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第9話 軟禁調教生活のはじまり・抵抗

 それから数時間後、譲の額には痣ができていた。唇の横にも擦りむいた痕が。腕にもうっすらと血痕がある。明らかな乱闘の傷痕を見て、駆けつけたヴィクトルは残念そうに苦笑した。 「傷が消えるのに時間がかかるかもしれないね。全く無茶をする。まだ逃げ出したかった?」 「休めと言われたって眠れないから散歩しようと思った。ドアは開かないし窓からしか出られなかった」  部屋は一階にあり、出ようと思えば簡単にできた。だが公爵家の屋敷には番犬がいた。庭に放たれた逞しいシェパード犬が、敷地内の静寂を破った譲に群がったのである。  すぐにヴィクトルに発見されたため大事には至らず、譲は部屋に戻され、犬にやられた怪我の治療を受けた。 「いててっ、っ」 「危なかったよ。彼らは優秀な番犬。侵入者を噛み殺すのも容易(たやす)い」 「先に言っといて欲かった」  譲はツンと顔を逸らす。 「・・・・・・うん。すまなかったね」  こうだからだ。これだから、こんがらがる。ヴィクトルという男は基本的に常識人で優しい。立場に関係なく、悪いと思えば謝罪を口にする。  譲はベッドで一人考えている時にパニックに陥った。再び現状が信じられなくなり、いた堪れなくなって部屋を抜け出そうとしてしまった。  外に出ればマフィアに殺されるかもしれないけれど、得体の知れない公爵の近くにいるのも怖い。  むっつりと表情を曇らせていると、腕を持ち上げられる。何だろうと思って見ると、ヴィクトルは譲の両方の手首に鎖を繋いだ。 「何をするっ」 「罰だよ。危険なことをしでかした罰。夕方までは君を拘束する。大人しくしているんだ。私もここで仕事をする」 「ふざけるな、外せ! 外せよ!」  譲は鎖をゆすったが、虚しく金属音が響いて終わった。  諦めた譲は俯く。 「拘束される前にトイレに行きたい」 「そうか。気がつかなくてすまなかったよ。ずっとおしっこを出していなかったからね」 「・・・・・・くっ」  露骨な表現をされて、頬を染める。 「行きたくなるたびに、いちいち言わなきゃいけないのか」 「ああ、大事な行程なんだ。頼むよ」  ヴィクトルは一度繋いだ鎖を外し、「おいで」と譲の両脇に手を添えた。 「は? 松葉杖が欲しい」 「松葉杖はいらない。私が支えて行こう」 「い、いいっ、それなら這って行くからいい」 「譲、それは許さない。私の同伴が気にくわないのなら、夕方まで我慢していなさい」  断とした口調で言われ、譲は怯んだ。  しかし直後に顔つきを変え、鋭く睨みを利かせた。 「あー、わかったよ。我慢してやる」 「わかった」  ヴィクトルは素直に手を離した。言い返してこないで身を引く。  多分耐えられる。尿意は切羽詰まった状態じゃない。一切の水分を口にしないで、じっとしていれば何とかなる。無理やり眠ってしまおう。  譲はシーツに身体を投げるとヴィクトルに背中を向けた。  一方のヴィクトルはここで仕事をすると宣言した通り、手早く書類の束を手にして戻ると黙々と取り掛かった。   無防備な姿を見せるのは忍びないが今更だ。  どうせ、鎖とこの男の監視が外れない限り、譲はベッドから動けない。  三十分程度経った後だったろうか。考えは甘かったと、譲は蒼白になった。  おもむろにヴィクトルが書類を纏めて出て行ったかと思うと、昼食を乗せたワゴンを押してきたのだ。レモンとミントを浮かべた洒落た水差しは、たっぷりと重みがありそうだ。  部屋から彼がいなくなり、安堵していた矢先の出来事で、落胆を取り繕う心の余裕はなかった。喉が張り付き、ひゅうと乾いた音が鳴った。 「お腹が空いただろう。昼食にしよう」 「いらない。食べたくない」  譲は毛布をすっぽりと被る。 「子どもみたいな駄々をこねるんじゃない。食事をしないと怪我が治らないだろう?」 「じゃあ、俺が一人で食べるからあんたは出てってくれ」 「譲、何度も言わせないでくれ。そのお願いは聞かないよ」  大人の人間として当然の要求を(たしな)められる謂れはない。いい加減に受け入れろと言われたって無理である。  絶対に嫌だ。少なくともヴィクトルは、譲に好意があるのだ。命が脅かされない限りは、ある程度の無礼は許されると踏んだ。  譲はなりふり構わず、差し出されたグラスを手で払う。

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