルズは慌てて首を横に振ると、「本気だよ」と素直に言った。ウィルクスが相変わらず冷たい目をしているので、「ごめんなさい」と謝る。刑事は威圧するような表情をふと緩めた。 「いっしょに謝りに行こう。な?」  こくりとうなずき、ナイルズは背中に背負ったバッグを胸の前に回す。しょんぼりしてカウンターにいる女店員の前に歩いて行く後ろから付き添いながら、ウィルクスはほっと息を吐いた。  ――結局、ナイルズは許してもらえた。奥から出てきた店長が、今回だけは特別に見逃すと言ったのだ。(この店では)初犯であること、ナイルズのしおらしい態度に抒情酌量してやった。ナイルズはたいして喜んだそぶりも見せず、ウィルクスにうながされるまま、「もうしません」と謝って店を出た。  万引きで捕まるという、不名誉なことになっても、ナイルズはあまり動じた素振りを見せなかった。ウィルクスはそれが気になる。ナイルズはさらりと、「初めてじゃないから」と言った。  ウィルクスは眉を吊り上げたが、なにも言わなかった。彼は思った。万引きは許されないことだ。だが、醜態をさらしても、この少年は落ち着いている。その姿をウィルクスは心の中で賞賛した。  そろって地下一階の店から出て地上に戻ると、ストランドの街はいつもどおりだった。店の前の、石畳の歩道の上に煙草の吸殻が散らばっている。ウィルクスは脇によけた。ナイルズは刑事を見上げた。 「お巡りさん、おれ、ナイルズ・ワイルダー。あなたは?」 「……ウィルクス」 「ファースト・ネームも教えてよ」 「エドワード」 「可愛い」  なにが、という顔をしたウィルクスに、ナイルズは慌てて言う。 「お巡りさん、もう会えないの?」 「きみがいい子にしてるなら、ああ、会わなくてすむよ」 「そうじゃなくて。『会えないの?』って言っただろ? 会いたいんだ。このへんの人? 携帯番号教えてよ」  ウィルクスは戸惑った。意外なことに、彼はこのはるかに年下の少年から口説かれていることに気がついていなかったのだ。「携帯番号は教えられない」ときっぱり言って、「このあたりに住んでるけど」と正直に言った。ナイルズは顔を輝かせる。 「ほんと? おれもこのへん。よく来る店とかないの?」 「さっきのCDショップにはたまに行く。あと、この隣のドラッグ・ストアにはよく煙草を買いに行く」 「じゃあ、いつかドラッグ・ストアで会えるかも。おれもさ、さっきのCDショップにもう一度のうのうと入っていく気はしないから」  そうだな、とウィルクスは笑った。ナイルズも笑顔になる。その顔を、走りきた車のヘッライトが照らしだして去っていった。利発そうな子だな、とウィルクスは思う。それが顔立ちにも表れていた。彼は両手をポケットにつっこみ、話しかけた。どうやらナイルズとは家が逆方向だと気がついていたのだ。 「働いてる? それとも、学校行ってる?」 「学校行ってる。大学行く予定だから、大学進学準備校に」 「へえ、どこ目指してるんだ?」  ナイルズの答えを聞いて、ウィルクスは素直に驚いた。そんなにレベルの高い大学だとは思わなかった。普通よりすこし上の大学を出て、そのまま警察学校に行ったウィルクスにとって、「法学を勉強して、将来は法廷弁護士になるのが夢」と語ったナイルズが眩しく思える。 「すごいな」ウィルクスは手放しで賛同した。「しっかりした目標があって。じゃあ、かなり勉強してるんだな」 「うん」ナイルズは少し面映ゆそうな顔になる。「成績はいいほうなんだけどさ。でも、弁護士になるのは難しいから、頑張らないと。たまにの息抜きでレッド・ツェッペリンのCD買い漁ってる」 「へえ、古いバンドが好きなんだな。レッド・ツェップ、おれも好きだよ。いちばん好きなのはボブ・ディランだけど」 「渋いね、ウィルクスさん」  ナイルズはにこにこして言った。ウィルクスも笑顔になる。それから穏やかな表情のまま、わかってると思うけど、と言った。 「将来を潰さないためにも、気をつけるんだぞ。いろいろと」  わかってるよ、とナイルズは小声で言った。それならいいんだ、とウィルクス。「じゃあな」と言って手を振り、歩きだそうとした。後ろからスーツの裾をつかまれる。 「ウィルクスさん」  ウィルクスが振り向くと、ナイルズのまっすぐなまなざしが一条の光のように彼の目に注がれていた。 「おれ、夢ができたよ。あなたと法廷で闘いたい」  ウィルクスはぽかんとしていたが、顔をしかめてかすかに赤くなったナイルズを見て、彼の肩にそっと手を置いた。 「ああ。そうなるといいな」  ナイルズはウィルクスを見上げて、きっぱり言った。 「自分が解決した事件の証人で法廷に立つあなた……きっと崇高で、美しいと思う」  そんなこと言ってくれるのはきみだけだよ、とウィルクスは笑った。  二人はそこで別れた。  その夜、ウィルクスは結婚相手と暮らしている自宅に戻った。十一時半を回っていて、夫が寝ていてはいけないと足音を忍ばせて二階の居間兼探偵事務所(ウィルクスのパートナーは私立探偵をしている)に入る。だが、夫は起きていた。  シドニー・C・ハイドはテレビで録画していた国営放送のドキュメンタリー(コナン・ドイルについての伝記)を観ていた。部屋に入ってきたウィルクスに気がついて顔を上げ、にこっと笑う。 「お帰り、エド。今日もお疲れさま」  ただいまシド、と答えて、ウィルクスも笑顔になる。疲労が溶け、少し体が軽くなる。ほんの少しだが、それでもウィルクスは幸福を実感した。もう慣れた光景で日常なのに、しみじみとよろこびを感じる。ウィルクスが二十八歳、ハイドが先月誕生日を迎えて、四十二歳になった春のことだった。  二人はハイドが座るソファの前で、しばらく黙って抱きあっていた。ウィルクスはハイドの体温と体の厚みと匂いを味わったあと、体を離して言った。 「今日の帰り、万引きしてた男の子を捕まえたんですよ」 「危ない目に遭わなかったか?」  ハイドが心配そうな顔をすると、ウィルクスは笑った。 「あなたが考えてるような子じゃない。素直ないい子でした。店の人に謝って、盗んだものも返した。初犯じゃないのが心配ではあるけど。……将来は法廷弁護士になりたくて、勉強してるそうです。おれと法廷で闘いたいって」  ハイドは目を丸くする。 「なんだ、それ。ロマンティックですてきじゃないか」 「すぐに忘れるとは思うけど、まあ、それで少しでも勉強してくれたらなと思いますね」  忘れないよ、とハイドは胸の中で思った。闘うきみの崇高な姿を見たいという夢は、忘れられるものじゃない。ハイドは口には出さなかった。にっこり笑って、ウィルクスの手の甲を優しく叩く。 「疲れたな。ごはんにする? 先にシャワーをしてきたら、そのあいだに用意してるよ。今日は牡蠣のグラタンにしてみた」  シャワーしてきます、と言って、ウィルクスは軽い足どりで部屋から出ていった。

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