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探偵と刑事とバラ・三
それから時間が経ち、木曜日。
ウィルクスは八時四十分過ぎにドラッグ・ストアに到着した。ナイルズはもう帰ってしまったろうと思っていたが、彼は玄関脇の灯りの下で待っていた。ウィルクスの姿を見て目を輝かせる。刑事は駅前で買ったマンゴー・プリンの箱を持っていた。
「うわ、うれしいな。ウィルクスさん、甘党?」
「けっこう好き」
わいわいそんなことを言いながら、外を歩く。春のあたたかい夜。空気がどこか軽やかだった。平日で、派手にはしゃいでいる人間はいない。みんなどこか疲れて、あるいは家に帰るのが楽しみで、コートのポケットに両手をつっこんで歩いていく。煙草を吸いながら歩くサラリーマンたち。ヒールを鳴らして歩く女たち。猫が塀の影に消え、車のヘッドライトがすべっていく。
穏やかで、いい夜だ。ウィルクスはそう思った。
ナイルズの家は、セント・メアリー・ル・ストランド教会のほど近くにある。教会の時計が午後九時過ぎを指していた。彼は鉄の門を開け、ウィルクスを玄関に案内した。石造りのアーチの下にある玄関扉に、番地のプレートがついている。扉は真っ黒だ。ナイルズは鍵穴に鍵を差しこんだ。ウィルクスが後ろから覗きこむ。
「親御さんは?」
「今日はいない。結婚式に行ってて。……入って」
ウィルクスはおとなしく中に入った。ナイルズが玄関の電気をつける。玄関はごちゃごちゃしていた。床拭きのモップがあるかと思えば、玄関脇のテーブルには手紙が散乱し、床に落ち、車のキーもぞんざいに放置されている。洗われたビール瓶がぎっしり詰まったプラスチックの箱が隅に置かれていた。その上には脱いだパーカーがかぶさっている。
「汚くてごめん。ちょっとは掃除したんだけど。母さんも父さんも、こういうのほんと苦手なんだ。おれもだけど。ウィルクスさんはきっちりしてそう」
「掃除は好きかな」ウィルクスは床に放られている古びた犬のぬいぐるみを危ないところでまたいだ。「ハイドさんも片づけする人で、むしろあの人の部屋はいつも殺風景だよ。だからこういうのも、けっこう落ち着く」
よかった、と言って、ナイルズは彼をキッチンに案内した。そこはまだ片付いていた。冷蔵庫にウィルクスから受け取ったプリンをしまい、ダイニングルームに置かれたソファのほうに手を振った。
「ウィルクスさん、スーツ脱ぎなよ。適当にハンガー使って。おれ、ポップコーンの準備する。あと、エプロン貸すね」
コートとスーツを脱ぎ、ワイシャツ姿でエプロンをしたウィルクスは、本人曰く「初めての格好」だった。それを見て、ナイルズが言う。
「似合ってるよ、ウィルクスさん。なんだか、大人の男の色気を感じる」
「なんだ、それ」そう言ってウィルクスは笑った。
二人はナイルズが買っておいた、サーモンとケッパーのサンドイッチをつまみながらポップコーンをつくることにした。「親がオッケーしてるから」とナイルズが言って、彼はビールも飲んだ。ウィルクスもグラスについでもらい、飲む。疲れた体に、仕事帰りのビールが喉を潤す。ふと、シド、なにしてるのかなと思った。この時間なら食事中か……食後で、一息ついているところだろう。仕事が詰まってきたって言ってたから、パソコン触ってるかも。
ぼんやり考えるウィルクスに、フライパンにバターを溶かしていたナイルズが言った。
「どうしたの、ぼんやりして」
「なんでもないよ」とウィルクスは慌てて言った。ナイルズはウィルクスを昔ながらの火がつくコンロの前に引っぱっていって、「ちゃんと見ててよ」と言った。
「豆、入れたらすぐに弾けるんだって」
わかったよ、と言ってウィルクスはナイルズのそばに寄る。狭いキッチンで、しばらく沈黙が落ちた。
ナイルズがつぶやいた。
「ウィルクスさん、でかいね」
ウィルクスは少年を見下ろす。
「ん……まあ、でかいかな」
「でかいよ。何センチ?」
「百八十四とか五とか、そのくらい」
「おれより十センチもでかいの? なのに、可愛い」
「可愛い?」ウィルクスは苦笑する。「いちばん縁遠い言葉だな。でかいし顔は強面だしで、怖いって言われる」
「可愛いって言われないの? ハイドさんからも?」
ウィルクスは沈黙した。思いはまた、夫のほうに向かう。
「……いや。あの人は、可愛いって言ってくれる」
でも、どうしてそんなことを? ウィルクスは横を向いて尋ねた。ハイドの言葉が脳裏に浮かぶ。――「惚れられてるかも」。まさか。ウィルクスはそう思った。おれなんて好きになるはずがない。それは卑下でもあったが、どちらかというと、単に意外だったからそう思ったのだ。
ナイルズは答えなかった。豆が弾け出し、二人で慌てて蓋をする。間に合ったと言って、お互い笑った。
ポップコーンができると、味付けはシンプルに塩にした。ナイルズが味付けして、一口つまむ。
「うまい」
目を輝かせるナイルズにウィルクスは笑った。少年は手に、大量にできたポップコーンをすくった。
