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祥吾編3
だらだらと街を歩いて、適当に暇を潰して家に帰ったのは、夜中過ぎ。
隣に狩人が棲んでるような状況で、酒なんて呑んで帰れるわけもない。本当は家で一杯開けたいけど、軽くシャワーでも浴びて寝るかと思いながらマンションの階段を上がる。自分の部屋がある階まで一息で上って、そのまま廊下を歩きかけた俺の足が、いるはずの無いモノを見つけて、一瞬止まった。
急いで確認したくて、少し早足で、自分の部屋の前へと向かう。
「…どうしたんですか、こんな夜中に」
「仕事帰りか?随分と忙しそうだな」
廊下の壁にもたれかかって外を見ていた男が、俺のほうへと振り返った。
「いや、仕事っていうか…仕事は夕方までで、後はダラダラと」
「もう少し真面目に働いたらどうだ」
「俺が真面目に働くのってどうなんですか。あんまイイ話じゃないでしょ」
「仕事は仕事だろう」
「まぁ…金をもらって働いてるんで、ボランティアじゃあないですけどね…」
狩人と人間が世間話として話す内容じゃない。
いや、狩人と人間が世間話をしてるほうがおかしいか。
「…っていうか、暁さん。こんな夜中に廊下で喋ってると隣近所からうるさい、って言われるんで…良かったら、中にでも」
昨日の今日で、こんな誘いに乗るとは思えなかった。
男も、一瞬俺の部屋の扉のほうへと目をやったけど、そのまま俺のほうへと向き直る。
「今日は、罠を張っているのか」
「…それ、堂々と聞きます?」
「重要だろう」
「まぁ…重要ですけど。でも、あなたの部屋には入れてくれないでしょ」
「茶を出すくらいなら」
当たり前のような真面目な顔で、男はそう言った。
昨日引っ越してきたばっかりで。挨拶に来ただけなのにちょっと襲われて。襲ったくせに罠まで張ってると言った『変態』の男を。
ふつーに部屋にあげるんだな、この人は。
「…あなたも充分に変人ですよね」
「近所付き合いは大事だからな」
「これ、普通の近所付き合いに見えてるんですか」
さすがに少しは呆れる。何が常識人だ。常識人は、こんなにフレンドリーでもないだろ。ちょっとは警戒くらいしろよ。
それとも、警戒なんてしなくても、自分は充分強いからどうってことは無いって話か?
「まぁ…俺にしてみれば、これ幸いなんで。上がらせてもらいます」
『暁 士名汰』の表札がかかった隣の部屋の前に立って、俺はそれを見上げる。
今時、こんな大仰な表札かかったマンションの部屋なんて、見たことない。っていうか、マンションの部屋に表札つけてるヤツいるか?
「えーと…シナタさん」
「ん?」
扉を躊躇なく開いた男の後から玄関に入る。
玄関を上がったところでスリッパを出されて、とりあえずそれに履き替えて部屋の中に入ると、実にこざっぱりとした、というか、あまり物の置いていない空間が広がっていた。
部屋の間取りは、俺の部屋と同じなら1LDK。この辺じゃ2DKの間取りが多いから、割と珍しいかな。単身者が学生以外だと多くはいない地域だから、1LDKの部屋っていうのは、なかなか借り手がいない。
「シナタさんって呼んでもいいんです?」
「その名は、俺が自分で付けた名前だ。好きに呼べばいい」
あっさりとそれが偽名だと暴露した男を前に、俺は立ち尽くしかける。
狩人は自分のことなんて簡単には話さない。大体、世間話の一環で『偽名使ってる』なんて話すヤツは…。人間でもほとんど居ないんじゃないか?
