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第86話

「やっぱりな」 志乃の口から言葉が落ちた。なぜだか俺が悪い事をしたような気分になる。 「夏目の過去は、聞いたか?」 「···うん。全部ちゃんと聞いた。」 「そうか。···で、どう思った?」 そんなことを聞かれると思っていなくて、ただ口を閉ざし、志乃を見る。 「何を言っても怒らねえよ。素直に思ったことを教えて欲しい」 「·············」 夏目さんの話を聞いてまず一番に思ったこと、それはただの同情の気持ち。 「可哀想って、思った。」 「うん。他には?」 「···可哀想、だけど···狡いなって。」 「狡い?」 「うん。その過去に対してじゃなくて、その過去があるから、志乃に縋って頼る夏目さんが狡いって思った。」 そう言うと志乃はふっと笑う。 そんな志乃の隣に腰掛ける。 「確かに、お前は記憶を思い出したからって泣き喚いたり、俺に縋ることは無かったな。むしろ出て行った。」 「うん。···でも、今日わかった。過去に怖いことがあって、その時の状況と似ている部分があると、こんなに怖いんだね。」 「···それでもお前は暫く我慢したんじゃないのか?俺が電話をしなけりゃお前は1人で耐えていただろ」 「···だって、夏目さんがいると思った。夏目さんがいて、不安定なら···志乃がついていてあげないといけないんでしょ。」 今ここに夏目さんはいない。元の状態に戻ったのか、それとも無理矢理志乃と離れさせたのか。 「俺が電話をしなけりゃ、どうしてた」 「···知らない。最悪あそこで倒れてたくらいだと思うし、そんなに深く考えてない」 今はそんなことより夏目さんが気になる。 彼は大丈夫なのだろうか。 「夏目さんは?」 「今は本家にいる。状態も戻ってきてるし今は大丈夫だ。ただ···」 「ただ?」 志乃の吸い込まれそうなほど綺麗な漆黒の瞳が俺を射抜く。 「夏目を安心させるためとはいえ、俺は夏目の恋人をすることになった。」 「···何言ってんの?」 「夏目が壊れかけていたから、安心させようとして要求に応えた。」 「何それ。おかしいよ」 「ああ。確かにおかしい。けれどあの時はそれが一番だと思った」 本当に今さっきまで温かかった心が、冷たくなった。いっそのこと、このまま凍ってしまって何も感じなくなるくらいに、冷えてほしいと思う程。 「志乃は夏目さんのものになったの?」 「···一応な」 「···っ、嫌だ!」 大声を出して立ち上がる。 志乃は驚いて俺を見上げている。

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