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 ある日、仕事中の夕貴のもとに「話がある」と宏海から電話が入った。  いよいよその日が来たかと気持ちが沈む一方で、これで宏海を自由にしてあげられるという安堵感もあった。しかし、あれからそのことについて何も触れてこようとしない宏海に少しの苛立ちを覚えていたことは否めない。  複雑な思いを抱いたまま夕貴は電車を乗り継ぎ、待ち合わせ場所である宏海の職場近くにある商業ビルへと急いだ。  有名ブランドのショップが並ぶ通りの一画に新しくオープンしたばかりのビル内は、明るく開放的でまだ新しい建物の匂いがした。  二階にあるカフェに待ち合わせの時間よりも早く着いた夕貴は、バッグの中からスーツに関する特集記事が掲載された雑誌を取り出すと、節のある長い指先でページをめくった。  クールビズの普及に伴いスーツ生地も変化してきている。軽く、通気性の良い物や、丸洗いできるスーツも既製品として売り出されている。その反面、暑い最中にワイシャツにスラックスという堅苦しいスタイルではなく、ポロシャツにチノパンというラフな服装で仕事の効率化を上げようという策を打ち出し、徐々に成果を上げる企業が出てきているようだ。こうなると、一点一点手縫いで仕上げるオーダースーツどころか、今にスーツ自体が絶滅していくような気がして、夕貴は居たたまれない気持ちになった。  今やスーツはサラリーマンにはなくてはならない存在になり、その価値観も軽視されつつある。安くて簡単に洗濯ができて、とりあえず見栄えするもの。痛んできたらリサイクルに出して新しいスーツを割引価格で購入すればいい。  そういう人たちの多くがオーダースーツを持っていない。それ故に、体に吸い付くようにフィットしたあの感覚を知らずにいるのは、実に残念なことだと思う。  宏海が代表を務める『アドラシオン』は、とかく高額になりがちなオーダースーツをリーズナブルな価格設定で若年層に普及させようと奮闘している。そのために、雑誌に取り上げられた有名なテーラーやフィッターを招いたオーダースーツの採寸会なるイベントを企画し、生地・デザインの提案から製作までを通常の価格よりも安く提供することで、広い年齢層からの支持を集めている。  社長である宏海自身も海外留学で培った技術を十分に発揮し、フィッターやモデルとしてイベントを盛り立てていた。  精力的に仕事に打ち込む宏海に余計な心配をかけたくないと思うのは、パートナーとして当然のことだろう。我ながら堂々巡りばかりの自身の思考に、夕貴が小さくため息をついた時だった。 「――お一人ですか?」  斜め上部から低い声がして、夕貴は訝るようにゆっくりと開いていたページから視線をあげた。  そこにはグレーのスーツを着た見慣れない男性が立っていた。背が高くがっしりとした体つきであるが、意外にも着ているスーツに気になるところは見受けられない。職業柄ついそういうところを気にしてしまう夕貴は、マジマジと彼を見つめていることに気づかずにいた。 「もしよろしければ……ご一緒しても構いませんか?」  ランチタイムを終えたこの時間、カフェはさほど混んではいない。むしろ空席が目立つほどだ。それなのにあえて相席を希望するなんて……とは思ったが、夕貴は断る理由もないまま「どうぞ」と席を勧めた。  男性の動きを視界の端に捉えながら何気なくコーヒーカップに指を掛けた夕貴に、彼は椅子に腰かけながら興味深げに問うた。 「――ご結婚、なされているんですか?」 「ええ……」  どうやら左手の薬指に嵌めた結婚指輪が気になるようだ。宏海にあんな話を切り出してもはずすことができないでいる自分の弱さにほとほと呆れる。 「こんな素敵な方と結婚できたパートナーは幸せだな。――で、どうなんですか? 夜の方は?」 「は?」  初対面にも関わらず、プライベートに踏み込んだあまりにも不躾な質問に、夕貴は嫌悪感を露わにして眉根を寄せた。  彼の大きな手が、テーブルに置かれたままの夕貴の手に重なる。  ゴツゴツして節操のない手――そう思った。 「あなた……オメガ性でしょ? さっきからいい匂いをさせて、誰かを誘っているのかと」 「ナンパですか? 俺、三十五ですよ?」 「年齢なんて関係ない。発情期、近いでしょ?」  自身が『アラフォー』であることを明かし牽制したにも関わらず、彼は怯むどころか夕貴の手を強く握ってくる。  アルファである宏海以外には発情しなくなったとはいえ、相手がベータであれば状況は変わってくる。一般的に一番人口が多いベータ性はアルファ性にくらべ能力は劣ってはいるものの、発情期以外の時でも稀にオメガ性が発するフェロモンに気づく者がいる。