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第2話 経緯

 それは十日前の出来事だった。 「おい見つけたか! ちっ、どこに隠れやがった。見つけたら手始めに指を何本か犬に喰わしてやるからなあっ!」  裏路地に飛び交う怒号が、息をひそめる譲の鼓膜に轟いた。  今のところは逃げられているが、松葉杖をつきながらの逃亡などすぐに見つかってしまう。 (脚が・・・くっそ)  譲は左脚の大腿部を拳で叩く。 (帰国してから、毎日が踏んだり蹴ったりだ)  譲の一家は移民だった。  父と母が結婚を機に当国ロイシアに渡り、譲を含む五人の子ども生んで育てていた。  裕福とは言えなかったけれど、両親は祖国で培った技術や知識を活かし会社を興して、生計を立てていたのだ。  そんな時。ロイシアとダビィ海峡を挟んで対立する大国、べコックが戦争を仕掛けてきた。  同等の軍事力を有する両国の争いは長期化し、開戦して三年後ついに一般市民から兵士の召集が始まった。最初の招集は志願制だったが、兵士を出さなかった家族に対する周囲の目は冷たく、十四歳を迎えた譲は志願して兵士になった。  大黒柱である父を行かせるまいと考えての決断だ。  譲は陸軍と海軍のそれぞれの後方支援隊を転々とさせられたのちに前線に送られ、銃弾を受けて重傷を負った。脚を吹っ飛ばされ敵国べコックの捕虜となり、しかしそうなったお陰で命びろいをした。  まだ『子ども』だった譲にべコック兵士は情けをくれたのである。  ロイシア人ではない顔立ちが、さらに実年齢よりも幼く見えたのだろう。  延命治療と、わずかな食べ物を与えられて生きながらえ、ようやく終戦を迎えた一ヶ月前に譲はロイシアに帰国を果たしたのだった。  その頃の譲は十九歳。  譲が出兵した日から、五年の月日が経っていた。  和平協定が結ばれたとはいえ、ロイシアは戦争のために国費を注ぎ込んでいたので、平民たちの暮らしはボロボロだった。大切な家族を兵に奪われて、暮らしていた場所を焼き払われて、国の復興は長い道のりに見えた。  それでも譲の心は明るかった。家族のもとに生きて帰ってこられたのだ。  もう二度と顔を見ることは叶わないと諦めていたが、神様が左脚と引き換えに家族との再会の機会を与えてくださったのだと思っていた。  しかし、そうではなかった。  譲の家はすでに無かった。  家族が住んでいるはずの家は崩れて潰れていた。近所の家も同様に、身元不明の遺体がそこら中に散らばっていたのである。  譲は病院を渡り歩き、家族を探したが、誰一人として見つけられなかった。唯一残ったのは崩れた家の瓦礫の下に埋まっていたアルバム。  いつか家族で行こうねと話していた、両親の祖国が映った写真と、家族の笑顔が詰まったアルバムだ。  まだ見ぬ遠い祖国。死んでしまった家族。譲はこのアルバムを抱えて、無惨に変わり果てた家を後にした。  父の友人だという男と出会ったのは、その間もなくだ。  ニコライと名乗った彼は、自身は父の会社経営仲間であり、戦争が落ち着いた今再び事業を再開したいと申し出てきた。  家族の不幸を聞いたニコライは、息子である譲が生きているならば、譲が会社を継ぎ社長となるべきだと言った。父の意志を継ぐべきだと三日三晩に渡って熱弁を奮った。  満身創痍で家族を失い、未来さえも失ってしまったかのように消沈していた譲は、彼の声に胸打たれる。上っ面だけの言葉に励まされて、馬鹿みたいに彼の言うまま書類にサインをしてしまった。  父と違って、譲に経営の知識なんて無い。  これから学んでいこうという時に国の情勢が悪くなり、兵士になろうと決意させられたのだから。  譲はまさかマフィア絡みの金の借用書だと気づかず、多額の借金を背負わされることになったのだ。

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