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 仕事の帰り、川島は上着のポケット中で指輪を強く握りしめる。思い切り握り過ぎて、掌に爪の跡が付きそうなくらいに。  池袋駅西口を出て、駅周辺で一番でかいタワーマンションまで歩き、暗証番号を頭で反芻しながらゆっくりと押す。そして、川島は三五階まで上がり、三五七号室の前で足を止める。 本宮の結婚の予定については何も知らないが、ここに来れば本宮に会えるかもしれないという可能性だけを頼りに、川島はこのマンションにいる。もしかしたら、既にこのマンションには本宮はいなく、本宮の兄が海外から帰国している可能性も想像している。本宮から以前、兄がそろそろ日本に戻ってくるかもしれないと聞かされていたからだ。  携帯にも何度もかけたが、番号を変えたのか繋がらなかった。本宮の意志は固く、彼女と結婚する決意は全く揺るぎないのだろうか?     でも、そんな義務のような結婚で本宮が幸せになれるわけなどないのだ。もう一度良く話し合い、本宮と彼女が共に幸せになれる形を見つけるべきだ。そうでないと自分のこの気持ちは行き場を失ってしまう。この指輪の意味もなくなってしまう。  川島は、もう二度と本宮に会えないかもしれないという不安が過るたび、心を潰されそうになる。会いたいという気持ちが募り過ぎて、その苦しみを紛らわすように、川島はもう一度強く、指輪を痛いほど握りしめた。  何故自分だけがこんな切ない気持ちに振り回されなければならないのだ。二人とも身勝手に川島を振り回したと思えば、川島の気持ちも聞かず、勝手に結婚という形に落ち着こうとしている。川島はおいてけぼりを食わされたような虚しさに支配され、毎日を悶々とした気持ちで過ごさなければならない状況にあるというのに。  本宮は川島に言ったのだ。気持ちが固まったら、指輪を持ってマンションのドアを開けろと。俺はいつまでも待っていると……。  その言葉を川島は忘れたことなどない。確かに、本宮からの言葉に悩み苦しんだのは事実だ。それが少なからずとも体調に影響したことも。でも、川島の心を散々掻き乱し、あんな愛の告白をしてきたことを、本宮は川島に謝罪すべきなのだ。そうでなければ納得できない。自分にこんな、胸が焦げるような切なさを与えておきながら、本宮が独り善がりの自己犠牲に浸っているなど川島は許せない。川島がひどく辛い感情を持て余してしまっていることへの責任を、本宮には絶対に取って欲しい。だってそうだろう。本宮は友人であったはずなのに、こんなことになって目覚めてしまった本宮への友人以上の感情に、ひどく振り回されている川島の苦痛を、本宮は全く分かっていないのだから。 川島はただ、友人として純粋に本宮を救いたかった。だから、本宮の彼女に電話をし、彼女と三人で話しをした。川島は本宮が苦しむのは絶対に嫌だったし、本宮には、川島の前でいつも悠々堂々としていて欲しいと思ったからだ。川島はそんな本宮が好きだし、そんな本宮を心から必要としている気持ちは、この瞬間も変わらず川島の根底にある。  それが、病室で無責任にも浴びせられた本宮のキスの、その情動が決定打となり、川島はずっとあの時の官能に強く捕らわれてしまっている。それは、自分が同性愛の素質に目覚めてしまったからではない。本宮でなければ、自分の中心にあるこの欲望を満たせないという信じがたい事実を、自分がついに認めたからだ……。  ドアの前で深呼吸をひとつする。そして、意を決すると、川島はインターホンを鳴らしてみる。カチャリと鍵が開く音がして、川島の心臓はびくっと跳ね上がった。でも、ゆっくりと訝しがるように部屋の中から顔を出したのは、本宮ではなかった。 「……どちらさまで?」 「あっ、川島千秋と申します。あ、あの本宮良さんはいらっしゃいますか?」  目の前にいる男が本宮ではないと分かると、熱情に任せてここまで来た自分がひどく恥ずかしく、またそれ以上に本宮がここにいないという事実を叩き付けられ、川島は、間に合わなかったというショックに打ちのめされる。 「ああ! 君が噂の千秋君か」 「え?」 「あ、俺、良の兄貴。本宮佳(けい)って言います。良ならね、冷蔵庫に何も食いもん入ってなかったから、俺が怒って買い出しに行かせたの。それにさ、髪の毛も髭も伸ばし放題でみっともなかったから、ついでに美容室にも行ってこいって言ったんだけどね……」  本宮の兄は雰囲気がとても柔らかく、海外にいただけあって、初対面の相手でも物怖じせず朗らかに応対できる感じが、己への自信に満ち溢れている。そんな所が本宮と似ていると感じた。 「何かさ、今日帰ったら良、ホントにゾンビみたいな顔してるからさー。あいつろくなもん食ってなかったんだよ……あれ? 大丈夫? 何か君も今にも死にそうな顔してない? どうしたの? 良と何かあったの?」  本宮の兄が今日帰国したということは分かったが、何故、本宮も未だにこのマンションにいるのだろうか。川島は不思議に思ったが、それ以上に間に合ったという事実に心から安堵した。だからか、本宮に似ている兄を見ていると、本宮に会いたいという情動は更に強くなり、川島はそんな気持ちを押さえ込むように、下唇をぎゅっと噛みしめた。 「ちょっと前に家を出たから、戻って来るのに2時間以上はかかるかな。良が帰って来るまで中で待ちなよって言いたいけど、俺今リモート会議中なんだよね」  本宮の兄はすまなそうに頭を掻いた。 「え……いや、その大丈夫です。ご迷惑はかけられません……」  本宮の兄がいては、ここで自分の思いを本宮に伝えることなどできない。でも、それを先延ばしにすることができる自信が今の川島にはない。思いは限界に溢れ、本宮に会いたいという強い気持ちに心は捕らわれたまま、川島は気持ちを切り替える術もなく、死人のように彷徨い続けるしかない。 「あっ、もしかして俺って邪魔なのかな?」 「え?」 「そうか、そういうことなのか。二人がゾンビみたいな理由が分かった気がする」 「あ、あの、俺……ほんとに」 「俺さ、良がゲイなの知ってるよ」 「え?」 「でも、そんなの俺は全然気にしてない。俺は死ぬまでお前の兄貴だからなって、良にはそう伝えてある」 「は、はあ……」  川島は、突然の本宮の兄の話にどんなリアクションを取れば良いか分からず、体から嫌な汗が噴き出てくる。 「千秋君、会議あとちょっとで終わるから少しだけ外で待っててくれる? その後で、俺が入れ替わり外に出てどこかで時間潰してくるよ」 「え? でも、そんな……」  本宮の兄は川島の言葉を軽く無視すると、川島から携帯番号を聞き出した。 「会議終わったら連絡するね。あ、ところで、俺はどのくらい時間潰してくればいい?」 「え?」 「はは、ごめん。野暮な質問したよね……最近の日本のカプセルホテルってかなり快適らしいって海外でも評判なんだよね。俺も泊まってみたかったんだ。丁度いいチャンスかも」  本宮の兄はそう言うと、「じゃあ。悔いの残らないようゆっくり二人で話ししてね」と言い、一端部屋に戻った。

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