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第5話 公爵家の紳士
譲はやり取りを聞きながら、これはまるで命令だなと感じた。
(こんな時に司令官の指示を思い出す・・・)
絶対服従の命令だった。皮肉を持って言い崩すなら、あの頃の譲は、自らも鉄砲玉となり鉛玉と心中して来いと指示されて死地に向かったのだ。
(けれど、俺は助かったのだろう。戦地でも、今も)
二度と教授は譲に触れることはなかった。
売買書にサインをさせられ、小切手を握らされると、足早に立ち去った。
人は全て出払い、室内はひっそりと静かになる。ヴィクトルは譲に歩み寄るとジャケットを脱いだ。
「・・・・・・あ、り、がとう、ございます」
譲は掠れた声で礼を言う。
「着なさい。迎えの者が来るまで待つ」
「・・・・・・俺は平気です。自分で帰ります」
「帰る必要はない」
「えっ」
「譲と言ったかい。譲は私が買った。すでに私の所有物である」
「それは、えっと、俺は奴隷ではありませんが」
「当然だ。私は奴隷を買った覚えはないよ」
「えっと、え・・・・・・」
話が通じない。違うのか・・・自分が貴族社会の常識を知らないだけなのかもしれない。
貴族では、奴隷身分じゃない人間の売り買いも普通なのかもしれない。
「屋敷についたら、まずは医師を呼ぼう。食事はしたかい? 食べられない物があれば今のうちに教えなさい」
「へ? 有りませんけど」
「そう。では疲れただろうからしばらく寝ていなさい。寝ている間に下半身を楽にしておいてあげるよ」
はたと気づいて、譲は顔を真っ赤にした。
「い、いえ、これは自分でっ」
しかし体勢を起こそうとしてガクンと腰が抜けた。
「いいから。今は甘えなさい」
「すみません」
よくわからないが、奴隷に対するには優しすぎる対応だった。
何を求められているのかという恐怖が付き纏ったままだが、警戒心は倦怠感で解けてしまった。
「眠っていい」
と言われたのを最後に、譲の抵抗する気力はぷつんと途切れた。
◇◆
「おはよう譲、起きて」
柔らかな声に起こされて譲は瞼を開けた。陽射しが眩しい。こんなにぐっすりと眠ったのは、思い出せないくらいに昔の気がする。
「俺は、」
ぽかんとした後に、口を押さえた。
「今は何時ですか?」
「もう朝だよ。譲はあれから目を覚まさなかった」
「朝・・・・・・」
ヴィクトルはベッドのわきに腰掛けて笑っている。
公爵を目の前にして本気で眠りこけるなんて。失礼を謝ろうとして異変に気がついた。着せられていた衣服はありふれたシャツとズボンであったが、譲の手首脚首に枷が嵌っていたのだ。
革製のベルトのようなタイプではなく、頑丈な鉄でできた枷。自力で外すのは困難だ。
「これは?」
「見ての通り」
「え?」
「必要な時に使用するから、普段は気にしないでいい」
「使用?」
「すごいおうむ返しだ。子どもみたいで可愛いね譲」
「あ、すみませ・・・」
「いいんだよ。正しい言葉使いはこれから覚えて行こう。枷はこうやって鎖で繋ぐことができる」
ヴィクトルは譲の手を取り、手首の枷にベッドに固定された鎖を繋いだ。
「枷と枷を手錠みたく繋ぐことも可能だよ」
「つまり、俺を拘束したい時に使用する・・・・・・?」
「察しがいい。御名答だ」
譲は手首を上げた。鎖が音を立てて揺れる。
長さにゆとりがあって、自由を奪われた印象はあまり受けない。
木漏れ日と、清潔な白いシーツ。豪奢な天蓋つきベッド。ソファセットとテーブルが完備された広い部屋。何より部屋の中が穏やかで、ヴィクトルの口から発せられた言葉が、聞き覚えのない異国語だったんじゃないかと思うくらいだった。
それこそ違う世界から過って迷い込んで来てしまったような言語に聞こえた。
(目に見えている光景が信じられない。冗談だと言われた方が信用できる)
哀れな元兵士を助けてくれて、今も柔らかく微笑んでいる公爵。自分の目がおかしくなったに決まっている。
「知らぬうちに頭がやられたのか」
幻覚や幻聴は珍しい症状じゃない。譲は頭を抱えた。戦場で生死のふちに立たされるのも凄まじく恐怖であったけれど、昨日のあれもまた鮮烈な痛みとして残っていた。きっと忘れられない。一生消えない傷になった。
「大丈夫。譲の身体は健康だった。だが心配なら別の医師を呼んて診てもらおう。朝食を取ったら手配しておくよ」
「・・・・・・すみません」
何から何まで極上のもてなしだった。
最高級のパン、ミルク、スープ、スクランブルエッグ、ベーコン、サラダ。それらがぴかぴかの皿に盛り付けられ、ワゴン台に並んだ。
枷をつけられたままで、ベッドの上から降りるのを禁止され、食事は雛鳥のように公爵の手から食べさせられたというのに憤慨するのも忘れる。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「それは良かった」
ゆえに余計に、譲の頭は混乱させられていた。
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