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「また、ダメか……」  夕貴はベッドに腰掛けたまま、手にした妊娠検査薬をしばらく見つめ、項垂れながら深いため息をついた。  宏海と初めて交わったあの日から三年。周期的に訪れる発情期が終わってから二ヶ月半後――何度、同じセリフを呟いただろう。  検査キットの判定部分には今も妊娠を告げる赤ラインが出てこない。  最初の頃は「こういうこともある」と笑っていられた。しかし、時を重ね発情期が来るたびに、夕貴は次第に自身の体に疑問を持ち始めた。不妊症なのでは――と。  それは宏海も薄々感じていたようで、夕貴が悩んでいることにも気づいていたようだった。それでも彼は責めることをしなかった。自らにも原因があるのでは……と。  宏海の父、好隆が経営するシゲノ・インダストリーの子会社として、オーダーメイドスーツを専門に扱う会社『アドラシオン』を立ち上げ、今や年商数十億を売上げる、都心の商業ビルの上階にオフィスを構える敏腕経営者となった彼は二十七歳になっていた。  多忙であっても、夕貴との時間を最優先させる宏海の優しさに甘え、勇気を振り絞るように不妊治療の権威と呼ばれる医師が在籍する病院を訪れた。  詳細な検査の結果、アルファ性であり二十七歳という年齢である宏海の精子は、もっとも理想的であるといわれているコンディションで、むしろ受精しない理由が見当たらないという。  夕貴の方も三十五歳という年齢ではあるが、オメガ性――特に男性には卵子の劣化というものはないため、異常はないという。排卵も三ヶ月ごとに訪れる発情期に正常に行われているし、子宮も良好な状態だ。  それなのに妊娠しないということは、外的要因によるものが大きいと医師は言う。ストレスや精神的ダメージ、過労や睡眠不足。それらが原因で診療科を訪れる者はあとを絶たない。  少子化対策に乗り出した国の政策により、不妊治療には助成金が支給される。夕貴たちのように運命的な出会いを果たすカップルは少なく、女性の社会進出により晩婚化も歯止めが利かなくなっている昨今、子宮や排卵異常、精子の健康状態が良くない者も多いことは否めない。  この世の中には、夕貴たちよりももっと深刻な悩みを抱えているカップルが多くいることを、診療科の待合室で知った。皆、その表情は曇り、なかには泣き出す者もいた。  子供が産めないと知った時の絶望――それは繁殖のために器官を授かったオメガ性にとって耐えられない現実だ。  夕貴は発情期のタイミングで服用する排卵誘発剤を処方され、経過観察ということで病院をあとにした。  宏海と婚姻を結んで三年。次第に二世を望む声が高まってきていることは否めない。店がある下町には古くからの近所付き合いがあり、幸い良い人ばかりに恵まれている。それ故か、一流企業の御曹司と結ばれた夕貴に大きな期待を持つ者も少なくない。顔を見て、その視線は自然と下腹部に向けられる。 「まだお子さんは生まれないの?」 「もう、いいお歳なのにね……。宏海さんが可哀相だわ」  その一言がどれだけ夕貴を苦しめてきただろう。悪気のない一言ほど精神的に受けるダメージは大きい。 「気にしなくていい」と宥めてくれる宏海だが、彼にも義父母からそれとなくプレッシャーを掛けられることが続くと、甘えてばかりいられなくなる。じわじわと厳しい現実を突きつけられ、夕貴は知らずのうちに追い詰められていった。  医師曰はく、妊娠とは「神のみぞ知る」ことであり、人工授精をしてもそれが着床し妊娠に至るかどうかは断言できない。  オーダーされたスーツの製作にも影響が出るまでになってしまった夕貴は、ついに決心した。  このままでは宏海にも迷惑をかけてしまう。でも今ならまだ、間に合う……。  宏海は引く手あまたの優秀なアルファだ。新たなパートナーを見つけることなど容易い。運命に導かれ結ばれた二人だが、子供を成すことができないという運命もまた存在するかもしれない。  出会いが鮮烈だっただけに、神様は試練を与える意味で夕貴を苦しめている――そう思った。  そして、夕貴が出した結論は番を解消することだった。  宏海の咬み痕を持つ夕貴は生涯、誰のモノにもならない。なぜなら宏海以外の者に発情することがないからだ。  それでも夕貴は彼のためを想い、離れる決意をした。  誰とも体を重ねることなく、ただ老いていくだけの人生が運命というのなら、それを素直に受け入れることがどんな時も優しく愛してくれる宏海にできる唯一の恩返しだと思った。  しかし、宏海は差し出した第三の性婚姻抹消届を見ることもしなかった。  まるで突きつけられた現実から逃げるように、もしくは一番恐れていたことから目を背けるように、黙ったまま席を立った。  生涯を共にし、愛し続けると誓った相手から突きつけられた別れ。それを簡単に受け入れられるほど、宏海はまだ大人になり切れていなかった。  誰が見ても幸せそうに見える夫夫。しかし、その裏では会話も減り、目を合わせない日も増えた。  すれ違いの時間が増え、宏海の夕貴に対する愛情も薄れていくように思えた。一緒にいても違和感を感じなかったはずの関係に、急激に襲い掛かる年齢差。それもまた夕貴を後悔の渦に沈めた。  あの時、宏海を拒んでいたら……。  夕貴は、取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。離れることを許されない運命の番は、自分はおろか相手をも深く傷つけることがある。精神的に追い詰められ、安易に別れようと切り出した自身の浅はかさを悔やんだ。  すべては運命のもとに――。  そう言い切れる強さを失った夕貴にはもう、何も残されてはいなかった。

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