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 あれから、三ヶ月という月日が流れていた。  宏海が代表を務める『アドラシオン』の内覧会はビジネス誌を始め、ファッション業界でも大きく取り上げられ、オーダースーツを見直そうという動きが少しずつではあるが見え始めていた。  オーダースーツの素晴らしさを再認識してもらう意味で企画した宏海の戦略は見事に的を射たようだ。  それに触発されたのか、下町に店を構えるテーラー柏尾のドアを叩く若者が増えてきた。  厳しいようではあるが、金銭的な問題も含めてスーツを自身の見た目を良くする『飾り』として着るのではなく、自身の持つ意志や想いをすべての人に知ってもらうためというくらいの心持ちでなければ作らないと断言しオーダーを断る夕貴に、宏海は苦笑いを浮かべながら「お義父さんに似てきたね」と、賛辞とも苦言ともつかない言葉を漏らした。  父親に似ていると言われて、今まで嬉しいと思ったことは一度もなかった夕貴だったが、なぜか一流のテーラーとして認められたような気がして悪い気はしなかった。  滉平にいわせれば夕貴はまだ『ヒヨっ子』であり、露骨に苦虫を潰したような顔をされそうだが、一番近くにいる最愛の男に認められたことがくすぐったくもあり何よりも嬉しかった。 「――今日は、会社に行かなくていいのか?」  朝から店を訪れ夕貴の仕事場で型紙をおこす作業を真剣に見ていた宏海。その集中力に、夕貴の方が先に根負けし、掛けていた黒縁の眼鏡を外して作業台に置くと呆れたように声を掛けた。  フィッターとしてクライアントの採寸・アドバイス・そして補正や仮縫いまでをこなす宏海は、社内でも優秀な人材の発掘と育成に余念がない。特に海外留学を望む将来を有望視された社員への投資は惜しまなかった。  あの内覧会を機に、宏海の考え方も柔軟になってきたようだ。 「有能なスタッフに任せてあるから大丈夫」 「辻本さんか? こんなワガママな社長に振り回されてるなんて可哀そうだな」 「お前がそれを言うか? 辻本だけじゃない。社員全員の力があの会社を動かしている。これは自己啓発を兼ねた家族サービスの一環だ」 「は? じゃあ、少しは手伝えよ」  夕貴は揚げ足を取る伴侶に大仰なため息をつきながら、作業台の上に広げられた生地を丁寧にまとめた。ここ数日、疲れが残っているせいか体が怠い。宏海の手前、年齢のせいにしたくはないが、どうも調子が出ない。  睡眠は以前よりも多く取れているはずなのに、軽い眩暈と火照りのようなものを感じていた。 「――少し休むか?」  気怠げな夕貴の様子に気づいたのか、宏海がふらついた腰を力強い腕で支えた。 「発情期が近いせいだなきっと……。体が熱い……」  ゆっくりと椅子に腰かけて首を左右に動かしてみるが、モヤモヤとした気持ちが晴れることはなかった。  夕貴は、普段でもスーツを着用している。仕事中にいつ客が来店してもいいように、身だしなみだけはきちんとしていなければならない。それもテーラーとしてのプライドだ。  自身のスーツは宏海が手を掛けてくれている。こうやってお互いのスーツを作り合うことも、夕貴のとっては喜ばしいことの一つだった。  脚を組んで、背凭れに体を預けながら細く長い息を吐きだした夕貴が、目を逸らすことなくじっと見つめていた宏海の視線に気づいたのはしばらく経ってからのことだった。 「――どうした?」 「いや……。夕貴、最近……太った?」 「え?」  宏海は座っている夕貴のそばに歩み寄ると、不自然に寄った背中の皺を指先でなぞった。  ウェストから背中に掛けて引き攣れたような皺ができている。前はボタンを留めているが、特に苦しいと感じたことはなかった。 「気のせいだろ……。体重は変わってないと思うぞ」  毎日のようにスーツを着る夕貴を見ている宏海にしか分からない違和感。眉根を寄せ、訝るように夕貴の体を観察し始めた宏海に羞恥を覚えた。  彼の鋭い野性味を帯びたこげ茶色の瞳に舐めるように見られることは、まるで裸になった自身を見られているようで居たたまれないのだ。 「ジロジロ見るなよ……」  毎日確実に老いていく自分を見られるのは正直耐え難いものがあった。しかし「それがいい」と嬉しそうに愛撫する宏海の手の感触を思い出して、ぶるりと身を震わせた時だった。  背中から腰、そしてウェストのラインを確かめるように動いていた宏海の手がピタリと止まった。  そこは夕貴の下腹のあたり。