「あーんして、ウィルクスさん」
「自分で食えるよ」
「いいから、あーん」
あーん、と開けたウィルクスの口にポップコーンを入れる。閉じた口に、ナイルズはキスをした。
「んむっ」
ウィルクスは口の中にポップコーンを入れたままもごもごする。ナイルズは唇を離すと、真剣な目でウィルクスを見つめた。初めて出会ったとき、彼の目を見つめたひたむきな一条の光のように。
「ウィルクスさん、おれ、あなたが好きです」
ウィルクスはなんとかポップコーンを飲みこんで、呆然として目の前の少年を見つめた。
「あなたが結婚してるのは知ってる。でも、諦めきれない。おれなんか、子どもだと思うかもしれない。でも……好きなんです」
ナイルズはこわばった顔で、両腕を体の脇につけたままウィルクスを見上げた。そのとき、ウィルクスは自分よりも小柄で華奢なナイルズのことがなぜか大きく見えた。
「ウィルクスさん、あの」ナイルズは凛々しい顔つきでささやいた。
「おれ、エッチ下手だと思うし、正直男と寝たことはまだないんです。でも、頑張ります。あなたがしてほしいと思うこと、します。優しくします。心を込めて優しく。だから、いっしょに来てくれますか?」
そのとき、ウィルクスはやっと呪縛が解けた。体を揺らし、「気持ちはうれしい」と穏やかに言った。
「そんなにも、おれのことを慕ってくれて。でも、できない。おれは結婚してる」
「わかってる。でも……」
「シドのことが好きなんだ」
「おれよりも?」
「きみのことも、おれは好きだ。でも、シドとはまた違う。彼は、その……性愛的に、パートナーとしても、好きなんだ」
「『友情と恋愛は一つの根から生えた二本の植物である。ただ後者は花を少しばかり多く持っているにすぎない』……ってこと?」
ウィルクスはわからなかった。ただ、こう言った。
「おれは、今はシドのものなんだ。肉体も心も。彼とくっついていて、そこから剥がされるのは痛いんだ。血が出て、おれは死んでしまうんだよ」
そんな愛はありえないとナイルズは思った。小説や映画に出てくる、ロマンティックな夢だ。しかし、断言することはできなかった。目の前の男は「なにか」を知っているのかもしれない。そういう愛の姿なんかを。
ナイルズはふうっと息を吐いた。うつむいて、「でも、好きだよ」と言った。
「おれ、諦めないから」
「おれの答えも変わらないよ」
「潔い人だね、ウィルクスさん。わかってたんだ。あなたがそう言うこと。だって、幸せそうだった。ドラッグ・ストアで会ったとき。でも」
諦めないからね、とナイルズは言った。ウィルクスは「わかったよ」と答える。それからつけ足した。
「もう、帰ろうか」
「いいよ。ポップコーン食べていきなよ。おれ、一人じゃ食えない」
ナイルズはそう言って笑った。
○
その夜、ウィルクスとナイルズはポップコーンとプリンを食べ、映画を観た。『ローマの休日』。二人で熱中し、オードリー・ヘップバーンのチャーミングな魅力にぼうっとなり、その結末にため息をもらした。それだけでなくウィルクスが涙ぐんでいるのを見て、ナイルズは黙って彼にティッシュペーパーを渡した。
夜十一時をまわり、ナイルズはウィルクスにスーツを着せた。黙って出ていく彼の背中を、少年は見送る。玄関で、ウィルクスは振り向いた。
「じゃあな、ナイルズ。勉強頑張れよ」
「わかってる。あなたと法廷で闘うんだ」
「覚えてたのか」
「覚えてるよ。ウィルクスさんこそ忘れないで。おれ、あなたをたたきのめす。そして白いバラをたむけるんだ」
「ロマンチスト」
ウィルクスが笑うと、ナイルズも笑った。
「おやすみなさい、ウィルクスさん」
彼はそう言って、扉を閉めた。
○
その夜ウィルクスが家に帰ると、ハイドはまだ起きていた。居間のソファに座っていたが、風呂上がりらしくパジャマ姿で、半ば白髪になった黒髪は少し湿っている。
「きみが帰ってきたから、急いでドライヤーしたんだ」
そう言ってハイドは笑っていた。
ウィルクスの唇に軽くキスしたあと、コートを脱がしてやりながら尋ねた。
「ナイルズとは、どうだった?」
ウィルクスは告白されたことを言わなかった。きっと心配するだろうと思ったのだ。代わりに、笑って言った。
「おれをいつか法廷でたたきのめすって言ってました。それから、白いバラをたむけるって」
「ロマンチストだ」
「おれもそう思う」
「その気持ち、わかるよ」
え? という顔をしたウィルクスを抱きしめて、ハイドは言った。
「きみを愛する人はみんな、似た者同士だよ」
大柄で逞しくひねくれたところのあるハイドと、彼よりはるかに小柄で素直なナイルズ。ウィルクスにはわからなかった。
それでも夫がそう言うならと、腕に抱かれたまま目を閉じた。
ウィルクスはナイルズと今でもときどきドラッグ・ストアで顔を合わせる。そして、「法廷のあなたにどれだか近づいたか」を聞くのだ。
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