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第6話 涙

 ヴィクトルは真っ白な布巾で譲の口を拭い、ワゴンの上を片付ける。  公爵の屋敷なのだから、お手伝いが五万といるだろうに。わざわざヴィクトル自らが家事をする必要もない。  家事で手を煩わせてよい立場の人間じゃないのだ。  いけない真似をさせている気分でそわそわする。 「あの、俺が自分で」  昨日から再三訴え続けてきたことだが、今回も「駄目だよ」と却下された。 「譲は寝ていなければね。私がやりたんだ。やらせておくれ」  ヴィクトルは楽しそうに目を細めた。  やはり状況と言動がアンバランスすぎて、言葉の意味を素直に呑み込めない。  譲は顎を掻く。いつもより伸びた無精髭が指を撫で、そこにヴィクトルの視線を感じた。 「その髭は伸ばしているのかな? こだわりがなければ後ほど剃りたいんだが」 「こだわりがあるわけでは。剃る余裕がなかっただけで・・・。あとは襲われないためにもこの方が良くて」 「そうか。では剃っても構わないね? 譲に髭は似合わないと思っていたんだ。髪は伸びていても似合っているから、手入れして伸ばそうか」  ヴィクトルの手が譲の髪を梳く。ヴィクトルは上機嫌だ。 「髪は邪魔なので切っても構いませんけど。これも切る機会がなかっただけなので」 「いいや。切らない方がいい。譲の繊細な顔立ちに、長めの黒髪は似合うよ。しかし、わかったよ。邪魔になってしまうなら、今の鎖骨までの長さよりは伸びないよう考慮しよう」 「そう、ですか。ありがとうございます。ではお任せします」  会話のやり取りに潜んでいる違和感は何だろうか。  昨日と比較すれば成立しているかに思えるけれど、譲は居心地の悪さを感じた。 (この人は俺をどうしようとしているんだろうか)  譲の脳内には疑問が浮かんでいた。  目の前の男のやりたいように、言いなりになってやれば、一先ずは問題ないのだろう。考えるべきは身の安全。譲は口をつぐんだ。  その後ワゴンを戻して、当然の顔つきで部屋に帰ってきたヴィクトル。  椅子に腰掛け直すと、「さて」と話を始めた。 「眠っているうちに、譲の身辺を調べさせて貰ったよ」  譲は唾を呑み込み、顔を上げる。 「大変だったようだね。多くの不運に見舞われて、これまでよく頑張った」 「俺は別に・・・・・・何もしてないです。何も出来なかった。俺だけ生き残って、騙されて、金貨一枚さえも稼げなかった」  戦場を生き延びたのも他人の力のお陰だ。自分で行動した結果ではなく、敵兵士の情けがあったから。たまたま敵兵士の中に、子ども好きのお人よしがいてくれたお陰。  ロイシアで暮らす家族を銃弾から守りたくて兵士になったのに、無様に片脚を失くして帰国した。  とっくに家族は戦争に巻き込まれて犠牲になっていたとも知らず、ノコノコと戻ってきたのだ。  譲は膝の上で拳を握り締めていた。無意識だった。拳の上にポタポタと雫が落ちて我にかえる。汗ではないだろう。悔しくて。悲しくて。苦しくて。堪えていたものが、ドッと溢れた。 「すみません・・・すみません・・・・・・。俺、」 「何を謝る。君は精一杯生きた。私は譲が生きていてくれて嬉しいよ。こうやって出逢えた。奇跡のようだ」 「・・・・・・公爵」 (何だ。良かった。居心地の悪さは思い違いだったんじゃないか)  こんなにも献身的になってくれる良識人を疑うなんて、心底自分が嫌になる。譲は自己嫌悪し、己れの性格の悪さを嘆く。自分に降りかかった不幸と、悪質な人々に騙された過去はこの人には関係ない話なのだ。 「私は譲を救ってあげたい。考えたんだが、君をこの世から抹消することにしたよ。晩のうちに手回しはすでに済んでいる」 「はいっ、ありが———、?」  譲は瞬きをする。 「すみません、もう一度お願いします」

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