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 内覧会当日――。  夕貴が初めて宏海のオフィスに足を踏み入れたのもこの日だった。  仕上がったスーツは、事前に宏海のもとに届いているはずだ。あとは、夕貴自身が宏海のサポート役として、採寸や生地の選び方などのアドバイスを行う。  イベント前に顔を合わせた『アドラシオン』のスタッフは皆、知的でいい人たちばかりだった。女性スタッフが多いと聞き、結婚した今でもモテる宏海のことが少し心配であった夕貴だったが、パートナーであることを尊重し気を遣ってくれているようで、逆に申し訳ない思いでいっぱいになった。  鏡面ガラス張りの商業ビル。エレベーターで上階にある宏海のオフィスに向かうと、彼の秘書を務めている辻本(つじもと)優華(ゆうか)という女性が迎えてくれた。ボーイッシュでさっぱりとした性格ではあるが、夕貴がオメガ性であることを知ってからは何かと気にかけてくれる。自身がベータ性であることを明かし、宏海との関係を明白にしてくれる信頼できる人物だ。 「――会場の準備ができるまで、社長室でお待ちいただいてもよろしいですか?」  人造大理石が敷き詰められた廊下を進み、奥まった場所にある重厚な木製の扉を開く。そこには窓からビジネス街を一望できる最高のロケーションと、シックな色使いで統一された宏海のビジネス空間が広がっていた。 「こんなところで仕事してるのか……」 「夕貴さんがこちらにいらしたのは初めてですものね。テーブルの上にお茶をご用意させていただきましたので、ご自由に召し上がってください。今回はかなり大変だったんじゃないですか? 社長は妥協を許さない方ですから」  辻本の問いかけに窓ガラスから視線をはずした夕貴がふっと何かを思い出したように微笑んだ。  宏海のスーツを作る時は常に真剣で、仕上がった時の彼の満足げな顔を見ることだけを楽しみにしている。  でも、今回は今までとは少し違っていた。 「――同じサイズの物を同じ工程で作る。彼にはそれがないんです。だからいつもゼロから始められる。特に今回はいろいろ思うことがあって……」  製作工程はいつもと変わらない。しかし夕貴は、このスーツに自身の『答え』を見い出していた。  自分なりの生き方――もう、心は決まっている。 「あの……っ。宏海は?」 「社長はイベントスペースの方で最終の打ち合わせをなさっています。なにか御用でも?」 「いえ……。あの、スーツは?」 「ご安心してください。社長自身が管理されています。――夕貴さんは本当に社長に愛されていらっしゃるんですね。あなたが作ったスーツしか着ない変人……と、本人は言ってますが、他のスタッフにも絶対に触らせないんですよ」 「え?」  何気なく語った辻本の言葉に、夕貴は勢いよく振り返った。  辻本は慣れた手つきでブラインドのルーバーを調整しながら続けた。 「ジャケットを脱ぐ機会があっても、誰の手にも渡さない。秘書であるこの私にも……ですよ? これは何より大切な物なんだって。それほどあなたの作ったものが愛しいんでしょうね」  そんな話を初めて聞いた。夕貴の知らない宏海の一面を知ってしまったようで困惑していると、辻本はそれを察したのか柔らかい笑みを浮かべて言った。 「――夕貴さん。あなたが初めて社長に作ったスーツ、覚えていらっしゃいますか?」 「もちろん。俺の人生を変えた作品ですから……」  辻本はブラインドで光を遮った壁面に足を向けると、そこに作りつけられている木製のクローゼットの観音扉をあけた。中にはガラスケースが埋め込まれており、その中央にはトルソーが置かれていた。  夕貴はそれを目にした瞬間、大きく目を開いたまま息をすることを忘れた。  トルソーに掛けられていたのは、絶対に忘れることのないチャコールグレーの生地にシャドウストライプをあしらったブリティッシュスタイルのスリーピーススーツだった。  