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第3話 酒場

 そうして追われて半日。夜が明ける前に街を出ないと殺される。  ロイシアにいる限り追われ続け、時間稼ぎ程度にしかならないとわかっているが、それまでにどうにか金を返す算段を立てなくてはならない。  譲は身を隠していた酒樽と木箱の陰から立ち上がった。 「ぁ、うわ」  支柱を失った身体がよろける。  松葉杖が引っ掛かっていた。譲は転び、地面に顎を打ちつける。 「っ、く、痛」  舌を噛んでしまい、血が滲んだ。  涙が出てきそうになるのを堪える。  可哀想に大丈夫よと、慰めてくれる母はもういない。  平気だから立ちなさいと、手を引いてくれる父ももういない。  兄ちゃん、兄ちゃんと、一緒に歩いて走ってくれる兄弟姉妹ももういないのだ。 (ひとりで生きていくんだ・・・・・・。いい加減、覚悟を決めないといけない)  溜息をついて身体を起こす。  譲は歯を食いしばって街を抜け出し、次の日の夜にカルヌという街の酒屋に立ち寄った。  酒を提供する店を選んだわけではなかった。どちらかといえば、繁華街なので危険だったろう。けれども、楽しそうな笑い声と食べ物の匂いにつられてしまったのだ。  幸いに店内は譲と同じ元負傷兵で溢れていた。  腕を失くしていたり、脚が無かったり、眼帯をしている者だっている。  知らないあいだに他国移民が増えたようで、客たちの人種も様々だ。  両親の祖国の人間もいるかもしれない。  譲が知っている祖国は、大きな海の向こうで、ぽつんと浮いた小さな国という情報しかない。しかし戦場で出会った数人の同郷兵士は共通点があって、黒髪に黒い瞳、童顔寄りで年齢相応には見えず、屈強なロイシア人べコック人に比べて華奢だった。厳しいメニューをこなして鍛えていた職業軍人でさえ、しなやかな曲線美で同性の目を惹いていた。  顔立ちこそ華やかさに欠けるが、譲も兵士時代は幾度かそのような熱っぽい視線を感じたことがある。危ないと感じた時は、気づかないふりをしてやり過ごしてきた。 (・・・・・・けど、ここじゃ上手く交わすのも難しそうだ)  さっそく、譲のテーブルに男が相席をしてきた。 「すみません。このテーブルは俺が使っていて」 「知ってるさ。君も本当は期待してただろ? これからどう?」 「いえ・・・。俺は帰るところで」 「そんなこと言わずにさぁ。俺はあんたみたいな顔が好きなんだ。可愛い面をぶら下げて店に来てるってことは、毎晩男を漁って食いまくってんだろ?」  面倒くさい男に目を付けられてしまった。  はっきり言って今の譲は可愛いと評される容姿ではない。髭も生え、髪の毛も伸ばしっぱなしだ。 「夜の相手を探す店だとは知らなかったんです。俺の性嗜好はノーマルです。申し訳ないですが他をあたって下さい。今後は店には来ないようにしますから」  譲は頭を下げる。下手に断り方を間違えれば、激昂されかねない。  でもできれば祖国を知っている人と話をしたかった。  ロイシアを出て逃げるなら、両親の祖国にすると決めていた。 (頼む、引いてくれ) 「その辺にしてあげたらどうかな? 彼は本当に知らなかったみたいだよ」  必死の祈りが通じたのだと、この瞬間は信じた。  譲に助け舟を出したのが教授だ。   「何だテメェ、チビのおっさんは引っ込んでな」  ナンパ男が教授の胸ぐらを掴む。 「いやいや割って入って申し訳ないね。よろしければ僕が別の男を紹介するよ。とびきりの可愛い子だよ」  すると教授が見せたカードに、目の色が変わった。 「ふぅん、乗った」 「では店の店員にそれを見せなさい。VIPルームに案内して貰えるはずだ」 「へぇ、悪いな、ありがとよ」  嬉しそうに返事をしたナンパ男は、店の奥に消えた。  唖然として見守っていた譲はハッとする。 「あ、ありがとうございます。何かお礼を」 「礼なんてとんでもない。大したことはしていないよ。だが、よければ少し付き合ってくれるかい? ひとりで飲むのは寂しくてね」 「それなら。もちろん、お付き合いします」  譲は頷いた。  教授の名前は猪羽利吉(いば としき)といった。  美術大学の専任教授をしており、学生たちに絵画を教えているそうだ。  驚いたのは年齢。 「さっきの男は猪羽さんのことをおっさんって言ってましたけど、失礼なやつですね」  ほろ酔いになった譲は訊ねる。 「事実だよ。彼は僕の実年齢を知っていたらしいね」 「ええ? おいくつなんです?」 「四十過ぎのおじさんさ」 「えっ、あの、もしかして」  譲は祖国の名を口にする。 「ああ、そうだよ。君もでしょう? 一目でわかったよ」 「なんだ・・・そうだったんですか。はは、はははっ」  譲から肩の力が抜ける。  教授は笑いながら人差し指を出すと、チッチッチと左右に揺らした。 「同じ祖国の血が流れているけれど甘いね。譲は上背があるし、顔立ちもシュッとしてて、まだ僕よりマシでしょ。僕なんて未だにお酒を買う時に怪しまれるんだよっ! 酷いと思わないか?」 「ははは、困りますね。俺もちょっと気持ちわかります」  小柄な体型。柔和そうな丸い顔。人懐こい人柄。  特に共通の話題に絆されて、譲はすっかり騙されていた。 「・・・・・・借金? 大変だ。僕でよければ協力させてくれないか。せっかくの同郷のよしみだ。力になるよ」  夜がふける頃、悪魔の囁きに譲は頷いてしまった。  心地よい気分に乗せられ、あまつさえ感謝までしていたのだった。

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