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第34話 垣間見える公爵家の奥・客人

 譲の部屋にはカレンダーがないので、ヴィクトルと肉体関係を深めてからの日数はおおよそだ。  毎日の生活はそれほど変化していない。  ヴィクトルがいない時間は、ぼぅとして過ごす。順調に忘れゆく外の世界に、今は執着を抱かなくなった。  アルバムの中身を描きたくて用意して貰ったスケッチブックのページは一向に埋まる見込みはなく、日が過ぎるごとに記憶が曖昧になり思い出せないでいる。精彩豊かに記憶されていた写真は、一枚一枚、燃えかすになったように譲の頭からこぼれていった。  譲は消えてしまう記憶を留めておくことをやめた。言うなれば消えゆくままに放置したのだ。  どんな出来事でも時と共に過去に変わる。  悲しいことも。嬉しいことも。大切であったことも。  手元に残しておきたいと願うのはヴィクトルへの反逆行為になる。自分であったはずの人間は過去に死んだのだから、現在存在している譲は過去と決別した何かでなくてはならない。  何者でもなく、何か。  譲は、誰でもない。ヴィクトルのものだ。 「ははは、眠たくなったんだね。寝るといい」  窓の外を眺めながら欠伸をすると、よほど間抜け面だったらしい、ヴィクトルがクツクツと笑って本を閉じた。  童話『スコップ物語』。  何度も聞いているので、真剣に耳を傾けなくても内容は頭に入っていた。  ヴィクトルはこの本に愛着があり、譲の興味の如何に関わらず三日に一度は持ってくる。  この時間だけは退屈でどうしようもないのだ。  ヴィクトルと過ごす時は薬を制限されている。頭のモヤのかかり具合で何となくわかる。  眠気は薬の作用ではなく、単純に子ども向けの童話が飽きてつまらないからだった。夜は特に睡魔に勝てない。 「・・・すみません」 「謝らなくていい。おやすみ。さあ、キスをしよう」  ヴィクトルが上半身を屈める。  寝る前の口づけは習慣になっていた。  譲は黙って目を閉じ、重ねられるヴィクトルの唇を感じた。 「公爵は寝ないんですか」 「私は仕事が残っているからね。終わってから休むよ」 「そうではなく、ここで一緒に寝てくれないんですか。夜中に、たまに公爵が見にきてるの知ってます。こっそり俺に鎖をつけてるのも」  所謂、排泄処理の時じゃないのに、何をするでもなく佇んでいる。  やっと手にしたお人形が逃げることを警戒しているんだろう。拘束したくなるくらいに不安に思うなら同じベッドで寝ればいいのにと思うのだ。  人と一緒だと眠れないなんて、ナイーブな人間性でもあるまい。  ヴィクトルは「しまった」と困ったように振る舞って、はにかんだ。  芝居がかっていて白々しい。 「気づかれていたのか。考えてみるよ、ありがとう」 「そうですか」  意味のない会話だった。今夜も来るだろうなと、譲は溜息を吐いた。  そのやり取りをしてから三日程度経った後。  いつもは生きた人間の気配がなく、うら寂しい公爵邸に喧騒が訪れた。  空気を突き刺すようなよく通る声が廊下に響く。明らかな客人だ。それも一人ではない。男性数名と、女性の声もする。  久しぶりに聞いた活気ある人間の声は睡魔を吹き飛ばした。もの凄く気になったが、ドアは施錠され、窓の外の敷地には番犬がいる。犬達が遊んだことのある譲に対して襲うという判断をするかどうかは、どちらとも言えなかった。  負傷した脚に加え、思考力が鈍った譲の身体では、襲われたら抵抗できずに噛み殺されてしまう。  安全を考えれば外に出られないので、譲は聴き耳を立てた。  昼食時にヴィクトルは、午後に少し出掛けると教えてくれた。用事を終え、客人を連れて戻ってきたのだろう。  しかし、声だけで集団の中にヴィクトルがいることを判別するのは難しい。話し声は残念ながら遠ざかり、そして閉ざされてしまった。 (賑やかだったのは、一瞬だったな)  譲は枕に頭を沈める。 (別に異様なことじゃない・・・か)  今の譲の日常では大事件に等しい一瞬だったけれど、ヴィクトルはアゴール公爵家の爵位を引き継いだ高位貴族。公爵という立場上、人付き合いはむしろ多くて然るべきだ。  私有地内の人間なら融通は利くが、外出先で人払いは難しい。  アゴール家に与えられている爵位は別称でプリンスと呼ばれる特別な『公爵』だった。  ロイシアの国王陛下並びに王族の血筋と、アゴール家は密接な関係にある。王室内の家系図を辿って行くと、古い時代に王族から分かれた分家一族であることが明示されている。  ロイシア国内において、王子達以外でプリンスの称号を持てるのはアゴール家の嫡男ただ一人なのだ。  これらは歴史学の授業で教わる常識。学園の教室でロイシア国について学んでいる少年少女達は、教科書に載せられるような高貴な人物がこうやって人間を——可愛げもない男を屋敷の中に囲っているなんて夢にも思わないだろう。  譲自身も思っていなかった。それが今や、自分が囲われているお人形だ。笑える。  ・・・・・・笑えるが、それは活字の上で語られるアゴール公爵像に過ぎない。  出逢った時を思い出すと、笑う気が失せてくる。  初対面で跪くのも忘れる程に、ヴィクトルは掴みどころがない、よくわからない人間だった。

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