宏海のために、すべての困難から身を守れるようにと願って夕貴が作った初めてのスーツ――。 「こ、これは……」 「このガラスケースの中には特殊なガスを充填してあり、衣類の長期保存が可能な空間になっています。社長はこれをずっとそばに置いているんですよ。時々、この扉を開けて長い時間、これと向き合っていらっしゃいます。あなたから貰ったものは大きく、そして尊いものだったんですね」  夕貴は信じられない思いでガラスケースに近づくと、自身が作ったスーツをまじまじと見つめた。今に思えばデザインも縫製も上出来とは言えない。だが、何よりもそこには夕貴の想いが込められていた。  成長を見越した肩や胸のラインは試行錯誤した思い出がある。スラックスの長さも、ヒップラインも着用時の身長を考慮しつつ、ある意味『賭け』のような場面もあった。  でも、これを着て「待っていてください」と言った宏海の、強い光を湛えたあの眼差しが今も忘れられない。 「宏海……」  ガラスケースの片隅に置かれた色褪せた色紙。そこには黒いサインペンで力強く書かれた文字が踊っていた。 『あなたに守られて俺は強くなる。絶対に迎えに行く……そして、一生あなたを守ります』  今と変わらない字体は宏海のものだとすぐに分かった。だが、そこに書かれていた日付に夕貴は浮かべていた笑みを消した。 「二〇××年……十月って。あの時の……か?」  フィッターになると決意し、夕貴にそう告げた試着の日。あの時から宏海の想いは決まっていた。  八つも年上の男を迎えに来ると決めた十七歳の高校生。だが、彼の想いに一寸のブレを感じることはできなかった。  生意気なキス――それは夕貴にとって蕩けるほどの幸福感と安らぎ、そして少しの不安と胸の痛みを残した。  期待はしていない。でも……待っていたい。 「宏海……」  ガラスケースに縋りつくように額を押し当てた夕貴は、込み上げる嗚咽を抑えきれなくなった。肩を震わせて溢れてくる涙を足元にいくつも落とした。  宏海が立ち上げた会社『アドラシオン』――フランス語で敬愛を意味する。  彼が尊敬し、その想いを捧げた相手……。 「――社長の想い。こんなに愛されている夕貴さんが羨ましいです。年齢とか関係なく、魂が呼び合うってこういうことなんですね……。『運命の番』を目の当たりにして、私もこれを目にしたとき泣いちゃいました」  辻本もその時のことを思い出したのだろう。目尻に薄っすらと涙を浮かべている。 「俺……彼に、酷いことをした。別れようだなんて……俺、バカだ」  浅はかだった自分を責めたとき、夕貴の視界が大きく揺れ、体が傾き始めていることに気づいた。膝に力が入らない。ガラスケースに爪を立て、火照り始めた体の異変に夕貴は目を見開いたまま息を呑んだ。  指先が小刻みに震え、心臓があり得ないほど早く打ち始める。 「宏……海……ハァハァ……ご、め……ハァ……ッ」  額にびっしりと汗を浮かべ肩を上下させて荒い息を繰り返している夕貴が、ただ泣き崩れているのではないと気づいたのは辻本だった。足早に彼に歩みよると、辻本は咄嗟に自身の口元を掌で覆った。 「夕貴さん!――すぐに社長をお呼びしますっ」  甘い匂いが社長室に充満する。その匂いが夕貴自身の体から発せられていることは一目瞭然だった。  体を翻した辻本の細い二の腕を掴んだ夕貴は、潤んだ目で首を左右に振った。 「いいからっ! 宏海に……迷惑、かけたく……ないっ。ごめ……ん、なさい。ごめ……ハァハァ」  そう声に出すことも今の夕貴にとってはツラく、耐え難いものだった。体内の熱が渦を巻きながら全身を焼き尽くす。どこに触れても過剰に反応してしまう自身の体を抱きしめるように夕貴は絨毯の上に転がった。 「夕貴さんっ!」  視界が大きく揺れ、吐く息が熱い。