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仁哉編16
男の変化に気付いて距離を取るには、余りに傍に居過ぎた。
一瞬硬直した俺が後退できたのは、2歩だけだ。間合いが取れない。すぐに男が飛び掛かって来たので反射的に左半身を後方へ下げ躱す。
掴まれたら終わりだ。背を向けて全速力で逃げる為には、ある程度距離を空けなければならない。だがそれが容易に出来るなら、男の笑みを見て硬直したりはしない。実力差は歴然だ。
蹴りが飛んできたので、とっさに両腕でガードする。その重さで体が後方に下がったが、次の攻撃も逆脚での蹴りだった。ガードしたものの衝撃で腕が痺れる。骨が折れたわけではないが、すぐに腕を使うことは難しいだろう。考える暇も無く男の拳が真っ直ぐに飛んできた。上半身を逸らして躱した俺の視界に、男の笑みが広がる。
「くっ…」
飛んできた拳は右だったが、俺が躱すと同時に男の左手は俺のネクタイを掴んでいた。そのまま確実に懐に入って来た男の右手が俺の左肩を掴む。振りほどこうと体を動かす俺の腹に、思い切り膝が入った。
「悪ぃな…お前まだ、人間だったよなぁ…」
体を折って呻く俺の上方から、男が楽しそうに声をかける。
「…人間にしちゃだいぶ丈夫に出来てるよな…。もっと、遊べよ」
髪を掴まれ無理矢理顔を上げさせられた俺に顔を近付けた男の双眸は、爛々と輝いていた。獲物を嬲り殺す捕食者の目だ。サングラスは既に無い。間近で見るとその輝きは燃え上がる炎のように揺れていた。
そのまま男は俺を突き飛ばし、腹を押さえながら立ち上がった俺を、変わらぬ表情で眺めている。
「まだ動けねぇわけないよなぁ?逃げんなら逃げろよ」
この男が先ほど言っていたことが本心なら、俺を殺すことはない。だが痛めつけないとは言っていない。
Tシャツの裾が長くて見えないが、腰に僅かな膨らみがあった。恐らく何かを収納したホルダーだ。銃にしては厚みがないし長さも短い。狩人は武器を使う必要も無いし、使っている者は少ないが、この男がわざわざ武器を所持しているのだとしたら、それは遊ぶ為だろう。
つまり。
「あぁ…これか?」
俺の視線に気付いて、男はTシャツの裾をめくった。ホルダーの中に入れていた小型ナイフを抜いて、軽く指で回す。
「これはお前には使わねぇよ」
見える限り3本のナイフがホルダーに収まっていたが、男は抜いたナイフを再び入れ直した。
「逃げねぇのか?」
先ほど体に受けたダメージは、そう簡単に回復しない。狩人は痛みに強いが、俺の体はまだ痛みを感じていた。正直、まともに声を出せる状態でもないのだ。
「つまんねぇな…もっとイけんだろ…?」
言いながら、男は俺に背を向けた。そのまま数歩歩いて、バーベキュー場の近くで転がっていた人間の首根っこを掴んで持ち上げる。男の仲間である人間達は皆、まだ気絶しているようだ。だらりと両腕を垂らしたままの人間を男は眺めた。
「…やめろ」
喉からは掠れた声しか出ない。だが男には届いたはずだ。俺のほうをちらと見たが、俺が動かないからか面白く無さそうな顔をした。そのまま右手が動いてナイフが鈍い光を放つ。
とっさに目を背けた。一瞬視界の端に残った鮮血の色が、俺の脳を刺激する。
「1人じゃ足りねぇか?まだたくさん居るからな。お前が動くまで――」
少し遅れて、周囲を匂いが包み込んだ。鼻腔を突く匂いは手で押さえただけでは消えない。
俺は身を翻し、走り出した。
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