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第8話 怒り【2】

「いつ、俺は帰して貰えますか? お金は必ずお返しします」  恐る恐る、訊ねる。 「まだ言ってるのかい? 譲は私の所有物だよ。そもそも何処に帰るつもりだい?」 「しかし、公爵にお世話になり続けるのはおかしいですよね?」 「いいや、ちっとも」 「・・・っ、確かに公爵があの場で俺を買ってくれたお陰で、俺は助けられました。ですが、クラブ会員達を上手く言いくるめるための常套句だったと理解しています。俺は一般平民ですし、人権だってあります。もう戦時中じゃない。奴隷制度もずっと昔に廃止されてます。人が人を所有するのはあり得ないです」  譲は疑問に感じていた思いの丈を全て吐き出した。 「ああ。君にひとつ謝らないといけないことがある」  ヴィクトルは溜息をつく。 「先ほどの話の補足になるのだけどね、譲の借金のかたの付け方は実は後から考えた案ではないんだ。譲を買うと決めた時点からそうする予定で、使えそうだから利用したのさ」 「最初から俺を消すつもりでいたのか・・・?」  譲の顔から血の気が引き、落ちた視線がシーツの上を彷徨った。 「文字通り、譲は死んだ」  そう始まり、ヴィクトルはつらつらと言葉を並べる。 「戸籍や登録住所等もろもろの役所関連の書類は書き換えさせて貰ったよ。ロイシア国籍を持つ賀伊譲という人間は死亡した。現在は、この世の何処にも存在しないんだ。外に出たとして職を得るのも難しいだろうね。マフィアに生きている顔がバレたら、再び逃亡生活のスタート。譲は生きるために最も安全な私の管理下で生活するしかないんだよ。譲は私のもの。犬や猫、ペットと同じだと考えてくれ。人間だから、喋る人形かな? 君の全ての権限は私の庇護下に置かれたんだ」 「馬鹿な・・・あり得ない。そんなことできないっ!」 「そうかい? じゃあ、試しておいで」  ヴィクトルの声は何処までも冷静だった。 「大丈夫だよ。危なくなる前に助けてあげるから」  とにっこり微笑まれ、譲は狂気を感じた。 「・・・・・・酷い。酷い。どうして戦争が終わってもこんな目に遭うんだ。あんたの言うことを聞いたって失ってしまった大切なものは戻ってこないのに」  どんなに苦しい事柄に耐えたとしても、千切れた脚も、燃える家屋に潰されて焼かれたであろう家族も決して戻ってはこない。  もう充分、頑張った。抗った。  自身を待ち受ける絶望に耐える意味なんて、譲にはもはや無い。  ヴィクトルは譲の主張を否定しなかった。 「だが譲、減ることもないと私は思うよ。私は最大限に君を可愛がる。私の元にいれば、今以上に君は他人から何かを奪われる心配もない」 「は?」 「よく考えてごらん」 「減ります・・・心が、精神が、すり減ります」 「ああ、なるほど。確かにその通りだ。でも君が期日までに借金を返せなければ、君は差し出せるモノ全てを(むし)り取られるだろう。自殺する機会も与えられず、さらに酷い仕打ちを受け、男娼として使い物にならなくなれば、血液、臓器、眼球、睾丸、最後は心臓かな? 楽に死ねないと覚悟しておきなさい。心なんて言ってられなくなるよ。そっちの方がいいのかい?」  昨日の陵辱された記憶が甦った。  譲は強く唇を噛む。言い返したいが、言葉が出てこないのだ。  無駄に血だけが滲んで、唇と歯を赤く染める。吐き気をもよおす色。鉄臭く、不味い血の味。慣れっこになった味が、しかし生の証でもあった。 「私は誰に対しても優しいわけじゃない。私の庇護からどうしても抜けたいと言うなら、仕方ない考えよう」 「・・・・・・人間のカスめっ、お前なんか死んじまえっ」 「ははは。いいよ。怒りや憎しみだって譲の一部。私は譲の全部に大金を支払ったんだ。そうでなくちゃ面白くない。これからよろしくね、譲」  譲は返事をしなかった。 「うん。今日のところは、まあいい。後ほど入浴させに来るから、それまで身体を休めていなさい」  ヴィクトルは譲の髪を掬い上げて口づけ、部屋を出て行った。  部屋の鍵がカチャリと廻る音がする。  譲は脱力して、包み込むような上質なベッドに沈んだ。  無駄、無駄、無駄。・・・部屋に在るもの全部が無駄。  これだって無駄に柔らかいだけ。  けれど気落ちした心には、今はそれだけが救いだった。

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