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祥吾編6
子供であるお前は、生かしておいてやろう。だがいずれ…喰らいに来るぞ。
涼やかな声が、遠い記憶の中で囁いている。
脅すような台詞なのに、少し高めの声。そこにも違和感を感じなかったわけではない。
「…あなたが…あの時の、『おじさん』?」
「お前はあの日もそう言ったが…俺はまだ14歳だった」
そうだ。あれは、声変わりを始めたくらいの、少年の声じゃなかったか。
「14歳…とは思えないくらい、大人な喋りだったんで…」
言いながらも、腕を掴む力が強くなっていたのに気付き、その力を緩める。だが腕を放すことはしない。
「…殺したんですか」
自分の声が下がっていくことも、自覚していた。
もう、分かっている。この人が、あの時の男だったのならば、大体の見当はついている。あの日、何があったのかは。
「お前の家族のことか」
「もう1人の、狩人のことです」
あの日、ベッドの傍に立っていたのがこの人だったのならば。
訪問者の『おじさん』ではなく、この人だったのならば。
あの日、この人は何が起こっていたのか理解していた。俺のことを見て『生きていたか』と言ったのだ。俺が原因で招いた事態だということも分かっていた。つまり、もう1人の狩人と接触する機会があったということだ。
何故、この人が家に来たのかまでは分からない。けれども、狩人が2人も居て俺が無事だったということは。
「俺を、守ってくれたんでしょう。勿論それは結果であって、あなたは俺が死んでいると思ってた。それでもあなたは、大人の狩人相手にどうやったか知らないけれども撃退して、俺を守ったんだ」
「都合よく解釈したな」
「それとも、俺を喰いにきたんですか。俺が橘祥吾かどうか、自信なかったくせに」
「…」
「確かに俺の心は喰われましたよ。あなたに、どっぷりと。けれど、あれは脅しだったんじゃないんですか。同じ事を繰り返すなという戒めの台詞だったんじゃないですか。実際、どうやって獲物と定めた相手を把握するんだろう、ってずっと疑問だったんですよ。そんな能力があるなんて聞いたことなかったし。そりゃ、探偵でも雇ってずっと監視してれば…」
言いかけて、ふと気付いた。
そういえばこの人は、俺の部屋の前によく立っている。この4日の内、2度も。
「…もしかして、俺を監視してたんですか。毎日部屋の前で」
「言っておくが、俺は」
「勿論、俺を喰うためじゃないですよね。本気で喰う気なら、さっき喰ってますよね。…俺が何かまたやらかすんじゃないかって、気にしてくれてたんですか。もしかして、俺の両親のこと、昔から知ってて、それで」
「知っていたのは、お前の姉だ」
あぁ、そうか。
その一言で、俺は悟ったような気がした。
俺は、14歳だった頃のこの人と、昼間に会ったことはない。だからこの人は、俺が居るときに家に来たことはないんだろう。けれども、当時中学生だった姉とは知り合いだった。もしかしたら、ただの知り合いじゃなかったのかもしれない。
「好きだったんですか。姉貴のこと」
「…そういうわけではないが」
「どうして、家に来てくれたんですか」
「お前は美談にしようとしているが、成長期の狩人が考えていることは、そんな綺麗なことではないぞ」
「あぁ、犯したかったんですか」
「…お前は相変わらず、実の姉に対しても直接的な言い方をするな。…だがもっと動物的な感覚だ。若者は、往々にして自分の欲望を抑えることが出来ない」
「…喰ったんですか」
「喰ってない」
男は首を振り、視線を落とした。
「だが、そう思っていたのは事実だ。当時、その感情を持て余していたのも事実だ。…あの日、男が1人、橘の家を訪れるのを見た。俺はすぐに後を追って入ろうとしたが、橘の家に彼女は居なかった。俺を迎え入れる人物が居なければ、家には入れない。俺は彼女が帰ってくるのを待ったが…」
「…帰ってこなかった…?でも、あの日は姉貴も…」
「裏口から帰ってきていた。そのことに俺は気付かなかった。そして…玄関の扉が開いた」
わずかに。
そう呟き、目を伏せる。静かな声音だったけど、表情には苦しいような、悲しいような、色が滲み出ていた。
俺が知りたかったあの日のことが、語られている。けれども、聞きたくないような気がした。あの日のことを後悔しているのは、俺だけじゃない。きっと、この人も。
だとしたら、語らせるのは辛いだけじゃないのか?
