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仁哉編18
闇色の森の中には、涼しい風が吹いていた。
俺は視線を落とし、自分の胸元を見る。
黒いシャツは破れ血が滲んでいたようだったが、恐らくナイフで刺されたはずだ。その部分に触れてみたが、傷は塞がっている。
一方で、撃たれたまま大地の上に放りっぱなしの男の腕からは、まだ血が滲んでいた。一発撃たれたくらいでは大して出血しないのが狩人だが、銃弾が通った穴は、どのタイミングで塞がるのだろうか。
俺は振り返って、もう一人の狩人が倒れている場所まで歩いた。
10歩ほどしか離れていない場所だが、パーティのリーダー格だった狩人は、横になって倒れている。
服は真っ赤に染まり、あちこち切り裂かれていた。露出している肌も赤く染まっているが、肩に空いていた穴は塞がっている。傍に居て呼吸音が聞こえる程度には息が荒かったが、倒れたまま、俺のほうへ視線を向けた。
「…狩人は簡単には死なないな」
世界が赤色に染まっていても、何があったかは覚えている。致命傷に近い傷を負わせた記憶があるのだが。
「…うるせぇ」
小さい声が返って来た。
「…お前…バケモンだろ…」
悪態をつかれる。
「自業自得じゃないのか」
俺を狩人として覚醒させようとしたという会話も覚えている。その結果この男が死んだなら、自業自得と言う他ない。
まだ動け無さそうな狩人は放っておいて傍に落ちていたナイフを拾い、甘い香りを放っている男のほうへ戻った。こちらは多分動けるはずなのだが、まだ寝転がっている。
「動けないのか?」
「…そう言うんじゃない」
男の目からは完全に銀色の光が消えていた。弱く輝いているが、銀色ではない。
俺は、手に持っていたナイフを眺めた。逆手に持って、その切っ先を手の平に当てる。血に染まったままの刃は切れ味が悪そうだったが、少し当てただけですっと手の平に線が走った。
赤い血が滲む左の手の平を、男の腕に当てる。しばらくしてから手を離すと、男は体を起こし、俺の手首を掴んだ。
「…その量じゃ、効かないよ」
そのまま手の平を舐められたので腕を引こうとしたが、男はしっかり掴んだまま離さない。
「…離せ」
「自分からやっておいて、それは無いんじゃない?ごちそうさま」
散々舐められて背筋を悪寒が走ったが、ようやく力が緩んで手首を胸元まで引き戻した。そっと手の平を見ると、綺麗に線が消えている。
「…不思議だね。あそこまで狂っておいて…それでも、人間に、戻れるんだ」
「…人間に…戻っているのか?俺が?」
「狩人に見えない事もないけど人間かな。混ざってる気がする。…多分、他にはいないんじゃないかな。俺は聞いたことがない」
起き上がった男が衣類を直し始めた。腕から出ている血は止まったようだ。俺の視線を受けて、少し笑う。
「でも…これからどうするの?守人が気付くかどうかは賭けじゃない?前と同じ生活は出来ないと思う」
「あぁ」
「お前は、人間のままのほうがいいと思うよ。狩人になったらちょっと手に負えない」
「それは、暴走させたあいつが悪い」
まだ倒れたままの男へと振り返った。
何もかもあの男が悪いとは思うが、あれほど感じていた不調が無くなったのも事実だ。血の匂いを感じても眩暈も吐き気もしない。
俺が人間であるなら、あの男は斃すべきだろう。多くの人間をこれからも犠牲にし続ける事は分かっている。弱っている今の内に、脅威は取り除くべきだ。
だが一方で、俺が今後人間として生きる事が出来るかも、微妙な線だった。
守人に狩人と言われれば、俺は狩人として扱われる。その時に、俺がどうするかという話だ。完全な狩人でもない俺は、狩人から狙われるだろう。だが俺を守人が護ることはない。人間に対して一方的な関係性しか築けない、協力的な狩人として生きる事は出来ない気がした。俺のプライド的に。
「俺の車に乗る?」
今は自分の車に戻るのは危険だ。守人組織の人間たちが駐車場に戻ったが、近くに俺の車も置いてある。彼らが駐車場を離れていればいいが、それは近付いてみなければ分からない。
「お前の車の傍に守人組織の車があったけど、今はあるか分からない。一旦遠くから見てみる?」
「…いや、いい。俺の生死はまだ分からないほうがいいだろう」
慎重に行動しなければ、人間からも狩人からも敵視される。車の中に残してあるもので心残りがあるのは、薬だけだ。狩人と人間が混ざった状態と言う俺が、今後必要とするかは分からないが。
男の車は、森を出てすぐの道路に停まっていた。少し古い型の4WⅮだ。
ダッシュボードには小さなモニターが2台付いている。片方には地図が表示されていて、一箇所だけ小さく点滅していた。地図が今いる山の道路を表示しているのは分かるのだが、点滅の位置が駐車場だ。今この車が停まっている場所ではない。
「…俺の車か」
発信機だ。俺の車に発信機が取り付けられていて、その位置をこのモニターに表示している。