心臓が激しく高鳴り、全身の血が一気に下半身に集まっていく。  今まで周期通りに訪れていた発情期。排卵を促すホルモン剤の作用で周期が狂ったのか、それとも――。 「辻本さ……ん。いい、から……。俺のことは、ほっと……いて」 「すぐに戻りますっ!」  ヒールの踵を打ち鳴らして部屋から飛び出した辻本の背中を、ぼんやりとした視界で見つめる。  この部屋にいたのがベータ性である辻本一人だったことが救いだった。もしもアルファ性を持つ者がいれば、即座に夕貴は犯されていたに違いない。それほど強烈なフェロモンを発しながら迎えた発情期だが、いつもと何かが違っていた。  微かに感じる下腹部の痛み。その部分を手で押えこむと腰の奥がジンと痺れて甘い声が漏れてしまう。こんな痛みを感じることは一度もなかった。  宏海の嘘偽りのない想いに触れ、夕貴の体がその想いに応えるべく反応したのだろうか。  夕貴が本当に望んでいたもの。宏海が見据える未来――。 「ひろ……み。宏海……こない、で」  最愛の男の名を何度も呟く。『アドラシオン』代表として内覧会を成功させなければならない宏海をこんな形で呼び戻してしまった自身の浅はかさに胸を痛め、一方で貪欲にアルファの精を欲して渦巻く熱を何とか鎮めて欲しいと願う淫らなオメガがいる。夕貴は掠れた声を発しながら絨毯にしがみついた。  その時、社長室のドアが激しい音と共に力任せに開かれた。夕貴の朦朧とした視界に飛び込んできたのは、犬歯を剥き出し、欲情に駆られた宏海の姿だった。 「夕貴っ!」  部屋に充満する夕貴のフェロモンは、会場にいた宏海にも気づかれていたようだ。  運命で結ばれた二人は離れていても呼び合う。俗説だと思っていたが、どうやら本当だったのだと夕貴は霞む意識の中でぼんやりと思った。  夕貴が仕立てたスーツを着た宏海は誰よりも知的で理想的な夫に見えた。力の入らない体を軽々と抱き上げると、後ろにいた辻本に的確な指示を出した。 「内覧会はプログラムを一部変更して続行させろ。俺がいなくても指示書通りに進めれば十分に動かせる。うちには使えないスタッフなど一人もいない」 「ですが、社長っ!」 「俺はあいつらを信じている。俺の――いや、このイベントを成功させようとする想いは皆一つだ。辻本……お前に頼みたい。夕貴の作ったスーツを会場に展示してくれ」 「私が……ですか? でも、あれは夕貴さんの想いが……」  栗色の髪を乱して鋭い目を向けた宏海に、辻本は一瞬怯んだ。腕の中で怯えるように宏海の胸元を掴みながら何度も首を振る夕貴と、イベントを欠席しても夕貴を優先させようとする宏海を交互に見つめ、辻本は赤い唇を噛みしめた。  愛する番のためであれば自己犠牲も厭わないアルファ性の本性を見た辻本は、ゆっくりと頷いた。 「――分かりました。社長の指示は全社員に伝えます」 「頼む……。悪いな、辻本」  一瞬ではあったが宏海が安堵した気がして、辻本はスマートフォンを手に社長室をあとにした。 「宏海……ごめ、ん。俺……もう……」 「何も言わなくていい……」 「ハァ……ハァ……俺、宏海に……」  今にも粉々に砕けてしまいそうな理性を必死に繋ぎとめているのか、宏海は薄い唇を噛んだままきつく眉根を寄せた。  夕貴が身じろぐたびに花の匂いにも似た甘い香りが宏海の鼻腔を擽り、全身に滾るような熱を生む。その熱をぶつけるかのように夕貴の唇を塞いだ。 「っく――。ふ……っ」  互いの舌が激しく絡み合い小さな水音を立てる。宏海の熱い舌が夕貴の口蓋をなぞるたびに小刻みに腰が揺れ、思考が曖昧になっていく。 (気持ちいい……)  求めていた物を与えられた安心感からか、夕貴の意識が途切れたとき、宏海の足は自宅マンションへと向かって動いていた。

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