「開いた扉の隙間から中に入ると、扉に手を掛けた状態で彼女が倒れていた。俺たちは、人が生きているか死んでいるかは見れば分かる。彼女を救うことが出来ないことは、一目で分かった。ならばその場で…」
淡々と話そうと決めたのか、抑揚のない話し方になったが、一瞬言い淀んで俺を見る。
「やっぱり喰ったんですか」
「…喰ってない。そうしたい気持ちはあった。けれど、同時に怒りも感じていた。それは、自分の獲物が取られた怒りなのだろうが、許せないと思ったのは確かだ。だから、室内に乗り込んだ。…その場がどうだったかは敢えて言わないが、相手とは少し会話をした。そこで、その男がその日に一家を喰おうと決めた理由を聞いた」
「俺に金色の目を指摘された件ですか」
「そうだ。何も知らずに寝ていたお前を見たとき、呆れと怒りを感じたものだ。それは俺の一方的な理屈に過ぎないが、本当に一瞬、お前を喰ってやろうかとは、思った」
「…結構、冷静な物言いだった記憶がありますけど」
「怒りに任せて喰うことは、礼儀に反している。喰うならば、感情に突き動かされた時ではなく、冷静であれるときだろう、と」
「脅しで喰ってやるって言ったわけじゃなかったんだ」
「そうだな。俺もまだ若かった」
淡々と言っている。淡々と話しているけれど、内容は結構不穏だ。その言葉のままに、今襲い掛かられるんじゃないかという恐怖も、俺の頭の隅に芽生えている。
「今も、俺を喰うつもりですか」
「そうだと言ったら、俺はお前たちのブラックリストに載るのだろうな」
「言わなくてももう載ってますけど」
「…そうか」
「俺を見守ってたわけじゃない。俺を喰うために見張ってたわけじゃない…のだとしたら、あなたは何故、俺に構ってくれるんですか?無理矢理色んなことされて、罠にまでご丁寧にかかってくれて、狩人のくせに、結構マゾですよね。実はちょっと痛い目に遭うほうが好きなんですか」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、何でなんですか。何で…守人の俺に、構ってくれるんですか?」
この人が、本当の本当の気持ちを吐露しているとは思えなかった。嘘じゃないだろう。でも、あの日の気持ち、今の気持ち、それを語ってるけど、気持ちの一部だけを言葉にしていると感じる。
本当は、姉を好きだったんじゃないか。だから、俺を生かそうと思ったんじゃないか。姉を救えなかったから、俺のやる事を受け入れてくれてるんじゃないか。稀に居る自己犠牲も厭わない狩人。この人は、そういう人なんじゃないのか。
きっと勝手に美談にしたいだけなんだろう。この人が言うように。
狩人が「食料」である人間に対して、同等だと感じているなんて思えない。救っている狩人が居るとすれば、それは自分に酔ってるだけじゃないのか。弱い者を守るという英雄思想で。
俺が見えている世界と、この人が見えている世界は違う。考え方だって違う。
同じ人間同士だって分かり合えないんだ。狩人となんて分かり合えるわけがない。でも。
「それは、お前が俺に構ってくれるからじゃないのか?」
不意に、どこか優しい響きを伴った声が、俺を包み込んだ気がした。
「言っただろう。狩人は孤独を感じている。こんな風に擦り寄られたら、相手が何であろうと、寄り添いたくもなる」
「…餌である人間でも」
「どちらかと言えば、ペットじゃないか?人間は犬や猫を家族同然に可愛がるだろう。犬や猫を食う地域もあるらしいが」
「ペット。俺…ペットですか?ペットに散々好きなようにヤられてる飼い主なんていないでしょ」
「躾が行き届かず、ペットに振り回されている飼い主は多いだろう」
それは確かに居る。居る、けど…。
「視線的に同等じゃないなぁ…。でも、そうか。狩人目線じゃ、人間はペットかもしれないのか…」
まだ掴んだままの腕を軽く引くと、その体は簡単に動いた。腕を掴んだままもう片方の手で肩に触れて、頬に口付ける。
「でも…逆、もできるかもしれないですよね…。餌付け、的な」
「…餌付け」
「俺の血だけ飲んで生きる、とか」
「それは餌付けじゃない。自殺だ」
「やっぱ足りませんか。俺1人の血じゃ」
「お前はどう思っているのか知らないが…」
