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 本宮の兄から連絡を貰い、誰もいなくなったマンションの部屋に入ると、玄関は薄暗かった。その奥にあるダイニングは間接照明だけの明かりのせいで、より夜景が際立って見えた。  あの日のことを否が応でも思い出す。あの日、殺されるかと思うほどの恐怖を与えたのはまさかの本宮だった。そして、更に本宮は衝撃的な告白を川島にし、川島は気づかされたのだ。自分が今まで見ていた本宮は真の姿ではなく、ゲイというアイデンティティーを隠すための仮面をずっとかぶっていたということに。さぞや辛かっただろう。友人の振りをしながら、本宮はずっと川島のことを愛していたのだから。  川島はゆっくりとダイニングに向かった。何処を見渡してもあの日の記憶が鮮明に蘇る。このテーブルで飲んだウイスキーの炭酸割りを、もう一度飲みたいと思う。   川島はソファーに腰掛けようと足を踏み出そうとした。その時、がちゃんとドアの閉まる音がした。次に、かしゃかしゃと買い物袋が擦れる音がする。 「佳~、誰かいるのか~?」  気負わないリラックスした声。あまり聞いたことのない、本宮の少し甘えるような話し方。二人の関係の良さが窺い知れる。川島は玄関に背を向けたまま俯き、本宮が自分に気づくのを、体を強張らせながら待った。 「え?! 千秋?」  その言葉を合図に川島はゆっくりと振り返る。  本宮は川島に気づくと、どさっと両手に持っていた買い物袋を床に落とし、呆然と目の前にいる川島を見つめた。袋からコロコロとタマネギが転がり出る。 「来たよ。来ちゃったよ……俺」 「……何で」 「ほら、これ見てみ、ちゃんとはめてきたぞ」  川島は婚約発表時の女優のように、手の甲をすっと前に出し本宮に見せた。 「お兄さんなら明日まで帰ってこないよ。察しがいいね。さすが良の兄貴だな。でも、良、お前何でここにいる? 結婚は? 彼女とどうなったんだ?」 「……千秋、俺はさよならだって、言ったはずだ」  川島の質問には答えず、本宮はじりじりと川島に近づくと、そう絞り出すように言った。 「一方的にな。俺の気持ちも聞かないでさ、勝手に完結すんなよ」 「俺は、お前を思ってそうしたんだ、よ。お前を苦しめたくなくて」   本宮は今にも泣きそうな顔をして、川島の目の前で立ち止まる。  「彼女との結婚は無くなったんだ。彼女に断られたんだよ。今更俺と結婚なんてしないって。当たり前だよな。そんなの」  本宮は情けないというような表情を作ると、切なげに目を伏せた。 「俺との子供は自分の宝物だから、子供さえいればいいって言われたよ。親権を譲ることと、俺が子供を認知することを条件に別かれたけど……俺は責任持って生まれてくる子の面倒をずっと見るつもりだ……」  涙を堪えるのが辛いのか、本宮は口を僅かに震わせながらそう言った。   「そうか……それがいいのか悪いのかは分からないけど、良が責任もって子供の面倒を見るなら、俺も協力する。俺がもう一人の父親になってやる」 「な、何を言ってる? 千秋」  本宮は潤んだ瞳を見開きながら、川島をまじまじと見つめた。 「分かんないかな。俺が一番苦しいのは、良に一生会えないことなんだよ。俺はこれからも良と一緒にいたい。さよならとかマジで論外だ」 「……千秋、本気で言ってるのか? 同情なら勘弁してほしい……」 「ああ……本気中の本気だよ」  本宮はくしゃっと顔を崩すと、全体重を掛ける程の圧力で川島を抱きしめた。川島は胸が潰れる程の力に、呼吸が一瞬だけ止まる。 「くっ、苦しい……よっ」 「今、俺、幸せすぎて死にそうだ。このまま心臓が止まるかもしれない」 「それは困る。ゆっくり深呼吸しろよ」   川島はそう言って、本宮の顔を見上げて笑った。 「良は狡い。本当は俺が来るっていう自信があったんだろう?」 「何でそう思う?」 