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第78話 市長秘書
艦はイェスプーン港を出立した。
半日間、レニーランド港に着くまでは特別な指示はなく、することも決まっていない。嵐の前の、最後の安息時間だ。
譲は軍艦テティスの中を探索しようと思い立った。
停泊中にも乗船できたが、必要性を感じていない時に見て回っただけなので、気持ち的にはお遊びに近かった。再度、艦内図を確認しておくのは重要だ。損はない。
ナガトを誘いに行ったが返事が得られなかった。
仕方なく、一人で行動を開始する。
テティスの艦内は甲板下の船底エリアに三段のデッキフロアがあり、兵士が休む部屋と、食堂、娯楽室、エンジンルーム、武器食糧庫等が在している。
客船目的の船ではない為、甲板上にあるのは無線レーダーと操縦室のみだ。
しかしながら、大型戦艦は設備の格が違う。
元来は兵士が休む用途であるとはいえ、各部屋にはグレードが存在し、階級ごとに広さと豪華絢爛さが異なっている。特等クラス以上の部屋は、王族出身の将軍が使用することもあったそうだ。
譲達の部屋は最下デッキにあった。
二段ベッドの相部屋だが、各任務に支障をきたさないよう、一人ずつに部屋が与えられている。
これから迎える賓客は中層デッキから上を使用するので、顔を合わせない為の配慮でもあった。
食堂に上がると、驚いた。
そこは最上デッキと中層デッキをぶち抜いて作られており、設計上で窓はないが、頭上が高く開放感がある。最も位の高い最上デッキの客人は螺旋階段を使い、中層デッキの客人は豪奢な扉から入場できる。
天井にはシャンデリアまでぶら下がっていて、広々とした空間は食堂よりも、高級レストランと呼べるかもしれない。この日に応じてセッティングされたのか、螺旋階段下の目立つ場所にグランドピアノが置いてあった。
厨房の方に進んでいくと、人がいた。海兵隊の制服でないのはアレグサンダーの秘書。
トーマスが濡れたモップを手に床掃除をしている。
「ねぇ、掃除夫は乗せてないんですか。見たところコックもいないみたいだけど」
譲は厨房内を見回して声をかけた。
トーマスが声に気づき、掃除の手を止める。
「あなたは、甲斐譲さんですね」
「うん、そう。手伝いますか? 一人じゃこの広さは大変そうだし」
「必要ありませんよ。あなたはこんなところにいていいんですか?」
「え、うん。どうして?」
「きっと他の方は各々のやり方で入念に準備を重ねていると思われますよ。部屋で集中を高めているかもしれません」
「あー、そうか。ナガトもそうだったのかな」
自分だけ気が抜けていると思われただろうか。
譲が肩をすくめて立ち去ろうとすると、名前で呼び止められる。
「そうしろと強要したつもりはありません。あなたにはあなたのやり方がありますから、口を出してすみませんでした」
どうぞお好きになさっていて下さいと言われ、譲は踏み台を引き寄せて腰を下ろした。
「トーマスさんは意外な人ですよね」
「何がでしょう」
トーマスがぽかんとする。
「ボスに弱みを握られてるんですか?」
途端、トーマスはモップを掴んだまま肩を震わせた。
「ふっ、ふ・・・、そういうことですか」
「え? いま笑った?」
「はい、すみませんね」
そして彼は眼鏡を外し、笑った拍子に曇ってしまったレンズを拭く。
「私は中央政府の管轄下にあります。あなたの言うボスは正確には私の上司ではありません。それと、私には握られる弱みなんてありませんよ。逆ならありますが」
譲は瞠目した。けれど納得する。
「もしや監視役の為に派遣されて来ている・・・・・・?」
「はい。その通り。市民の皆さんは、多くの葛藤や苦しみを抱えているようですが、私は平凡な人間。それから部外者です。誇れる過去も未来もありませんが、隠し立てしなくてはならないような使命も持ち合わせてません」
「でも、それは隠しておかないと駄目なことじゃない? 大っぴらに言っちゃっていいのかな?」
つまりスパイということだろう。誰かに聞かれていたら不味いのでは。知ってしまった譲の方が居た堪れない気持ちになり、そわそわと視線を巡らせてしまう。
だが、トーマスはケロッとしている。
「ええ、皆様には隠してませんので。ムーア市長もご存知です」
意味がわからない。譲はギョッとした。
「特別な狙いが?」
「無いですよ。私の独断で政府を裏切っています」
「・・・・・・」
「わからないでしょうね」
トーマスは楽しげとも表現できる口調で言う。であるのに目元は正反対に痛ましげに伏せられており、譲は首を捻る。
「あなたも色々と大変でしょうが、こうして話をしたよしみですので、幸運を祈っています。最終的に頼れるのは自分自身だけ、他人から与えられたものは捨て去ることです」
「はぁ、どうも・・・・・・?」
またしても不可解だ。譲は腕を組んで意図を思案する。
「それと、最初にされた質問ですが」
トーマスが、最後になってしまいましたが・・・と言って口を開く。
「はい」
「掃除夫やコックなどの乗務員は、レニーランド港にて政府が雇った人間を乗船させるそうです。大きな外交行事ですので当然の決定でしょう」
「ああ、ですよね」
譲は理解したのだが、まともな答えに思わず拍子抜けしてしまった・・・。
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