宏海は、薄っすらと桃色に染まった顔を隠すように俯いていた夕貴の耳元に唇を寄せると低く掠れた声で囁いた。 「夕貴、検査はしたか?」 「何のだよ?」 「妊娠判定だよ。まだ――してない?」  夕貴は小さくため息をついて頷いた。反応が出ない検査薬を見る恐怖――三ヶ月に一度行われていたルーティン。今はそれから逃げるかのように、夕貴は検査をしていなかった。  また自分を責める日が始まると思うだけで憂鬱になる。宏海との関係は何とか修復できたものの、現実からは逃れることはできない。 「――どうせ、またダメだろう」  投げやりな口調で呟いて、わずかに目を伏せた夕貴の額に落ちた前髪が影を落とす。その長い前髪に手を差し入れて思い切り上に持ち上げた宏海が柔らかな笑みを湛えたまま覗き込んだ。  まるで新しい悪戯を思いついた子供のような無邪気な笑顔に、夕貴は眩しそうに目を細めた。 「なに、するんだよっ」 「やってみなきゃ分からないだろ? 病院から処方されたホルモン剤を呑んでいるわけだし、もしかしたら……ってことがあるかもしれない」 「――んだよ」 「え?」  夕貴は、膝の上で握った自身の手を落ち着きなく動かしながらボソリと呟いた。 「怖いんだよ……。また、お前と離れるのが……」  乱れた前髪の奥からすぐそばにある宏海の目を見つめた夕貴は、バツが悪そうにすっと視線を逸らした。  そんな夕貴をしばらく見下ろしていた宏海が不意に長身の体を屈め、夕貴の目の高さに視線を合わせてきた。それは駄々をこねる子供を諭す父親のようで、彼がそんな行動に出ることに驚きを隠せなかった。 「――俺は、自信をもって言えることがある。絶対に死ぬまで夕貴と離れない――いや、死んでも離さない。身体だけじゃない心も魂も離れることはない。俺はいつもお前のそばにいる」 「宏海……」 「もう一つ――。あの日、夕貴の体はいつも以上に俺を欲してくれた。そして、現実から目を背けて逃げていた俺を優しく迎えてくれた。魂が呼び合うってこういうことなんだって体で感じた」  宏海の大きな手が夕貴の両手に重なる。いつでも温かくて、夕貴を確かな道へと導いてくれる頼りになる手だ。その手に引かれて今日まで来た。先が見えない苦痛という闇の中でも、その手だけは離れることはなかった。 「賭けをしようか……。俺が勝ったらキスを一億回」 「負けたら?」 「セックスを一億回……。子供ができるまで毎晩しようか」 「そんなの賭けにならないだろ……。それに、もしも俺が妊娠していたとしたら当分の間セックスはできないんだぞ? その間、お前は耐えられるのか? 他の子と浮気する可能性だってあるだろ? それなら妊娠なんかしないほうがいい」  容姿端麗、優秀なアルファである宏海の精を欲しがる者は五万といる。たとえそれが行きずりだったとしても、宏海が認知さえすれば国の少子化対策法で定められた助成金を一生涯受け取れる。以前の日本では考えられない異例の措置であるが、近年急激に進む少子化をくい止めるためには苦肉の策といえよう。 「――それ、本気で言ってる? 言ってたら怒るよ?」  夕貴を覗き込んだ宏海の目は笑ってはいなかった。勝ち気なこげ茶色の瞳に浮かんだ怒り。その強い光に夕貴はわずかに身を震わせた。  野獣のような鋭さの中に滲む憂いと悲哀。愛する者に信じて貰えないという憤り。  夕貴は薄い唇を一度だけ噛みしめてから小さな声で言った。 「ごめん……。お前を信じていないわけじゃないんだ」 「じゃあ、どういう理由?」 「こんな俺を愛してくれるのかなって……。もしも妊娠できたとしても、無事に産まれてくるとは限らないだろ? いわゆる高齢出産……だぞ」  恐る恐る見上げたそこに宏海の呆れたような顔があり、夕貴は自分の被害妄想が特に問題視されていないことを悟った。  大きなため息と共に宏海はゆっくりと口を開いた。 「オメガ性の妊娠・出産は年齢とは無関係だ。これは医学的にも証明されている。担当医もそう言っていただろう? それに俺が夕貴を愛さない理由が見当たらない……。お前を愛さずして、他に誰を愛せというんだ?――なぜだろうな、予感がするんだ」 「予感?」 「嬉しい予感……。こんなに心が踊るような高揚感は初めてなんじゃないかな。それと……気づいてる? 夕貴の匂いがいつもと違ってる……。甘いだけじゃない、凛とした清々しさを感じる」 「なんだよ、それ……」  宏海は素早く身を起し夕貴の背後に回り込むと、優しくその体を抱きしめた。項に鼻先を埋め、夕貴が放つ香りをもう一度確かめるように大きく息を吸い込む。