おそらく彼はその能力を持った者なのだろう。  アルファ性とは違い自身の欲情をコントロールできるとはいっても、中立的立場の性ゆえの気軽さや行動が、逆にオメガ性に対し危害を及ぼすこともある。 「そんなこと、あなたには関係ないでしょ?」 「関係ありますよ。あなたを気持ちよくさせてあげることができるかどうか、試してみたくなりません? もちろん、パートナーには内緒で」  夕貴は少し伸びた黒い前髪を煩わしそうにかきあげて彼を睨みつけた。  こういったナンパは初めてではない。オメガ性であるというだけで近づいてくる男性は体目当ての場合がほとんどだ。声を掛けられ、言葉巧みにセックスに至るまで誘導される。その時にタイミング悪く発情し、妊娠してしまうケースも少なくない。  若年層に多い事例だと聞いていたが、アラフォー男が相手でも一向に構わないという彼の貪欲さに呆れる。 「どんだけ欲求不満? ヤリたいんなら、そういう店に行きなよ」 「あなたがいい……」 「しつこいっ」  夕貴が苛立たしげに、持っていたコーヒーカップを勢いに任せてソーサーに戻した時、彼との間を割るように力強い腕が伸びてテーブルを思い切り叩いた。  ガチャンと食器が揺れる音に周囲にいた客が何事かと注目する。  夕貴は、自身のすぐ隣に立った人物が誰なのか、顔を向けずともその身体から発せられる甘い香りですぐに気づいた。 「――貴様、俺のパートナーに何をするつもりだ?」  まるで獣が唸るような低く迫力のある声が静かな店内に響いた。  声を荒らげるでもない。落ち着いた口調ではあるが、その声には間違いなく怒りが込められていた。 「あんた、誰?」  先程の丁寧な口調とはまるで違うナンパ男の豹変に、夕貴は目を見開いた。そんな男の問いに怯む様子もなく、彼はさも当然だというような態度で言い放った。 「夫だ……」 「え……?」  宏海の顔をまじまじと見上げた男は、小さく舌打ちすると、渋々というように席を立った。  夕貴のパートナーが突然現れたことに驚いたのか、それとも――。 「こんなオッサンをパートナーにして、あんた満足してるの?」  下卑た笑いを浮かべながら負け惜しみともとれる言葉を吐いた男に、宏海はその身を起こして向き合った。そして、彼の襟元を掴み上げると、鋭い目で見下ろした。 「貴様のようなクズが気軽に話しかけていい人じゃない。彼は、俺の――すべてだ」  その迫力に圧されたのか、男は宏海の手を乱暴に払い退けると、曲がったネクタイを直しながら足早に去って行った。  忌々しげにその背中を睨みつけていた宏海の姿に、夕貴は息を呑んだまま動くことができなかった。  婚姻を結んで三年。これほど激昂した宏海を見たのは初めてだった。夫夫として他愛のない諍いはいくつかあったが、他人にこれほど声を荒らげる彼を見たことがない。  夕貴は、宏海の体から立ち上る覇気に恐怖を覚えた。自身に対してこんな表情を見せたことがない宏海が、夕貴を庇うために男に剥いた牙の鋭さに、また胸の奥がギュッと締めつけられる。 「大丈夫か?」  息を吐きながら肩の力を抜いて振り返った宏海は、先程の様相からは想像できないほど柔らかな声音で問いかけた。  落ち着いた紺地に、種類の違うストライプを交互に配したスーツはもちろん夕貴が手掛けたものだ。それに合わせているシャツもネクタイも文句の付けどころがない。  その美しい獣のような肢体にフィットしたスーツを、嫌味なく完璧に着こなしている宏海にしばし見惚れていると、やりきれないというように髪をかきあげながら大仰なため息をついた。 「夕貴……。お前は無防備すぎる」 「俺はなにも……」 「こんな場所に呼び出した俺のミスだ。ごめん……怖かっただろ?」  先程まで男の手が重ねられていたその場所に、温かい宏海の手が重なる。大きくて触れているだけで安心する大好きな手だ。 「――結婚する前はよく声を掛けられてたから、怖くはなかったけど」 「それ、いつの話? 俺と出逢ったあと?」 「あぁ……。まぁ……過去のことだし」  そうたいしたことではないと思っている夕貴に対して、宏海の目はどこまでも真剣だった。 「――何もされていないよね?」  真っ直ぐなこげ茶色の瞳が、性交の真偽を見定めるかのように夕貴を射抜く。彼の真剣なまでの問いかけに夕貴は小さく息を呑んで、首を横に振った。 「するわけないだろ……。お前が迎えに来るのを待っていたんだから」 「ホント?」 「俺を信じられない?」  宏海は重ねていた夕貴の手を取って強く握りしめると、それを自身の額に押しあててギュッと目を閉じた。  