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第35話 地下牢
(ま、すでに気にしても仕方がないことなんだが)
譲が欠伸を繰り返した時、血相を変えたロマンが部屋に駆け込んできた。冷静な執事らしからぬ様子で取り乱している。
どうしたと訊く前に、譲は荒々しく腕を掴み上げられた。
「すみません。時間がありませんので」
ロマンらしくない焦りの滲んだ声。腕にチクリと針が刺さる。
血液を逆流させながら冷たい薬液が入ってくる。
注射をされたと理解した時には瞼が落ち、意識は霞の中だった。
直に身体を侵したのは更なる睡眠薬か。口から服薬するよりも強く即効性があった。
目を覚ました譲は部屋を移動させられていた。部屋と呼べないかもしれない。窓がなく、ベッドもない。譲は重く湿った石造りの小部屋に押し込まれていた。
(地下牢?)
そう捉えるのがごく自然だ。
分厚そうなドアは施錠され、低い位置にある人の顔くらいの大きさの小窓は格子がはまっている。
片方の手枷には鎖が繋がれていた。長さは余裕をもたされており、狭い空間を歩き回る程度は可能だった。壁に手をつけば立ち上がることもできた。
そうなるよなと思わざる得ない。譲を人様から隠したいのだろう。
比較的大切に扱われてきたが、豪華な部屋に住まわされている方が違和感があったので、金で買われた譲の立場と釣り合う環境だった。
(・・・・・・客人が来てるからって理由だけなのか。公爵の気が変わったのかもな)
譲は事態を飲み込むのに頭を働かせたが、強い薬を使われた副作用だろう、ズキズキと頭痛がした。
手荒なやり方で牢に入れられたことに少なからずショックを覚えてしまう。
こめかみを押さえて、軽く首を振る。まとわりつく気怠さを振り払おうとした時、ドアの格子の向こうに灯りがボワッと浮かんだ。
目を凝らすと、薄暗がりを近づいてくる人の靴が見える。
鍵を開けて現れたのはヴィクトルだった。
手持ちランプの光りに照らされた彼の顔には疲労が滲んで見えたが、譲と目が合うと表情を変えた。
「こんな場所に閉じ込めてすまない。しばらくここにいて貰うことになった」
ヴィクトルは溜息混じりに譲の隣で膝をつく。
「いいです、俺はどこでも」
譲は牢の隅で腰を下ろしたまま笑った。慰み者には丁度良い場所だと思う。
「ありがとう。後で食事と毛布を持ってくるよ。他に欲しいものはある?」
「・・・気が変わったわけじゃなかったのか」
「気が変わる? 私が好きで譲を地下牢にぶち込んだと思ったのかい?」
「はい。俺に飽きたんだなぁと」
無意味だとわかっているが、わかって欲しいと思ってしまった。譲は拗ねて横を向き、子どもじみた拗ね方をした。
「ひどいな。私の愛が伝わってなかったのかな」
ヴィクトルの声は悲痛に満ちている。視線を戻すと、唇は歪み、ヴィクトルの目元は悲しげに光を失っていた。
「公爵・・・・・・?」
「気が変わった」
「えっ」
「譲が言うように飽きることはあり得ないが、君の扱いを改めてみよう」
ヴィクトルは静かに立ち上がると、牢を出て行く。
怒らせてしまった?
譲は蒼白になる。本当のことを言ったまでなのに、ヴィクトルの胸の内の突いてはいけないところを突いて逆鱗に触れたのだ。
今日はもうヴィクトルは戻ってこないつもりなのだろうか。
つれない態度を取った譲のお望み通りにしてやろうということかもしれない。
食事は抜きだろうし、硬い床の上で寝なければならない。ヴィクトルの機嫌が戻るまでいつまでも放置されて、本当の意味で飼い殺されるのかもしれない。
これはヴィクトルの愛情を疑った罰だ。
譲が与えられていたもののありがたみを実感できるまで、心の底から赦しを乞うまで、ヴィクトルはきっと待ち続ける。
譲は謝罪のために四つん這いでドアに近づき、はたと思った。
でもどうだろう。譲はヴィクトルの方針に逆らわない。だが自ら進んでヴィクトルを愛そうと思っているわけではないのだ。
(よく考えろ。俺はあの男に好かれたいのか?)
答えはノーだ。積極的に弁解して尻尾を振りたくない。
だったら耐えよう。躾なりなんなり、気が済むまで好きにさせればいい。怒りが鎮れば罰は解かれる。
譲は恐怖心を押し留めて肩の力を抜いた。
長時間に備え、ひんやりした石壁に背を預ける。
ぼんやりしているうちに眠たくなった。譲は虚ろいの中に意識を移そうと目を閉じる。予想より遥かに早くヴィクトルが戻ってきたのは、それと同時刻だった。
譲は足音に耳を澄ませ、再び廊下牢を照らした灯りに目をすがめる。
「公爵?」
じっとしていれば大丈夫だと軽視していた。
部屋に入ってきたヴィクトルは、譲を放置する気はないようだった。
手に抱えられた様々な道具に譲の視線が向く。ヴィクトルは譲の顔を見ると、出て行った時と打って変わり、目尻を下げてにっこりと笑った。
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