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仁哉編3

 朝が苦手だ。  部屋のカーテンは閉めてあったけれど、外の光は感じられる。俺はシーツを頭から被ってやり過ごすことにした。  ようやく起き上がれたのは、いつも通り正午前。ゆっくりと這うように動いて何とかベッドから降り、昨晩脱いだままのスーツを軽く叩く。完全によれているスーツの上下もYシャツも、スチームアイロンひとつ用意されていないホテルでは、どうしようも出来ない。  暖房を入れることなく寝たので、室内は涼しめだ。ポットに入ったままの水もまだ冷たさを保っている。それを飲み干してから歯磨きをして、ざっくりと身だしなみを整えた。  チェックアウトの時間は正午だと聞いていたので、のんびり食事を買う時間もない。そのまま1階に降りて手続きを済ませてから外に出た。  いつもより、光が眩しく感じる。  とりあえず、道を挟んで斜め前のビルに入っているコンビニに向かい、おにぎりとお茶と飴と下着を買った。トイレを借りて下着だけ着替え、駐車してある車に一旦戻る。車の中で簡単な食事を済ませてから駐車場を出て、目的地にもう少し近い場所にある駐車場に車を停めた。昨晩はその駐車場が満車で空いていなかったのだ。  目的地である店は、正午から開店だ。  既に30分以上経過しているというのに、その店はちょうどシャッターを上げている所だった。 「…自由な人だ。どうも。お久しぶりです」  声をかけると、店主は振り返る。 「あぁ…あんたか。確かに久しぶりだ」 「月ごとに引越ししないで下さいよ。探すのが大変だ」 「こういう商売だからね…危険からは身を護らないと」  少し腰を曲げながら、店主は店内に入っていく。入口の引き戸の半分には、まだカーテンが引かれたままだ。 「それで?どのクスリだい?」  円柱型のストーブにマッチで火を点け、店主はカウンターの傍に置いてある古い木製の椅子に座った。背もたれに体重をかけると少し揺れるタイプの、古き良き時代という風情の椅子だ。  彼の店は大概そうだ。いわゆる旧式の家具や電化製品ばかりが置いてある。引越しの度に大事に持ち運びしているのだろうが、結構な重さがありそうなカウンターはどうやって運んでいるのだろうか。 「いつものです。それから…T錠を多めに下さい」 「…いいのかい?」  店主は眉を顰めたりはしなかったが、詰問するような目で俺を見た。 「過剰摂取には向かないブツだ。壊れても知らないよ」 「…まぁ、その時はその時なので」 「先生に言われなかったのか?無理は良くないよ」 「承知の上でやってるんですが、そうおっしゃるなら、先生にお伝え下さいよ。早く完成させてもらえませんか?」 「…顔色が良くないね。ここで飲むかい?」  店主は立ち上がり、緩慢とした動きで小上がりをあがって、古い家屋特有の狭い畳の部屋から湯呑に入った水を持ってきた。 「ありがとうございます」  支払いは当然現金だ。それ以外は受け付けてもらえない。  カウンターに金を置いて、湯呑を受け取り薬を飲んだ。無言で椅子を勧められたので、ストーブの傍から離して椅子に座る。 「…羊羹でも食うかい?」 「…甘い物は控えてます」 「そう言わず食いな。あんた、何でも我慢しすぎだよ。それが良くないって言ってるだろ」  俺の2.5倍くらい生きていそうな店主は、ありがたい忠告を色々してくる。 「多幸感も大事なんだ。満たされる事で、穏やかな生活を送れるようになる。クスリだけがそれを引き起こしたって、何の解決にもならないよ」 「そうかもしれません」 「適当に相槌打ってる場合じゃないんだろう?あんたが抱えてる問題は、あんたひとりの問題じゃあない。多くに影響を与える話だ。クスリに頼るだけじゃあ、悪化する一方じゃないかね」  店主が言いたいことは分かる。だが精神的な事で左右されるなら、いつでも悪化すると言うことだ。その点、薬のほうがコントロールしやすい。摂取量に気を付けておけば、ほとんど問題は起こらないはずだ。 「T錠は…まだ実験段階なんだよ。クスリはあくまでサポート役。根本的な努力は、あんた自身がすべきことだね」 「努力はしてきましたよ。けれども進行するからどうしようもない」 「あんた、恋はしてるかい」  突然、話の流れが変わった。 「そいつが一番有効的だね」 「それも状況で左右されますよ。