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仁哉編2

 深い闇が、濁るような夜だった。  新月の晩は狩人の活動が増えるから、夜遅くに外に出るな。そう言われて久しいその習慣は今の時代も生きていて、新月の晩は人通りも少ない。  実際、新月の晩に活発に狩人が動くのは、夜に光が失われるからだ。だが人工的な光に包まれる町では、新月だろうが満月だろうが大差ない。どれだけ光が眩しくても、闇はすぐ傍に潜んでいる。  俺がその裏通りを足早に歩いていたのは、目的地へ行く為の道が工事中で通れなかったからだ。元々この辺りは俺の活動区域ではない。北谷正人のマンションが隣県だったのも、時間がかかった理由だ。どちらにしても目的地は繁華街の中だったから、途中で車を置いて歩くことになった。  裏通りを抜ければ閉店までに間に合うかもしれない。  そう思ってしまったのは、完全に俺の油断だ。  誰も通らないような路地の小路から聞こえてくる小さな声に足を止めなければ、良かったのかもしれない。その声を不審に思って近づかなければ。 「…ふ…あぁ…」  それが嬌声だと気付いたのは、既にその現場を見てしまった後だった。  まず、嬌声を上げていたのは男だ。その時点で嬌声という言葉と合っていないのだが、掠れた声で悦びをうたっているのは間違いない。 「あぁん…もう…むりぃ…もぉ…あ、あぁ…」  その小路は『売店舗』と書かれた貼り紙や看板が置かれた小さな家ばかりが並んでいた。恐らくどの店も潰れたか移転したのだろう。その店と店の間で、壁に両肘を突いた状態で、男が背後から犯されている。玄関側から距離はあるが、それほど大きくない家だ。周囲に生垣もあったが、小路側からでもその光景はしっかりと見える。  それが2人の人間だったなら、「お前らホテルの中でやれ」と注意くらいはしただろう。正直男同士の行為に興味はないが、外でやるのが趣味だったとしても、光もほとんど届かないような暗がりでやることではない。狩人が通れば2人まとめて恰好の餌食だ。  だが、姿を見れば一瞬で分かる。悦ぶ男を犯しているのが狩人だということは。  となると、犯されている側がどういう心理状態か、という話だ。相手が人間だと思ってお相手しているのか、狩人だと分かっていて、その支配下に置かれているのか。 「ねぇっ…もぉ、イかせてよぉ…ジン…」  男は、すがるように狩人へと振り返り、甘えた声でねだった。狩人のほうは何も言わない。ただ吐息だけが聞こえてくる。  どうするべきか…本来は、迷う暇はない。狩人が人間を犯すことはよくある話だが、それだけで終わることのほうが少ないからだ。だから止めるべきなのだが、守人一人で狩人一人を仕留めることは不可能だと言われている。それが夜なら尚の事。すぐにその場を離れ、組織に通報すべきなのだが。 「ジンッ…あぁ、もぉダメぇ…ねぇ、ジン…ジンッ…!」  濁った闇が、纏わりつくようだった。  体が動かない。目の前で繰り広げられる光景から目が離せない。どこか薄れていく意識を認めながら、俺はただ、その場に立ち尽くすしかなかった。  どれくらい時間が経っただろうか。それはほんの1分ほどの間だったかもしれないし、既に5分以上経ってたのかもしれない。  呆然と立ち尽くしていた俺の意識は、急激に覚醒した。    何かが、来た。  裏通りのほうから生温い風が吹きこんで来たのを感じる。春になったばかりの夜風は涼しいはずだが、その中に混ざる温い匂い。生き物の程よい熱を感じるような、ぬるま湯のような、甘さをまとうその香りは。  血だ。  それも、大量の。 「ハァ…ッ!極上の…エモノだなぁああっ!」  突然、強烈な匂いと共に男が飛び掛かって来た。