「良は自信家だよ。常に自分の直観を信じてるみたいだし。俺は良には、ずっとそうであって欲しい」  本宮は川島の言葉に、困ったように深い溜息を吐いた。 「……分かってないな。俺は千秋に関しては自信家どころか、米粒程の自信もないのに」 「なんだよそれ」 「今、足が震えてる。もし、千秋が気持ちを変えてここから逃げたら、俺は追いかけられない」 「はは、逃げないよ」 「本当に?」 「ああ。絶対」 「……千秋、どこまで覚悟してる?」 「え? どういう意味?」 「こういう意味だよ」  本宮は独り言のようにそう言うと、突然ライオンが獲物に齧り付くように、川島の首筋に歯を立てた。その一瞬の鈍痛は川島の首筋を這う本宮の舌により、甘美な快感へと早変わりする。 「んっ、ちょ、良、やっ」  そう言って口を開いた瞬間、本宮は川島の顎を持ち上げ、焦らすように自分の唇をわざと付けず、舌を器用に動かしながら川島の唇を舐める。川島はその行為にひどくもどかしさを感じ、本宮の首に腕を回すと、その艶のある形の良い唇に早く触れたくて、思わず自分から唇を突き出す。 「や、やめろよっ、キス……ちゃんとしろよっ」  川島は既に忘我している。あの時、ここで本宮から聞かされた川島への恋情が、腹に当たった息が、握られた手が、病室でのキスが。本宮と関わったすべてが、川島の奥にしまわれていたセクシャリティを燻らせ、それに今ついに火が灯される。  本宮は突き出した川島の唇を愛しそうに見つめると、自分の唇をそっと川島の濡れた唇に重ねた。そして、舌で裂くように川島の歯列をこじ開けると、素早く舌を差し入れ、容赦なく腔内を凌辱し始める。箍が外れたのは本宮も同じだろう。その荒々しさに川島は、恐怖心さえ覚えてしまう。 「ふっ、んんっ」  本宮はキスをしながら川島の尻を執拗に揉みしだく。ずっと前からそれをしたくてたまらなかったかのようにしつこく。その手は時々割れ目の中心を指で掠めるようにいやらしく動く。 「ちょっ、か、覚悟って……ど、どこまでを言ってる?」  不安の滲んだ声で、川島はキスの途中で本宮に問いかける。本宮はそんな川島の耳元に、甘く低い声でもったいぶるように囁く。 「もちろん。最後までだ」 「最後?」 「ああ。大丈夫だよ。俺は男を何度も抱いてる」 「な、何度も?」 「ああ」  しれっと上から目線で言う本宮に、川島の心は傷つく。本宮は男だ、ゲイだ。女性とセックスができても、本来なら男とのセックスの方が気持ち良いに決まっている。それに自分も男だから、生理現象の一部としてセックスが存在していることぐらい、十分理解しているつもりだ。でも、「何度も」という言葉が川島の頭をぐるぐると回り、無性に腹ただしくなる。その何度も中で、本宮は一度も誰かに本気になったことはないのだろうか? 自分以外の男を、本宮は一体どんな風に抱いたのだろうか? 「千秋? どうした?」   不安気に川島を見つめる本宮に、さっきまでの勢いが失っているのを感じた。 「ごめん。千秋……俺が悪かった。流石にちょっと早急過ぎたよ。本当にすまない……」  本宮は静かに固まっている川島に、オロオロと罪悪感を滲ませながら謝罪した。 「……じょぶだ」 「え?」 「最後、まで、大丈夫……だ」  「千秋……」  本宮は川島を力強く抱きしめると、おもむろに寝室へと向かい、何かを手に持って現れた。 「悪いが、これで準備してくれないか?」   本宮は奇妙な物体を川島に差し出した。 「これって……」 「洗浄器具だ……ベッドを汚すと佳に叱られるからな」  本宮のリアルの言葉に、川島は顔から火が出るような思いでそれを掴み取ると、室内を右往左往する。 「トイレあっち」  そんな川島に、本宮は切羽詰まった表情で、トイレのある方向を指さした。

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