失恋すれば落ち込みますし」 「恋愛はいいものだよ。あんた、女にモテるだろ。恋がイヤなら愛せばいい。とっかえひっかえ…うらやましいねぇ…」 「…そういうのは、避けてるんですが」 「もったいない。あんた人生の半分損をしてるよ」  そのセリフを言いたいだけだろ、とは思ったが、恐らく店主は半分以上本気でそう思っているのだろう。俺と同じ状況でもそのセリフが出るか聞いてみたいと思ったが、このくらいの年代だと、なんでも『うらやましい』のかもしれない。 「…俺にとっては、色々と…直結する問題なので。特にこの1年は進行してますから、女と触れ合うなんて無理ですよ」 「禁欲的だからこそより深刻なんじゃないかと思うけどねぇ」  そう言うと、店主はカウンターの隅に置いてあった長方形の包みを引っ張り寄せた。竹の皮で包まれたそれを開いて姿を見せた濃い色の羊羹に、備え付けのプラスチック製のナイフを刺す。ゆっくりゆっくり切り分けて、爪楊枝を刺してから俺を見上げた。 「食いなよ」 「…頂きます」  一口入れて、その甘さに眩暈がする。お茶を取って来るよと言って店主が畳の部屋に入って行ったので、もう一度椅子に座り直した。  店主の言うことは、ある意味正しいんだろう。だが今更無理だ。彼が言うことに従って開放的になれば、堰き止めているものが全て決壊する気がする。 「あと…そのネクタイ、やめたらどうだい」  彼が持ってきた急須を受け取って湯呑にお茶を入れていると、その目が俺の首元から胸元に注がれた。 「守人の礼儀とは聞くが、そんなもの付けてるから、気分も滅入るんだよ」  守人は、仕事の時は無地の黒ネクタイを締める。Yシャツも黒を着ることがあるが、弔辞を言葉ではなく形で示す意味があるのだと聞いていた。当然スーツも黒だ。俺にとっては仕事着だが、見る人が嫌な気持ちになるというのも聞いたことがある。 「いつも着ているので、他の色はほとんど持っていないんですよね」 「ススムに言って、見繕ってやろうか」 「やめて下さい」 「ススムのセンスはなかなかだよ。…あぁ、そうだ。あの子が会いたがってた。たまには顔でも見せてやりな」 「…近くに行くことがあったら、そうします」  ススムというのは、彼の甥だ。俺に対して好意があるらしく、遭遇すると飛んでくる。蛇のような目で見透かしてくるので、透視されているようで苦手だ。 「ご馳走様でした。昨晩、近くに危ないのが出たので気を付けて下さい」  薬を入れた紙袋を持って立ち上がる。 「あぁ…狂人かい?明け方見つかったそうだね。酷かったそうだが」 「見つかったなら良かった」 「斃したのかい?」 「俺は無理でした。薬も切れてたので」 「…たまには休息も必要だよ。南国にでも行ったらどうだい。気分も晴れるんじゃないかねぇ」 「そうですね。考えておきます」  暑いのは苦手だから、行くなら北だろう。  だが、どこに行っても同じだ。どこに行っても狩人はいるし、薬が無ければまともな生活も出来ない。  まだカーテンが半分閉まったままの店を出て、人気のない通路を眺めた。この店は、古い商店街の中にある。車が通れるような広さの無い細い道の両脇に、かつては店が並んでいたのだろう。だが今は正午を過ぎてもシャッターが閉じられたままだ。  営業してる店がほとんど無いかつての商店街。昼間でも人は通らないが、人が寄らなければ狩人が来ることもない。ある意味安全な立地と言えるだろうか。    寂れた商店街を抜け、車を置いてある駐車場へ向かう道中、電話がかかって来た。  狂った狩人についての報告だろうかと画面を確認するが、知らない番号だ。とは言え、表示されている番号がこの県の市外局番から始まる固定電話だったので、携帯を耳に当てる。 「黒木様のお電話でしょうか」  その電話の主は、正午にチェックアウトしたホテルの従業員だった。 「お届け物を預かっております。何でも道に落とされた物だとか…。ご確認いただけますでしょうか?」  それは、異常な状況だ。  少なくとも、俺が道に落とした自覚があるものは、ひとつしかない。  だがそれを俺の物だと認識して届けた主に、他意がないはずもない。  勿論、俺が気付かず落とした物だったり、人違いだったりする可能性もある。けれど。 「分かりました。伺います」  まず、確かめよう。それが罠だとしても。

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