いやいや。相手のペースに飲まれるわけには行かない。
「じゃあ、本名は何って言うんですか?」
「…」
さすがに、返事は返ってこなかった。まぁ妥当なところだ。
「あぁ、別にいいんですよ。あの漢字が凄いから、ネットで使うにしたって大仰だなぁって思ってたんですよ」
キッチンに入った男は、急須を棚から出している。本当に茶を淹れてくれるらしい。
「どういう意味で付けたんですか?あの漢字」
「幕末時代が好きで、志士のようにというつもりで付けただけだ」
「あぁ~…志士の名、で、後の『汰』は?」
「多少は男らしいだろう」
「『た』が?」
「汰、が」
「…正直、よく分からないですけど」
「ただの趣味だ」
男は湯を沸かし、それを急須に注いだ。対面式キッチンの椅子に座って、俺はそれを眺める。
この人は、何だかとても穏やかだ。平常心を保とうとしているというより、元々そういう性格なんだろうな。変わってると言ってしまえばそれまでだけど、俺は、そういう穏やかな時間は嫌いじゃない。
「…あなたが、その名前が好きなのは分かりましたけど…。どうせならやっぱり、本名で呼びたいかなぁ…」
「お前は、本名なのか?」
「『橘祥吾」ですか?本名ですよ。ちゃんと住民登録されてます。両親もいましたよ」
若干、トゲを含んだような、ちょっと硬い声が出る。
男はちらと俺を見て、けれどそのまま盆の上に湯呑と茶托を置き、対面キッチンなのに、横から俺の傍に湯呑を置いた。ちゃんと茶托の上に乗っていて、別の皿には懐紙に乗ったお菓子までついている。
「…すげぇ…。こんなの初めて出されました」
「部屋に上げた以上、茶くらいは出すだろう」
「いや、出されたことがある茶なんて、せいぜいペットボトルくらいですよ。おーいなお茶ですよ。菓子なんて、その辺のスーパーで買ったスナック菓子ですよ。っていうか、こんな和菓子ストックしてるんですか」
「近くに和菓子屋があっただろう。薄い皮で包まれた饅頭の試食が美味しかった。他のものとセットで売っていたから買ってみたんだが」
「あぁ~、あの饅頭! 美味いですよね~」
狩人はそういえば、大体甘党だ。涼しげな顔をしているから忘れていた。和菓子の話をするときに少しテンションが上がってたことも見逃せない。
「あぁ、あれは以前住んでいたところには無かった。この辺りの和菓子屋にはどこにでもあるのか?」
「いやぁ~…?あの店だけじゃないですかね」
「それは、通う価値があるな」
大きく頷く男を見ながら、俺も笑って見せる。
男に笑いかけるたびに、痛む。心の奥が軋む音がするけれども。
「…あ、美味い。なんか薄い餅の皮みたいなので、白あん包んでるんですね、これ。ミカンっぽい見た目で作ってあって」
「時季物は上生菓子にはよくある装いだ。雛祭りは過ぎたが、右近の橘、左近の桜は、飾り物として欠かせないからな」
「…たち、ばな」
「今で言う所の蜜柑か」
「…もしかして、俺のこと、始めから誘ってくれるつもりで買ってくれたんですか?…え?もしかして、それって俺のこと」
「来訪者に合わせて茶を出すのは、古来よりの礼儀だろう」
「いやいや、俺が今日、ここに入るなんて分かってなかったですよね。あ!もしかして外に居たのって、俺を招待してくれるために、俺が帰ってくるの待ってたとか、そういう」
「…」
ぐいぐい攻め込んで行くと、さすがにこの男も口をつぐむ。