軽く抱き寄せると、俺より少し背の低いその人の吐息が、俺の首筋にかかる。首を晒しているなんて危険だって分かってるけど、色んな意味でぞくりと来た。
何だろうな。俺も結構…Mなのかな。この人に喰われるかもしれないということに、恐怖以外を感じるなんて。
「…俺は、少なからず触れ合った人間を、食べる気にはならないんだがな…」
その口から漏れる言葉は、やっぱり優しい。そうは言っても喰うんだろ、という気持ちも無くならないけど、それがもっと先の未来で、例えば俺がヘマやって死に掛けたときには…もう、この人に喰ってもらえるならそれでいいんじゃないかとか。完全に、頭がおかしいヤツが思うようなことを、俺も思ってしまってる。
「あなたは、姉貴を喰わなかったみたいだけど…俺が他の狩人に狩られそうになって死にかけたり、病気でもう助からなかったりしたときは、あなたの血肉になれればいいなぁ、って思ってますよ」
「病持ちは喰わないぞ。癌になったらどうする」
「狩人も癌になるんですか?」
「ウイルス持ちは移ると聞いている」
「今、自分の血族さりげなく売りましたね。その情報、結構でかいですよ」
「それくらい、知ってるだろう」
「知りませんよ」
言いながら、もう少し強く抱きしめた。
この人は簡単に狩人たちの情報を話してくれるけれど、もう、それを誰かに言うつもりなんてない。
俺のことを愛しているわけじゃないと、ただ孤独だから傍に居るだけだと言うけれど、それは結局、愛なんじゃないのか?そう、感じてしまうから。
「…シナタさん。あなたはこの名前が好きだと言ったけれど、やっぱり…本名知りたいです。本当の名前で呼びたいです。ダメですか?」
「…」
「本名には呪いか何かかかってて、呼ばれたら呪われるとか…そういうことないですよね?」
「…サクラ」
「ん?」
「アカツキサクラ」
ぼそっと呟くように言うと、黙り込んでしまった。
「サクラさん。…どんな漢字…」
「…木と同じ、一文字の」
「あぁ…『桜』。暁 桜 か…。綺麗な名前じゃないですか」
「女の名前だろう」
「だからイヤだったんですか?今時、みんな男か女かわかんない名前ばっかですよ」
「…」
「いいじゃないですか。桜。俺は好きだけどな。花の中で一番好きです。桜の花。…あ、そういえば、俺に和菓子くれたとき、雛人形の飾りの桜がどうとか言ってましたよね。橘と、桜。桜も買ってあったんですか?」
「…セットで売っていたからな」
「俺に桜のほうを出してくれればよかったのに。あなたの名前を食べることが出来たのになぁ」
「…それは、馬鹿にしているのか」
「してるわけないでしょ。あなたの名前だと思ったら…より、好きになった。それだけです」
俺を見上げた顔が、少しずつ紅潮していく様を、俺は見た。
可愛い。ヤバい。可愛い。でも、何だか俺も恥ずかしい。そんな思いで、俺も見つめ返す。でも、見つめ合ってたのは多分一瞬。彼はすぐに顔を伏せてしまった。
何それ。可愛い。何でそんなに可愛いんですか。
「…桜さん、可愛い。ほんと…可愛いなぁ…」
「…やめてくれ。狩人が可愛いわけがないだろう」
「そういうのは、『男が可愛いわけないだろ』って言うところでしょ。でもすみません。男だろうと狩人だろうと年上だろうと、桜さんは可愛いです。何かもう、イチャイチャしたいです」
「…」
あ。耳まで赤くなった。
何かもう、どんな攻撃よりも俺にすこぶるダメージを与えてくるその振る舞い、どうなんだよ、もう。どこの深窓の令嬢だよ。ギャップ激しすぎるだろ。世にも恐れられる狩人が、こんなに初心な振る舞いしてくるなんて。
「…桜さん。抱いてもいいですか?あなたの中に、入っても」
耳元で囁いて、その耳を軽く舐める。びくりと震えたその人は、けれども首を横には振らなかった。
「あなたが好きです。本当に…心の底から…あなたが、欲しいです。何を言っても、俺が守人である以上、伝わらないかもしれないけど…」
でも、伝わってると信じたい。
この人が、俺のことを受け入れてくれていると信じたい。
何も言わないその人の腰を抱き、俺はベッドルームの扉を開いた。
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