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あの店に彼がいるそうです34
溶けきった氷が結露を集めてる。
俺はそれを一瞥して、手の甲で目を覆った。
「……類沢さん、長野に戻るんですか」
「そうだね。開店の前には」
「そしたら、麻那さんの元に」
「今日は調子が良いみたいで店で待ってるよ」
「早く会いたいですか」
「どうだろうね。毎回顔を合わせる度に、怖くなる。僕のことわからなくなってるんじゃないかって」
「忘れられても、そばにいたいですか」
「わからない。長くても来年の今日には決断を下してるだろうけど」
「どんな気分なんでしょうね」
「ああ、最悪だろうね」
「知ってることがわからなくなる」
「でも、相手は知っているままだ」
「怖いですね」
「怖いよ。此方まで揺らいでくる」
「それでもそばにいたいんですね」
「……そうだね」
「……」
「……」
「……今日は、なんであの時間に?」
「開店前を見たかった。オペラが完成してからは来てないから。そしたら瑞希がいた。正直驚いたよ」
「なんで昨夜は」
「彼女に頼まれていたんだ。瑞希とは二人きりで話させてほしいって」
「何か言っていましたか」
「安心したって」
「安心?」
「……そう。安心。僕を任せられるって」
「任せ……」
「そう言ったことも、いや、昨日ここに来たことすらもう今朝には……」
「河南。覚えてますか」
「うん? 覚えてるよ」
「俺、別れたんです」
「……そう」
「その時に河南が、俺なら類沢さんに会えるって断言したんですよ。それで、昨日ここに来ることになって……」
「強い女性だね」
「……はい。本当に敵わない」
「っくく」
「なんですか」
「いや。もし、もしだよ。あの日瑞希がシエラに来てなければ、瑞希は河南ちゃんとそのままで、雅樹は麻那姉さんを見つけようとも思わず、僕は変わらずにホストを続けていたのかと思うと」
「きっかけは河南ですね!」
「そうなるね」
「……すげぇ」
一ヶ月分の話したかったことを一センチずつ埋めていくように俺と類沢は話続けた。
まるでこのまま二人の生活がまた始まるみたいな温度のままで。
錯覚してしまうほど穏やかに。
ソファに並んで。
互いに逆の脚を組んで。
「さっき、誰か来た音がしたね」
「多分、栗鷹さんたちです」
「……ああ。あの二人にも挨拶しないと」
「降りますか?」
そしたらもう、こんな時間はなくなる。
少なくとも一年は。
「降りようか」
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