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一周してわかること22
翌朝拓が寝ている間に旅館を散歩した。
朝の透明な風と、時が止まった静寂が全てを忘れさせてくれるようで。
大きな暖簾に気づき、そういえばここの温泉にちゃんと入ってないなと今さら。
まあ朝食終わったら帰るだろうし、覗いていくだけと中に入る。
誰もいない広い脱衣場は現実味がない。
ギシギシ鳴るすのこを進んで湯気の立ち上る浴室を見る。
視覚だけで熱を感じたのは初めてだった。
ボコボコと泡を浮かべる湯を見ているだけで背中の方から熱くなってきた。
また、今度。
今度は一人で来てみよう。
なんとなくそう思った。
暖簾をくぐると、厨房が賑わしくなってきていた。
まだ六時前なのに。
朝食は今から始まってるのか。
従業員は大変だな。
ペタペタとスリッパを鳴らしながらそちらに近づく。
廊下の角に差し掛かったときだった。
「お客さん」
びくうっと飛び上がりそうになった。
「えっ」
「早ようございますね。よく休めましたか」
鮮やかな深紅の着物。
女将だった。
寝起き姿の自分が恥ずかしくなるほどピシッとしている。
「あ、はい」
「朝風呂でしたら間もなく六時よりご利用可能ですよ」
しゃなりしゃなり。
そう形容すればいいのかわからないが、丁寧に踏み締めるようにこちらに寄る。
「いや、散歩してただけなんで」
「左様ですか……では、もしよろしければ客人は立ち入り不可の庭園をご覧になられませんか?」
意外な提案に訝しむが、女将は笑顔を見せてこう云った。
「早起きの三文を差し上げましょう」
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