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仁哉編7
これだけ騒いでいて、怒号も聞こえるその場に、それでも近付いて来るような愚か者は、あまりいないだろう。
正義感に満ち注意をする為に近付いたのなら、相当愚かだ。人数に差がありすぎる。だが歩き方はゆったりしていて、まるで散歩をしているかのようだった。
「…パーティ中だ。邪魔すんな」
先に口を開いたのは、俺と対峙していた狩人だ。苛立っている風ではなかったが、声は鋭い。
近付いて来た男のほうは構わずブルーシートの上まで歩いてきて、俺達を見回した。
「先約があるんだ。この人に用事がある」
低いが周囲の状況にそぐわない明るい声を、その男は発した。それなりにがっしりとした体格だが、背が高いので多少細くも見える。俺の近くまで寄ってくると、ふわりと甘い香りがした。何かは分からないが…香水の匂いだ。
…香水?
「ここは俺のテリトリーだ。黙ってエモノ盗られる気はねぇんだよ」
「俺も譲る気はないよ」
狩人同士で狩場が被ると、大抵喧嘩になる。特に、一方が狩りをしている最中だと、一般的には殺し合いになる。悠長に話し合いで済ませることはあまりない。
「ふざけんな。ここまで放置しておいて、このタイミングで盗るのは…許さねぇ」
「ハギリさん!加勢します!」
周りで盛り上がっている奴等は、当然空気など読まない。男に向かってバッドで殴りかかり、その腕を殴られて悲鳴を上げた。多分骨折したのだろう。
「見学しているつもりだったんだけど、悪いね。貰っていくよ」
香水の香りが漂うその男は、俺の肩を軽く叩いた。そのまま駐車場のほうを一瞬指差したので、俺は迷わずそちらへ向かって走り出す。
周囲の男達が俺に向かって武器を振りかざしたが、それはすんなりとよけることが出来た。そのまま自分の車に着いてドアを開ける。運転席に滑り込むと、一瞬眩暈がした。
「どいて」
てっきり狩人同士で殴り合いでもしていたかと思ったが、男はほぼ俺の後ろにいたらしい。俺を助手席に追いやると、運転席に座ってエンジンをかけ、アクセルを踏む。追いかけて来ていた人たちを跳ねる勢いで発進した車は、そのまま駐車場を出て山を一気に下りて行った。
「…よく、そんな余裕あったな…」
助手席に座りながら、俺は窓にもたれかかっている。その上から男は白いYシャツをかけた。俺が脱いで落としてあったシャツだ。
男が少しだけ笑う気配がしたが、何も言わず車を走らせている。
「…それで…用事?」
この男が危険を冒してまで俺を連れて行ったということは、本当に用事があるのだろう。香水を嫌うはずの狩人が香水を身に付けている。それだけで異常な存在だ。
「まぁ…無いわけじゃないんだけど。俺のこと、覚えてない?」
こんなに気さくに話しかけてくる狩人に覚えはない。俺は軽く首を振った。首を振るとまた眩暈がする。それに、体がだるかった。
「そっか…。まぁ、結構…前だしね」
「昨日…」
思い出したのは、昨晩の出来事のほうだ。狂人と化した狩人を止めた、人間を犯していた狩人のほう。きちんとは覚えていないが、この男と似た背格好だった気がする。
「狂人を止めたのは…お前か?」
「人の情事を盗み見してたよね。趣味悪い」
「あ?」
思わず振り返ると、男は声を上げて笑った。
「お前、あの時の男は」
「喰ってないよ。ちゃんと家に帰って貰った」
「…あんな所を歩くような奴はいないだろ。どこから攫ったんだ」
「人聞きが悪いなぁ。ちゃんと、俺を好きだって言った子だよ」
『子』という歳でもなかった気がするし、そもそも狩人の言う事を信用は出来ないのだが、息を吐くようにすらすらと喋るのは、狩人にはあまりない珍しいタイプだ。
「それよりさ。あんな薬飲んでるの?」
「やっぱりお前か」
普通に歩いていて内ポケットの中身を落とすことは考えられない。少しポケット部分が切れてはいたが、狂人の攻撃をかわした時についた傷だろう。スーツのボタンは外していたし、走り出せばポケットの切れ目から落ちてもおかしくはなかった。
だが、カプセルを見ただけで『あんな薬』という感想は出て来ない。
この狩人は、何かを知っている。
「睨まないでよ。困ってると思ってわざわざ届けてもらったのに」
「人をホテルまで追跡してチェックアウトした後に届けるような奴が言う事を、信用できるわけがないだろ」
「だって、さすがに部屋に入れてもらうわけには行かなかったし」
「…殊勝な態度だが、何が目的だ?」
この狩人の性格なのか、企みがあるのか。下手に出てくる男を見つめると、男は運転しながら、ちらっと俺のほうを見た。
「目的…目的ね。あるんだけど、俺の事を覚えてないならちょっと言いづらいな」
「…人違いじゃないのか」
「あんな体験、忘れないし、間違えないよ」
何の話か分からない。だが、男が車を停めてシートベルトを――狩人がシートベルトをきちんとしていたのもどうかと思うが――外して、真剣な目で俺を見た。その目を見て直感で危険を感じ取ったが、俺の背中を預けているドアが開かない。運転席側でロックをかけられているのだ。
「…何?逃げるの?」
男は少しだけ笑って、俺のほうへ身を乗り出す。一瞬だけ寂しそうな表情になって…そして、俺の左肩を掴んだ。
「調子悪いんだよね?薬が合ってないんじゃない?」
合っていようと合ってなかろうと、それを狩人に教える理由はない。黙って睨みつけると、男は綺麗に整った笑顔を見せた。その顔に、背筋が凍る。
「チッ…」
助手席の窓を叩き破ろうとした俺の右腕は、狩人に掴まれた。そのまま手で口を塞がれたので、思い切り噛みついてやる。男は手を離したが、瞬間、血の匂いが辺りに充満した。
「…は…」
頭が重くなり、心臓が脈打って耳の奥まで届く。
窓も開いていないような狭い密室の中で、やることじゃなかった。男が低い声で嗤うのを聴きながら、俺の意識は沈み込んで行った。
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