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仁哉編9
昭和の風情あるアパート前に、車は停まった。今ではあまり見かける事も無くなって来たが、2階建てで、外から上がる階段が吹きさらしになっている。風呂無しでプロパンガスを使いネット回線は自力で調達が必要な、そんな建物だ。俺も昔、こういうタイプのアパートに少しだけ住んでいたことがある。
各地を転々とするタイプの狩人なら、賃料が安い所に住むだろう。この男も仮住まいだと言っていたし、長く留まるつもりはないはずだ。
「これでいい?」
さほど待たずに男は鞄を持って出てきた。日帰り旅行に使うような小さめのボストンバッグだ。中にはジャージ以外にもトレーナーやTシャツが入っている。
「タオルは新品持ってきたから」
スポーツタオルも2枚入っていたが、どれを出しても様々な臭いがした。消毒か消臭スプレーをかけてきたのだろう。
だが、ジャージの上下を着てみると、一番強く香ったのは、男が身に着けていた甘い香水の匂いだった。確かに家にはそれぞれの匂いがある。芳香剤や防虫剤を置いて衣類を片付ければ、その臭いが沁みつくだろう。
でも、それにしても…だ。
「…本当に洗濯したのか?これ」
「したよ。変な臭いする?」
「する。お前の匂いがする」
「…うわ。ほんとごめん」
男は、軽い口調だが申し訳なさそうに謝った。
「それで焼肉行けそう?無理ならネカフェ行ってシャワー浴びとく?」
「焼肉行ってからでいい。腹減ったし」
「俺も焼肉久しぶりかも」
嬉しそうに笑うと、男は車のアクセルを踏んだ。
昔ながらの木造平屋建てが、その焼肉屋だった。駐車スペースは3台がギリギリだ。
こじんまりとした店内には、畳の上で食べるスペースしか用意されておらず、角が丸い長方形のちゃぶ台が3つ置いてあるだけだった。座布団は部屋の隅に重ねて積んであり、俺達が店内に入ると、店員のおばさんが座布団の束から2枚取って、机の近くに置いた。
脂がしみ込んだぺちゃんこの座布団に座ってメニューを見る。3時を過ぎたこの時間、客は俺達だけだった。
「酒は呑まないよね。烏龍茶にする?」
「する。…おねえさん。この…Aの盛り合わせひとつ下さい」
2~3人前用と書かれた肉の盛り合わせセットにしたのは、目の前の席に座っている狩人が、本当に焼肉をがっつり食うか疑問だったからだ。狩人は人間と同じ食べ物を食べたりもするが、あまり美味しいと感じないらしい。不味いなら食べたいとも思わないだろう。
「え?俺も食うよ?足りなくない?」
「そうか。肉は食うか…。白飯のほうが食わないか」
「うん。Bのほうにして…後…焼き野菜と生野菜はどっちがいい?」
「…焼きで」
基本的に、2~3人前と書いてあったら、実際に出てくる量は1~2人前だ。肉だけ食うなら全く足りない。
置かれた小さなコンロの上に敷かれた網に、肉を置いて焼く。
「旨いんだよ、ここ。その割に安いしね」
狩人は、とても嬉しそうに焼いた肉を口に入れている。お前ら生で肉を喰う癖に、焼いてある肉を美味しく感じるのか。
「消化できるのか?」
人間と仲良くできる狩人は知ってはいるが、一緒に焼肉を食べに行ったことはない。むしろ、一緒に食事に行くことはない。狩人は自分が食事をしている姿を見られることを嫌がる。そういうものだと思っていた。
「…そうだね。消化はするよ。お腹壊したことは無いかな。ピーマン、焼いていい?」
「…いいけど」
強い臭いを嫌う狩人が自分に香水を付けている時点で、あらゆる事が予想外すぎてもうどうでもいいのだが、ピーマンのような強い臭いがする野菜を焼く気があるのが分からない。俺は正直ピーマンは嫌いだし、野菜全般好きではない。
「食える?」
「食えない」
「玉ねぎは?」
「食えない」
「じゃあニンジン食え」
薄切りの人参が、網の上に置かれた。それを眺めながら焼けた肉を食べる。何故、肉と野菜を同時に食べなければならないのか。気が乗らないが、栄養が偏っていて薬が効きづらいというのは納得できる話なので、我慢して食べるしかないのだろう。
「今日の夜は…魚かな。寿司とか食える?」
「それ以前に、お前はいつまで付いて来るつもりだ」