守人組織で車を乗り換えた時に、内部に居た裏切者が取り付けたのだろう。
「そうだね。君が危うかったから、監視しようと思って」
「ここ数日、お前と会い過ぎる。最初から、監視していたんだな?」
「…再会したのは偶然だよ」
車は、駐車場とは逆方向に走り出した。
訊かなければいけない事は色々ある。だが、俺は窓の外に流れる景色を眺めた。
座ったからだろう。疲れが体に広がっている。寝不足なのもあって、俺の体も脳も、睡眠を欲していた。
「…寝る?」
男はすぐに察して言ったが、まだここで眠るわけにはいかない。安全な場所ではないからだ。
「…ジンヤ」
その名前を口にすると、男は俺へ視線を送った。速度を少し落とし、法定速度より少し遅めで車を走らせる。
「お前…桂か?」
ジンヤと呼んだのは、パーティのリーダー格の狩人だ。人間達にはハギリと呼ばれていたが、この男はあの狩人をキサトと呼んだ。
ジンヤという名前が本名なら、俺には覚えがある。俺の名前と同じ音の名前。
桂 迅夜。
「そうだよ、クロ」
「そう呼ばれてたな。同じクラスに同じ名前がややこしいから…みんな、俺をクロと呼んでいた」
「名前は憶えてたのか。全部忘れられてたかと思ったよ」
「顔が変わり過ぎだ」
彼とクラスメイトだったのは、中学3年の時だ。
12年も経てば変わって当たり前かもしれないが、華奢で大人しく目立たない風貌の少年だったから、久々に会えばすぐには気付かないだろう。それに、人間が狩人になればある程度姿も変わる。特に成長期である15歳までに狩人に覚醒すると、顔かたちも変化する事が多い。
「そうかなぁ…。面影はあると思うんだけど」
「印象が変わり過ぎだ」
「…お前は変わんないよ。あの時と同じで、優しい」
車が歩道ぎりぎりまで幅寄せした状態でゆっくりと止まった。狭い道路ではないが、ほかに車は通らない。車が人里離れた道を走っていることも分かっていたが、それについては訊かなかった。
「会いたいと、思ってたんだ。ずっと。でも狩人になった俺はあの町には居れなかったし、お前も県外に行ってた」
「そうだな」
「探してた時期もあったけど…人間として、多分守人として生きてるお前には迷惑だろうなって思ったんだ。だから会わないまま死ぬんだろうなって思ってた。…お前があの辺で仕事してるのは、少し前に知ったんだけど…いきなり声かけたら驚くよなって思って、タイミング計ってたんだ」
「最悪のタイミングだった」
新月の晩に愛人を犯している場面に遭遇した上に、狂人の狩人に襲撃されるのが、良いタイミングであるはずがない。
「だって、来ると思わないから…」
「あれは何の為だったんだ?」
俺の問いに、桂は首を傾げた。ややあって、視線を逸らす。
「…人間を犯してた理由は…まぁ、俺は、狩人なので」
「狂人が来るのを待ってたんじゃないのか。その餌だったんじゃないのか?」
桂は目を見開き、俺を見た。この男の表情は、大体狩人らしくない。自分の負の感情を表に出す狩人は多いが、この男は自分が不利になりそうな感情も顔に出る。
「お前はいつも同じ香水を付けてるし、あの日も少しは香った気がする。お前が相手にしていた人間の香水かと思っていたけど、狩人が香水を付ける理由は一つしか思いつかない。…狩人の匂いを隠すためだ」
香水のような強烈な匂いを狩人は嫌う。それでもこの男がずっと香水を纏っているのは、自分が狩人であることを知られる確率を減らす為だ。闇の中で目を見ればそうと分かるが、狩人独特の臭いがなければ、気付かない守人もいるだろう。
気付かないのは、人間だけとは限らない。
狩人も。
「人間を犯せば、その人間の匂いは通常より強くなる。血の匂いよりは弱いが、嗅覚が鋭い狂人なら呼び寄せられるだろうな」
「暴走したヤツ呼ぶつもりは無かったんだけどね。それに…あいつはお前の匂いに呼ばれて来てたよ」
「…そんなに臭うのか?俺は」
「…まぁ…そうだね」
パーティのリーダー格の男、サギリも似たことを言っていた。簡単に言えば『美味しそうな匂い』ということだったんだろう。全く嬉しくない。
「蝶を呼ぶ花の蜜みたいな…そんな感じ」
「やめてくれ。吐き気がする」
「今はそこまででもないよ。鬼の血が一度覚醒したからなんだろうね。匂いだけなら人間かなとは思うけど、前ほど犯したい匂いじゃないから」
「やめろ」
「…ごめん」
桂は眉を下げて申し訳なさそうな顔をした。
「俺の事はもういい。お前は、何で狩人が来るのを待っていたんだ?守人に協力的でもないお前が、狩人を斃す理由は無いと思うが」
「…理由、話さなきゃ駄目かな?」
「お前も他の狩人とは違う存在になった事は、分かってる」
この男は狩人だ。
だが、あの日。
中学3年の夏の日。
俺達は、狩人になる道を避けるために、ある賭けをしたのだ。
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