馬鹿げてるとか、辟易するとか、そういう表情ではなく、図星を指されて恥ずかしいというわけでもなく、まぁ感情がほとんど表に出てこないから分からないけれど、多分、俺のアプローチが前向きすぎて、ちょっとは呆れたんだろう。
「でも、だとしたら結構嬉しいなぁ…。相当嬉しいかも。昨日の今日で、俺のこと認めてくれたってことでしょ?いやぁ、すごいな、俺」
「…近所付き合いの一環の中で、このような不躾な事を聞くのもどうかとは思うが…お前は、男が好きなのか?」
「えぇ?何ですか、今更。昨日言いましたよね、俺」
「初対面だという相手に、性的嗜好を堂々と晒すはずがないと思っていたんだが…」
「だって、かなり好みだったので、つい。それに、あなたも男がイケると思い込んでいたんで」
「考えたことはなかった」
「もしかして、衝撃でしたか。いきなり襲われて」
「よく考えてみれば、同意がなければ犯罪ではないのか?」
「あぁ、そうですね。でも俺が、周りにあなたの正体をバラせば、犯罪にはならないですね」
腕組みをして立っていた男を見上げ、微笑んで見せた。何か考えていた風の男は、俺の台詞に視線を向けてくる。
「世間的にも法律的にも、あなたのほうが『犯罪者』だ。だから俺たちは、何をやったっていい。法律だ犯罪だって言うなら、間違いなく守られてないのはあなたたちのほうだし、そういう意味ではヤクザよりも守られてないですよね。だって俺たちは、あなたたちを10人殺したって無罪だ」
「『魔女狩り』だな」
俺の煽りに対して、男はそう返した。
「『聖職者』が『あの女は魔女だ』と言えば、それが絶対になる。『守人』が、『あの男は狩人だ』と言えば、それが絶対になる」
「…無実の人間を、狩人に仕立て上げてる可能性がある、って話ですか。それは知ってますよ。だから複数の守人で『確認する』ことになってる。でも、あなたは違いますよね。あなたは正真正銘の、『狩人』だ」
その言葉。その呼び名を相手に突きつけること。
それがどれほどキケンなことか、俺たちはよく知っている。守人にならざるを得なかった者たちは皆、その呼び名を、或いはそうと分かる名を口にしたことで、少なからず不幸を呼び込んできた。その過去を背負ってきた。だからよく分かってる。それを、相手に言ってはいけないことは。
特に、1対1で対峙しているときには、絶対に。
「…人の部屋を表から訪問しておいて、簡単に喧嘩を売るな、お前は」
今度は、明確に、男は表情を見せた。
突き詰められて発する怒りでも悲しみでもない。呆れ、だ。明らかに、呆れた表情だ。
「でも、俺はあなたが部屋に来たときから知ってたわけだし、あなたも俺が守人であることは、途中から分かってたわけでしょ。なのにあなたは俺を自分の部屋に入れてくれたわけだし、俺もあなたも自殺行為なのは承知の上で、こうして会ってるわけで」
「守人が集団で面白がって狩人の女を性的に襲う話は知っている。お前が男を好きだという理由で、同じように狩人の男を襲っているのならば、お前は狩人の世界ではブラックリストに載っているということになるな」
「…狩人界のブラックリスト…なんてものがあるのか」
「お前が言うように、狩人を人間は守らない。ならば、狩人たちを守るのは狩人でしか有り得ないだろう」
「そんな秘密事項、簡単に喋っちゃっていいんですか」
「秘密事項でもないだろう。普通に考えれば、誰でも思いつく」
いやいや…『狩人は単体で行動することを好む』というのが、人間の常識ですよ?社会性があるとは思われてませんよ?
