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仁哉編4
ホテルのカウンターに置かれたのは、小さな袋だった。
その透明な袋の中には、カプセルに入った薬が2錠、入っている。
「これを…僕の物だと、預けた方がおっしゃったんですか?」
「えぇ。落とされたのだろうと…。大事な物だろうから、とおっしゃっていたのですが、お客様の物ではありませんか?」
「僕が持っている常備薬ではないですね。包装シートにも入ってないですし、衛生的にもちょっと…」
「そうですよね。ではこちらで処分させて頂きます」
「お願いします」
軽く会釈してホテルを出た。
『大事な物だろうから』と言って名前も言わずホテルに届けるのは、まるで交番に落とし物を届ける善意のようだ。
だが、俺がこのホテルに泊まった所を確認した上で、俺がチェックアウトした後に届けている。ホテルに泊まったことが分かっているなら、その時点で受付に届けるのが普通だろう。どう考えても善意ではない。
それに、届け主にどんな思惑があったとしても、無かったとしても、どちらにしても俺はそれを受け取るわけには行かなかった。
スーツの内ポケットに入れてあったこの薬は、一般的な試薬品ではない。ごく一部の人間しか知らないはずの、開発中の薬だ。勿論類似品はある。『これ』が何なのか、ホテルの従業員は分からないだろう。だが万が一ということもある。俺がこれを飲んでいることも、3、4人しか知らないのだ。
知られるわけには行かない。
駐車場に停めたままの車のトランクを開け、中に入っていたスーツカバーとリュックを取り出して、後部座席に置いた。リュックには防災用のワッペンが貼られていて、非常用の食料、水、燃料、簡単な着替えが入っている。スーツカバーの中にはスーツとYシャツを入れてあって、2着分を常備していた。
しばらくは車での寝泊まりになりそうだ。俺の動向を探っている奴がいるかもしれない。その状態で自宅に帰るわけには行かなかった。
車で高速に乗って隣県の温泉地で下道に降りたのは、北谷正人の足取りが掴めたと連絡があったからだ。日本に帰ってすぐ、地元行きの飛行機に乗った北谷正人は、降り立った飛行場からその温泉地に向かった。風光明媚な景色などの売りがない、平地の中にある温泉街だ。その中に、北谷正人が度々利用していた温泉宿があると言う。
「…去年の12月18日にお泊り頂いておりますね」
守人の身分証明書を提示し、北谷正人の情報を開示してもらった。話によると、19日にチェックアウトして出て行ったらしい。
「例えばその日に、この辺りで騒ぎが起こったという話は?」
「宿のほうでは聞いておりませんので、管理局にお尋ね頂けますか?」
温泉には観光協会や管理局などがあるが、事件性がある情報は全て管理局が統括して保存している。宿の従業員が12月に事件があったという記憶が無いなら、何かあっても大したことではなかったのだろう。
管理局でも確認したが、18日以降は年末まで何も起こらなかったようだ。北谷正人が年末までこの温泉地に潜伏していたとは考えづらい。だが念のために他の宿にも確認を取った方がいいだろう。
とは言え、既に夕方を過ぎた温泉宿は、客を迎え入れ始めて忙しい。週末に訪ねられては迷惑だろうが、中でもまだ暇そうな温泉宿を廻ってみる。
結局収穫は無かったので、温泉地の中心部にある『総湯』に行くことにした。総湯というのは、共同浴場のことを指すらしい。つまり、昔はあちこちにあったという銭湯と大差ないんだが、温泉というのが魅力的だ。
新月が終わったばかりの総湯は、週末の割には人がまばらだった。お陰でゆっくり風呂に浸かることが出来る。
狩人は『扉を開けてもらわなければ中に入れない』が、不特定多数の人間が出入りする場所ではその法則が適用されない。温泉宿でも、個室に入る事は出来ないが、宿自体には入る事が出来るのだ。そういう危険性もあるので、完全予約制で予約が無い人間は建物内に入れない…というルールで営業している店も多い。一方で銭湯は、完全予約制を導入したり護衛を雇ったりできるほどの収入が見込めない。だから狩人が入って来る可能性も他より高くなる。
着替えてから自販機で無糖のコーヒーを買おうとして…少し迷ってコーヒー牛乳を買ってみた。多分、成人してからは飲んでいない。
想像より倍以上甘味量が効いていたそれは、ただ甘ったるい。いつもなら即座に捨てていただろう。けれど、昼間に薬屋の店主から言われた話を思い出して、とりあえず飲んでみようと思った。糖分はエネルギーに変換されるわけだし、その甘ったるさが嫌いというわけでもない。
コンビニでおにぎりとお茶を買い、車に乗って温泉地を一旦離れる。
北谷正人を管理していた守人組織に現時点での調査報告だけしたが、明日も温泉宿を廻る必要があるから、近場に泊まった方がいい。人が集まる場所は狩人も来るので避けて、温泉宿からさほど離れていない距離にあった山を上がった。
その山は、あちこちに遊具やスポーツ施設が設置されている場所だ。施設と言っても大がかりなものではないから、夜間は営業していない。
静まり返った山の中を走って、比較的広めの駐車場の隅に車を停めた。
街灯の傍に停めると眩しくて眠れないが、隅の方なら光はほとんど当たらない。時刻はまだ夜中前だ。俺は夜型だから寝るには早い。けれど、薬を飲んだとは言え、まだ体調が万全ではない自覚はあったので、運転席側の席を倒して目を閉じた。
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