ほんの数秒の間に身構えていた俺は後退し、かろうじて襲撃者をかわす。竹を半分に割って重ねた垣根が家の傍に立てかけられていたのは確認済だ。それを襲撃者に向かって倒し、ベルトにかけてある鎖を引っ張り両手で握る。襲撃者が垣根を破壊して俺に向かって拳を振りかぶったが、両手で握った鎖を伸ばして相手の拳を絡めた。そのまま引き倒そうと体勢を変えたが、俺の傍を通った襲撃者から大量の血の匂いが流れてきて、俺の脳内を刺激する。  吐きそうだ。  あぁ、本当に、立ち止まらなければ良かった。  そもそも、本調子じゃなかったと言うのに。 「アハハハハハハハ!!うまいなぁ!うまそうだなぁ!!!」  バランスを崩したのは俺だけじゃない。だが襲撃者はすぐに方向を転換して、俺へと飛び掛かって来る。片手で頭を押さえながらもう片方の手で鎖を振るったが、襲撃者はそれを片手で弾き飛ばした。  こいつはまだ本気じゃない。だがとっくに正気ではない。まだ狩りを楽しんでいる間に、こいつの動きを止める必要がある。  けど。  俺は。 「…あぁ!?」  けたたましい笑い声を上げていた襲撃者の動きが、止まった。いや、止まったのは一瞬だ。俺と襲撃者の間に割り込んだ影が、襲撃者の腕を掴むのがわずかに見えた。 「どけええぇぇ!!コイツは、オレのエモノだあああ!!」 「うるさいよ」  俺に背を向け襲撃者の動きを抑え込んだ男は、低い声で呟く。 「こんなうるさいヤツが来るとは思わなかった。今日は厄日だ」  低い声だったが、少し軽い口調だった。男と襲撃者の力量の差は歴然だ。正気を失っている奴はその怪力を振りかざしているだけだから、防御には長けていない。同程度の力量でも勝てないだろう。  男は振り返らなかったが、俺は背を向けずゆっくり後退し、充分距離を取ってから走った。一刻も早くその場から離れたかったし、通報する必要もある。犯されていた人間がどうなったかは分からないが、それを確認するだけの余裕はない。  全速力で表通りに出てから、すぐに守人組織に連絡を取った。弾けそうな心臓と荒い息を抑え込むのは苦労したが、簡単な報告だけしてどこかの店の壁にもたれかかる。 「…はぁ…くっそ…ふざけんな…」  鼻の奥がいつまでも痺れているし眩暈もする。もう漂ってきていないはずの血の匂いが、まだ俺にまとわりついているようだった。  今からこの重い体を引きずって、店まで行けるとは思えない。ふと目を上げると、通りの向こう側にビジネスホテルの看板が見えた。  今日は…そこに泊まるしかないな。部屋が空いているといいが。  何とか壁から身を起こし、俺は道を渡ってその建物へと向かった。   ●  狩人から身を護る方法の中でもっとも有効なのは、部屋に入ることだと言われている。  人間が住む部屋の扉を、狩人は許可なく開けることが出来ない。それは窓でも同じなので、籠城して外に電話をかけて助けを求めれば、警察が大勢連れてやって来てくれるだろう。  だがそれは、狩人が『正気の場合』に限る。  先ほど俺を襲った襲撃者は、狂気に侵されていた。自分の視界に入る人間を片っ端から喰らい、それでも足りずにひたすら人間を求めて彷徨う怪物。狂気であるが故に原始的な能力があり、鋭い嗅覚で人間の位置を探り当てる。  だがそれは、狩人の成れの果てだ。死を間近に控えた狩人が陥る現象だと言われている。だから、放っておけば近い内に死に至るのだが、その間に何十人もの人間が犠牲になるから放ってもおけない。  襲撃者は、まだ30歳前後のように見えた。ならば恐らく、過去が無い狩人だろう。過去の記憶がない狩人を新鬼と呼ぶが、彼らは寿命が短い。40歳を超えて生きている者はほぼ居ないし、若い頃は穏やかでも、年齢を重ねるに従って狂暴になっていく者もいる。