利発的で綺麗なカーブを描く額が薄っすらと汗ばんでいる。あの男とのやり取りが、宏海にとってどれほど緊張感を持ったものだったかが窺えた。 「――良かった。夕貴が無事で」  その声は心底安堵したように聞こえた。七年という長い間、誰とも交際することなく宏海を待っていた夕貴の言葉には嘘はなかった。  あの時はもう、寝ても覚めても宏海のことしか考えられなかった。恋の病とはよく言ったもので、事実、彼と電話で話した翌日は胸が張り裂けるくらい苦しくて、食事もろくに喉を通らなかった。  そのことを宏海に話したことは一度もなかったが、いい歳をした男が言うには少し抵抗のある恋の症状だ。 「当たり前だろ……。俺のこと、そんなに軽い男だと思ってた?」 「思ってない。夕貴は自分では気づいていないだろうけど、異性から見たら『抱きたい』と思うほど愛らしいんだよ。だから……目が離せない」 「ぶはっ! アラフォーを捕まえてそれはないだろ。それは宏海の贔屓目だ」 「そうじゃないから心配してるんだろ。夕貴……」  急に声のトーンを下げた宏海の表情が曇る。茶化した手前、自分のせいなのかと不安になる夕貴だったが、何かを吹っ切るかのように顔を上げた彼にホッと安堵した。 「――ここに夕貴を呼んだのは仕事の話をしたくて。半年後になるんだけど、自社ビル内のイベントスペースでオーダーメイドスーツの内覧会を企画したんだ。そこで俺のパートナーとして一緒に手伝ってほしい」 「え? 俺が?」 「夕貴の作ったスーツをみんなに見てもらいたいんだよ。モデルは俺が務める……。俺のために二着、作ってくれないか?」 「そ……そんなこと、家に帰ってからでも話せることだろ?」 「いや! 今じゃなきゃダメなんだ……。お前の目を見て、話したかった」  宏海の真剣な眼差しに、今まで家で顔を合わせることから逃げていた自分が、どれほど愚かで幼稚だったのかを思い知らされる。  婚姻抹消届を見せられたにも関わらず、宏海の想いはどこまでもまっすぐで翳りがない。  自身の手を握る彼の指先が微かに震えている。こんなことは今まで一度もなかった。いつでも自信に溢れ、夕貴のことを気に掛けながらも仕事に打ち込んできた宏海が初めて見せた弱さだった。 「宏海……」 「もう……逃げないでくれ。俺は夕貴を……守れないのか? 愛することもできないのか?」 「それは違……っ」 「子供なんて産まなくていい。そればかりは神様にしかできないことだから……。周囲の辛辣な声から守ることもできない。まして、苦しんでいるお前の代わりになってやることもできない。ごめん……俺、守るって誓ったのにな」 「宏海、もういい……。いいんだよ」  夕貴は溢れてくる涙を止めることができなかった。宏海に降りかかる困難から守るために……と一針一針願いを込めて作ったスーツ。それを着て強くなったつもりでいた彼の真意は夕貴が思う以上に辛くて苦しいものだったと察することができた。  内に秘めた弱さを夕貴に見せないように強がっていた宏海の想い。それを分かろうともせずに一方的に番を解消しようとした自身の過ちをどうすれば許してもらえる? 「――夕貴を泣かせてばかりだ。このプロジェクトが終わったら答えを出してくれて構わない」 「宏海?」 「夕貴の思うように生きればいい……」  わずかに伏せた宏海の長い睫毛が小刻みに震えた。握っていた手がゆっくりと離れていく。だんだんと温度を失っていく自身の手が、生気を失ったように冷たく変色していくのが分かった。  宏海という存在は夕貴にとって生きる糧。運命が引寄せたどちらが欠けても生きる術を失う、大切な要素。  テーブルに置かれていた伝票を掴んでゆっくりと立ち上った宏海は、無理やりに口角を上げていると分かる不自然な笑顔で夕貴に言った。 「――今夜は早く帰るから。一緒に食事をしよう……」  あの日から明かりが灯ることがなかったキッチン。二人で顔を突き合わせて食事をすることもなかった。  それまで普通にできていたことができなくなってしまったのは自分のせいなのだ。  何度も爪を立てて愛し合った背中を見つめ、夕貴は泣いた。  宏海に気を遣っていたことがすべて裏目に出てしまったと気づく。夕貴がしたことが逆に彼を追い詰めてしまったことは間違いなかった。  でも――宏海は答えを出す時間をくれた。  それが彼の本当の強さであり、優しさだと知った夕貴は心の中に巣食った闇が少しずつ晴れていくのを感じた。 (まだ、終わってはいない……)  宏海が、夕貴の手を握りしめた力に込められた想い。  まだ、愛されている――そう思った。

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