貶しても、煽っても、むしろケンカ売っても、乗ってこない。結構な平和主義者だ。裏を返せば暢気すぎる。ここが特殊部隊に囲まれてて、突入されて殺されるという意識は全くないらしい。むしろ、そんなもの簡単に脱出できるとでも思っているのか。
どちらにしても、こんなに簡単に『狩人たちのこと』を話してくれる狩人は、見たことも聞いたこともなかった。
自分たちのことは絶対に話さない。そう聞いていたけれど…。
「何で…なんですかね。あなたがそんなに俺にぺらぺらと喋ってくれるのは。…やっぱりあれですかね。俺のことが実はあなたも好きで!」
「嫌いではないな」
「マジですか。何でですか。俺、結構ウザくないですか。自分でも結構ウザい自覚はありますよ?」
「自覚があったのか」
男は初めて、少し声を上げて笑った。そこには、皮肉の色も、侮蔑の色も、ない。ただ面白くて笑った…というだけの表情。
「そうだな…。お前は、狩人を他にも襲っているのかもしれないが、昨晩、気を遣われていることは感じた。それが陥れるためだけの嘘ならば、罠があることは言わないだろう。それも含めて罠だったとしても、お前が俺を『狩人』ではなく『人』として扱ってくれようとしている所もあって、嬉しく感じなかったわけでもないし…」
「そこまで含めて、罠だった、と、しても」
「そうだな。狩人は大概孤独を感じている。人の優しさは身に染みるよ」
そう笑う穏やかさは、内に孤独を秘めているからなのか。
相手にそう思わせて油断を誘うための、意識的な、或いは無意識的な表情なのか。
どうとだって、取れる。仲の良い人間のことだって、その心の内が本当はどうだかなんて分からないんだ。ましてや、狩人が本当はどうだかなんて。
「…それ、完全に誘ってますよね。性的に、俺に、襲ってほしい、って言ってますよね?」
「欠片も言っていないと思うんだが」
「寂しさを埋めましょうよ。体を重ねれば、孤独くらい埋まりますよ!一晩は!」
「それは根本的な解決とは程遠いだろう」
「えっ、じゃあ何ですか。俺と毎晩寝てくれると」
「…お前は、本気でそうしたいと思うのか?」
小さく息を吐いて、男はそう言った。
一瞬、ほんの一瞬だけ、俺は言いよどむ。
「思ってますよ。顔も、体も、タイプなんで」
「狩人は夜が一番危ないぞ。昼間は温厚でも、夜は豹変する」
「エロいなぁ…。豹変したあなたも見てみたい、なんて」
「そんな顔で言う台詞か」
男は、どこまでも真面目な顔つきだった。
俺が本当に言いたいことは分かってて、それを飄々と色気のほうに持って行こうとする俺が、この人には居たたまれないんだろうか。何より、本当の本気で口説いているわけじゃないってことくらい、この人にだって分かってて、だから。
「俺、そこそこ顔はイケてると思ってるんですけど」
「そういうことじゃない。お前は、仕事のために、俺を口説き落とさなければならないんだろう。けれどもそれは、お前の為になっていない。狩人への憎しみが深くなれば、お前は近いうちに滅びの道を選ぶ。お前には、こういう内偵のような仕事は向いていない」
「…心配、してくれてるんですか」
「忠告しているだけだ」
「何気に、ちょいちょいツンデレですよね、あなたは」
「…ツンデレ」
確かに、この人が言っていることは正しい。
狩人を憎む人間が、狩人により深く接触する。それは憎しみを増長させることが多い。その結果暴走し、周囲に迷惑をかけることも多いのだ。
憎しみが生まれた原因は、恐怖だ。狩人に大切なものを奪われ憎しみが生まれるが、同時に狩人に対して恐怖も感じてる。そして、憎悪も恐怖も…人の思考を混乱させる。
「まぁ…いいや。そう簡単に襲わせてはくれないですよね。今日は帰ります」
これ以上、この人の話を茶化すことは出来なかった。立ち上がって男のほうを見ると、男は先に玄関まで行って扉を開く。そして、俺が玄関で靴を履くときには、短い廊下を戻って部屋に入ってしまった。
気を遣われていることは分かってた。
でも、それに気づかないフリをして扉の先に出る。
俺の中にだって、あるんだ。
狩人に対する、憎悪、嫌悪、恐怖。
何よりも深く、深く俺の中に潜んで蠢く…復讐心。
俺は…ある1人の狩人を。
もうずっと、探している。
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