狩人が狙った獲物を逃すはずはないので、簡単に離れるつもりがない事は分かる。恐らく『人間に協力的な』狩人なのだろうし、俺を犯したりしなければ全面的にそうだと納得もできたのだが、それでも、繁華街の裏で、他の狩人に遭遇する可能性が分かっていて、男を犯していたりもした奴だ。信用は出来ない。
「それなんだけど、俺をしばらく雇わない?」
飄々と、男はそう言った。
「…器物破損を平気で行うような奴に雇われる資格はない」
「それはほんとごめん」
「お前に金を払うつもりもない」
「あぁ、それは金とか別に」
「金以外で払うつもりもない」
「あぁ、うん。…あ、じゃあ、俺に雇われて下さい」
「嫌だ」
「そうだよね。そうだよなぁ…」
男は肉を焼きながら苦笑した。
相手に拒否されても家や車などの個室に入れなくなるだけだ。本気で俺にこだわるなら、別の車でストーカーしたりも出来る。この男は恐らく人間を使っているから、人間に動向を探らせる事もやっているだろう。
俺の許可など、別に要らないのだ。
「じゃあ…わかってると思うけど、忠告。まだこの辺で仕事するなら、車のナンバー変えたほうがいい。パーティのリーダーは追ってこないかもだけど、他の奴らがお前を探してるかもしれない」
「知り合いか?」
「まぁ…そうだね。リーダーは知ってる。でもパーティに参加したことはないよ」
「…無事だと思うか?」
店員は近くにいないが、ここは店の中だ。直接的な言葉では訊けない。男もそれは分かっていて、曖昧な表現で話している。
「あのパーティは、毎回誰かが選ばれる。メンバー外から連れてくることもあるけど、メンバーの誰かが選ばれることもある。自分が選ばれなければ一緒に楽しんでいるような連中だ。同情しなくていいよ」
「参加した事があるんだな」
「ないよ。見てただけ。俺はああいうのは趣味じゃない」
俺が行くまでの間、ブルーシートの上に男が一人いた。その男が今回の『犠牲者』だったはずだ。俺が行くことで俺が選ばれる事になったが、逃げれば矛先はあの男に向くだろう。同情しているわけではない。助ける事が出来れば良かったとは思う。だが助ける事で心を入れ替えて、あのようなパーティに今後参加しなくなる…という保証はない。同じ趣味の仲間内で犠牲者が出るならまだいいが、関係のない部外者を犠牲者にするなら、それは許容できない。
「他にも、あるのか?パーティは」
「あるんじゃないかな。でもいつも同じ場所じゃないだろうし、報酬も無いのに情報は売れないよ」
「お前は、どこかの組織と契約してるのか?」
協力的な狩人は、大抵どこかの守人組織と契約しているものだ。情報と引き換えに金銭を貰ったほうが、人間社会では生活がしやすい。
だが、男は首を振った。
「直接取引したことはないよ。あまり関わりたくない」
「俺はいいのか」
「お前は組織に居ないし」
「関係ないわけじゃない」
「個人的な理由なんだ。お前に関わりたいのは」
男は俺を見ずに、焼いている肉を見ている。
こうして話をしていると、人間と話しているようだ。狩人と分かる目も輝きが弱いし、狩人特有の匂いは香水の香りでかき消されている。語り口調は穏やかで、時折明るい。人を気遣い、人間のルールも守ろうとしている。焼肉屋で焼いた肉を食って美味しいと言い、野菜まで食っている。狩人は肉食だ。野菜が美味しいはずがない。
ただ一点を除いては、隣人として許容できる存在ではある。
ただその一点が、許容したくない。
「ここからお前のアパートまで遠くないだろう。体調も良くなったし、後は俺一人でいい」
焼肉屋を出て車の前まで来た所で、俺は男にそう告げた。
「ここで別れるのはいいけど、ちゃんと飯食いなよ?」
男は、意外にも簡単に引き下がる。ずっと付きまとってくるかと思っていたが。
「次、ぶっ倒れたら、今日みたいに優しくしないから」
「…ストーカーか」
現時点で引き下がっただけで、付きまとう予定ではあるらしい。
かなり嫌そうな顔をしていたんだろう。俺の顔を見て男が声を上げて笑う。
「それじゃ、またね」
ひとしきり笑った後、男は俺に背を向けて去って行った。
俺は車に乗って時間を確かめる。
まずはネカフェに行ってシャワーを浴びよう。
そう決めて、俺は車を走らせ始めた。
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