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仁哉編17
血の匂いから逃げたかった。
森の中に飛び込んだ俺の視界を、じわりと鮮血の色が染めていく。
暗い闇も、木々の茶色も、冬でも変わらない緑の葉も、すべてが等しく赤に変わって行く。
この世のすべては赤から生まれ、この世のすべては赤を持ち、死んでその身が凍るまで、赤は生き続ける。
最も甘美で、最も柔らかく、温かい色。その色に、この世は満ちている。
「クロ!」
何かにぶつかった俺を、その何かが受け止めた。顔を上げると、銀色の光が揺れて見える。
「…邪魔すんじゃねぇ」
「キサト、引け。こいつ目覚めかかってる」
「うるせぇ。覚醒させてやってんだろーが。どけ!」
「強制的にやる必要ないだろ!」
「今日は容赦しねぇぞ、ジンヤ」
殺気が場を制した。振り返った俺の視界に、光を伴って刃が飛んでくる。それは思うよりも遅く、俺は右手を腰に伸ばした。
「…あ?」
銃声は2発。刃は落ち、もう1発は男の肩を貫いた。鮮血は人間ほど噴き出さない。そこから漂う匂いも、人間ほどの新鮮さを感じない。
俺は銃をホルダーに仕舞った。何発入れてあったか覚えてないから、これに頼る必要はもうない。
「来て!」
誰かが俺の腕を引っ張った。薄く広がる赤一色の世界に、銀色の小さな光が浮遊して見える。
「乗って!」
声に押されて車に詰め込まれた。
「薬持ってない?!」
そのまま手が俺の上着のボタンを外す。内ポケットに手を突っ込み、そのまま上着やスラックスのポケットの中も確認したその男からは、甘い匂いがした。
「あぁ、もう…何で今日は持ってないんだよ」
声には苛ついたような焦っているような響きがある。
「お前の車の中には薬置いてない?」
「薬は…あると、思う」
薬と言う言葉で常飲しているカプセルの事を思い出した。あれはたしか・・・青と白のカプセルだったはずだ。だがもうその色が思い出せない。
「取って来る。ここから出ないで」
銀の光を持った甘い香りは、俺の傍から離れて行った。
ここは、車の中だ。だから外に出る。
周りを見回すと、全ての色が赤く染まっていく。
この世のすべては、赤で出来ている。この土も。この空も。俺が見える範囲は、すべて。
すべて等しく、赤に支配されているのだ。
「…ジンヤはどうした」
その中に、動く赤色が現れた。ひと際赤く光って見えるのは、目だろう。右手で肩を押さえているようだが、その肩から緋色の血が流れている。
「…お前…」
その赤い目が大きく動く。綺麗に輝く瞳だ。輝いて見えるのは、その体に収まっているからだろうか。取り出したら、その輝きは失われるのだろうか。
「クソッ」
視界にはもう輝く赤い光しか見えなかった。ただそれを掬い取ろうと手を伸ばす。だがすんなりとは手が動かなかった。光を手にする直前に手首を掴まれている。
邪魔だ。
俺を拘束するその塊が、邪魔だ。
聞こえてくる高い音もただの雑音だった。拘束を解かれた俺の手は自由に動く。だが、光を指で掬う前に、俺は胸の辺りに僅かな痛みを感じた。
それを見ると、俺の胸には何かが刺さっているようだった。だが赤く染まったそれが何かは分からない。抜いて投げ捨てる。
赤い光は細く小さくなっていた。急がないと消えてしまう。そう思った瞬間、俺の体は浮かび上がった。
「やめろ!」
視界に銀の光が浮かんで見える。赤い光は遠ざかったが、銀の光が瞬き、甘い匂いが漂った。
「何でお前も刺されてるんだよ!こんな簡単に暴走しやがって…」
銀の光の声に、ざわつく気持ちを感じる。
「クロキジンヤ。目を覚ませ。こんな簡単に失っていいのか?俺をお前は救ってくれた。けど、お前を救える奴は居ないんだよ。お前が、自分で、勝つしかないんだ。クロ。お前は、人間に――」
両肩を掴まれていることは分かった。
その男が、俺に語り掛けていることも、分かった。
けれど、甘い香りが俺を包む。甘い香りが、俺を誘う。血の匂いとは違う、甘い、肉を、思い出させる、匂い。
「…え?待って?クロ?」
銀の光が揺れながら俺を見た。この香りを嗅ぎながら温かい熱を感じた記憶がある。この匂いは、熱だ。肉が伴う、熱。
「いや、何で…?なんっ…何、え?俺…人間じゃない、けど…?」
肉が何かを言っている。その熱を口に含むと、小さな悲鳴が上がった。
「待って、待って…喰うの?喰わないよね?俺、ほんと不味いから…他の奴より絶対不味いんだって…」
その肉は少し硬めだったが、すぐに柔らかくなった。熱量が下がった気がして口から出し、顔を上げる。
銀の光は小刻みに揺れていた。怯えているように見える。甘い香りがほんの一瞬、幾つかの光景を切り取って俺の脳裏によみがえった。
肉が、肉を抉る感覚を俺は覚えている。
それは、この香りがもたらした。
「えぇ…?だから、何で…?覚醒して、何で、俺…っあ、あ、痛っ…」
あの赤い光とは違い、この肉は抗わなかった。銀の光は小さく細められたし、苦しそうな声は聞こえてくるが、俺の動きを止めはしない。
「痛い…痛いよ、ほんと、待って…」
懇願する声に、俺の体は震える。その肉の熱を感じ取ろうと体が熱くなり、ただ、揺れる銀の光を見つめた。
「無理…無理だって…これ以上は、無理だから」
「うるさい」
ほとんど体は抵抗しないのに、雑音がうるさい。俺は右手で銃を抜いた。
「ごめん。待って。それは、今は、ちょっと」
男が逃れようと体を動かしたので、その肩を押さえつける。そのまま腕を撃つと、男は低く呻いた。
「…あぁ、もう…」
甘い香りと、濁った血の匂いが混ざり合う。
銀色の目を閉じた男が荒い息を吐き、撃たれた腕を広げて地面に落とした。額には汗が滲んでいるが、苦しみや焦りのような表情は浮かんでいない。
「…っ…はぁ…は…」
男はもう、言葉を口にしなかった。吐息が漏れ、時折額に皴を寄せたが、目をきつく閉じたまま、なされるがまま揺れている。
「…お前…」
この世の全てが赤く染まっていた視界の色が、和らぎつつあった。少しずつ視界に闇の色が戻り始めている。
それと同時に、少しずつ、自分が今何をしているかを…俺は理解し始めていた。
俺の呟きに、男は目を開く。弱い銀色の光が、俺を見た。あれほどまでに輝いて見えた銀色の光が、少しずつ消えていく。
「…んっ…」
昂る気持ちも収まりつつあった。それでも男を抑えつけ、その中に最後の昂りを放つ。
濁った血の匂いは薄まってきたが、甘い香水の匂いは変わらなかった。ゆっくりと引き抜き、男を見下ろす。
「…俺は…まだ鬼か?」
俺が抜くと同時に深いため息をついた男は、俺の問いに目を上げた。
「…分からない」
男の声は弱い。疲れてもいるようだった。
元の色に戻った世界で、俺は、どうなったのだろうか。
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