稀に過去の記憶を取り戻す新鬼もいると聞くが、俺はまだ会ったことが無かった。    新月の夜だからだろうか。ビジネスホテルの空き室は少なかった。  それでも空いていたのは幸運だ。狭い部屋に入ってカギをかけ、そのままベッドに仰向けで倒れ込む。 「…はぁ…」  大きく呼吸したが、狭い部屋の中では空気が重く感じる。一向に気分が良くならない。  横向きに体勢を変え、スーツの内ポケットの中をまさぐった。だが、そこに入っているはずのものが指に触れない。だるい体を起こして上着を脱ぎ、再度確認したが…やはり、あるはずのものがなかった。 「…マジか…」  思わずぼやく。最悪だ。仕方なくベッドを降り、テーブルの上に置いてあったポットを手に取る。備え付けの冷蔵庫には小さな冷凍庫もついていて、氷が既に作られていた。ポットに全部氷をあけて、洗面所で水を入れる。グラスに冷水を入れて飲み干し、ようやく一息つけた。  洗面台に手を突いて、目の前に掛けられた鏡に映る自分の顔を眺めれば、本当に酷い顔をしている。顔色は蒼白で、双眸は澱み、額には濃い皴が刻まれていた。冷汗だか脂汗だかもかいているし、時折えずきそうにもなるのに…。 「…腹減った…」  あらゆる面で最悪だ。昼飯は食べたが、夜はまだ何も腹に入れていない。  あの時、小路から聞こえる声など無視して店まで行っていれば、良かったのだ。どちらにしてもあの襲撃者と狩人はかち合っただろうから、そこで勝手に衝突してくれただろう。あらゆる最悪の現象が重なって、今の自分がここにいる。  新月の晩に出前など頼んでも、注文を受ける者はいないだろう。それに、近くに狩人がいるのだから、守人としては被害者を増やすような行為は避けなくてはならない。 「…はぁ…」  溜息をついて、俺は再びベッドに寝転がった。氷が入った水のポットだけ、ベッドの横にあった台の上に置いておく。  今夜は寝れそうにないだろう。それでも、こうして寝転がっているより他、ない。 「…」  ぼんやりと天井を眺めていると、先ほどまでの情景が天井に浮かんで見えた。  既に末期状態の襲撃者の、常軌を逸した嗤い声と表情を思い出すと、同時に血の匂いが蘇ってくる。全身を赤に染めて嗤いながら蜘蛛のような恰好で高速で壁を動く姿…まで想像して、目を閉じた。実際に四足歩行していたわけではないが、そっちのほうが速く動きそうだ。  そうやって違う方向に想像してみたのに、血の匂いはいつまでも消えない。  もう一度目を開けて、天井を眺めた。2人の男が暗がりの中で楽しむ姿が浮かんだが、それも思い出して楽しい光景ではない。  片方を女だと思って想像すればいいんじゃないかと思ったところで、再び血の記憶がよみがえる。駄目だ。あまりに現実的すぎる。男の狩人が男の人間を襲うより、遥かに現実味がある。 「…あぁ…嫌だ…」  ぼやいて、スラックスのホックを外し、ファスナーを下ろした。体調とも気分とも裏腹な態度のものを引っ張り出して擦り上げる。 「…っ…く…」  吐き出してしまえば、少しは楽になれるかもしれない。その思いだけで扱くけれど、思い浮かべる情景は自分の意志を無視している。  駄目だ。苦しい。したくない。望んでいるわけじゃない。だけど、疼く。苦しい。辛いんだ。望んでいる。欲しい。欲している。それを。  そうだ。それは、俺のものだ…。 「…っは…」  ぞくりと背筋を這う感覚と共に吐き出して、俺は大きく息を吐いた。どくんどくんと脈打つ心臓の音が、マットに当てているほうの耳に届いている。  最悪だ。本当に。何もかも。  そのままぐったりとベッドに寝転がったまま、俺は目を閉じた。

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