そして、番の証である首筋に残る咬み痕にキスを繰り返した。 「ん……っ」  下腹部が微かな痛みを伴って甘く疼き始める。内覧会の日、彼の声を聞くたびに疼いていたその場所がトクンと跳ねたような気がした。 「いい匂い……。雄を惹きつけるだけのフェロモンじゃない。オメガ性だけが纏うことができる特別な香りだ」  検査結果を知ることの恐怖。その反面で、夕貴もまた不思議な高揚感を感じていたことは否めない。口には出してはいないが、今までの感覚とは確実に違っていた。  妊娠の兆候――それは子を成す者にしか分からないというが、魂を繋ぐ宏海にはそれを感じる力があるのだろうか。 「――分かった。検査してみるよ」  夕貴は宏海の手を押し退けるように立ち上がると、軽い眩暈を覚えながらトイレに向かった。  とてつもなく長い時間――実はそう経っていないと知ったのは、トイレのドアを開けて真っ先に目に入った古い壁掛け時計を見たからだ。  検査キットを持つ指先が微かに震えている。  作業台の傍らに置かれた椅子に、脚を組んで腰かけていた宏海が笑顔で夕貴を迎える。 「どうだった?」  夕貴は額を覆っていた長い前髪を煩そうにかきあげてから、少し俯いて言った。 「――一生、キスしてくれるか?」  喉にはりついた声が掠れながら発せられる。 「え?」 「一億回じゃ足りない……。死ぬまで……キスしてくれるかって聞いてんの」  無意識ではあったが、その声は震えていた――そう、悲しみではなく喜びに満ちて。  溢れ出した涙が頬を伝い顎から滴となって落ちた。  宏海が勢いよく立ち上がった拍子に、木製の椅子が派手な音を立てて倒れた。信じられない思いで徐々に大きく見開かれていく宏海の瞳を見つめながら、涙でぐしゃぐしゃになった夕貴の顔が笑顔へと変わった。  ピンク色の妊娠検査キット。その判定部分にはしっかりと陽性を示す赤いラインが表示されていた。 「夕貴……」  いつも絶対的な自信を持つ宏海の低い声が微かに震えていた。床に敷かれたリノリュームに硬い靴音が響き、それが夕貴の前でピタリと止まった。 「キスもセックスもする……。俺は欲張りだから」 「賭けの意味、ないだろ」 「ずっとずっと繋がっていたい……。夕貴、愛しているっ」 「俺だけじゃなくて、これからはこの子もいっぱい愛してくれよ。お前の子なんだから」 「当たり前だろ! 何があっても守る……大切な家族だ」  宏海の腕に抱き寄せられ、厚い胸に頬を押し当てると彼の鼓動が聞こえた。夕貴は自分と同じくらい高鳴っていることに安堵し、宏海のスーツの襟元をギュッと掴んだ。 「もっと強くなる……。夕貴に守られて、この子に守られて……俺はもっと頑張れる」  夕貴の髪に顔を埋め、自身に暗示をかけるかのようにそう呟いた宏海の頬に涙が流れた。  互いに待ち望んでいた光が体に宿った時、一度は呪った運命を新たに受け入れる。  運命に選ばれた者は、喜びと同じだけの困難や試練を神に与えられる。それを乗り越えた時、より強い力を得て、更にその先に待つ嵐に立ち向かう。  子を成すことができなかった体も、周囲からの過剰な期待も、今はもう振り返る必要は何もない。  この体があったから、愛する人がそばにいてくれたから――新たな命を授かった幸福を感じられる。  それは夕貴と宏海を繋げたスーツと同じ。二人の想いが重なり、守り、慈しむことで一つのモノを生み出す力に変わる。  守るものは初めて出逢った時と変わらない。ただ純粋に大切な物を守りたいと切に願う心。  夕貴は自身の下腹部にそっと手を当てた。自然と溢れてくる笑みを我慢することなく宏海に向けた。 「頑張るばかりじゃない。時には肩の力を抜いて、思い切り甘えることを覚えろ……」 「夕貴がそれを許してくれるなら……」 「俺がいつ許さないと言った? この子が生まれてくるまで、思い切り甘やかしてやるよ。二人きりの時間だ……愛し合おう」  そう言い終えるのを待っていたかのように宏海の唇が重なった。触れ合わせた唇が綺麗な弧を描き、喜びを分かち合う。  触れることを恐れ、互いに手探りで探し求めていたものが今『確信』へと変わった。  下町特有の長閑な生活音に紛れてどこからか微かに聞こえてくる、お世辞でも上手いとは言えない拙いピアノの旋律。その音色が新たに動き出した運命を祝福するかのように抱き合う二人をそっと包み込んでいた。

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