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第143話

「···覚えてない」 そんな事、記憶にない。 俺にとってそれは重要な言葉で無いから。 「酷いな。梓がそう言ったから俺は皆に優しくするようにしたのに」 「···これ、手、外して」 「外したら逃げるだろ。それに眞宮志乃にも同じ扱いを受けてたんじゃないの?」 「···ない、外して!」 記憶が無い時はされたことがあるけれど、今ではそんなこと絶対しない。 「まあいいよ。梓、キスしようか」 「嫌だっ!」 「嫌?眞宮志乃とはしてるんでしょ?」 槙村から顔を背ける。ずっとそうしていたのに、顔を叩かれて動きが止まった。 「次拒否したら許さないよ」 「···っ」 顔を叩かれたことで、父さんと槙村が重なった。怖くて、体が勝手に震え出す。 「っ、こ、わい···」 「怖い?何が?」 「やめ、てください···ごめんなさい、殴らないで···」 「怖くないよ、大丈夫」 頬を撫でられて、ぞわっと背中に走るのは嫌悪感だけ。 「志乃···志乃、どこ、志乃···っ」 「···他の男の名前呼ぶなんて、駄目な子だね」 駄目な子でも何でもいい。 ただ、志乃に会いたい。志乃がいい。 ポロポロと溢れ出る涙がシーツを濡らしていく。 「志乃···し──っんぐ!!」 「余計な事ばかり言う口は塞がないとね」 口の中にさっきまで俺の口を塞いでいた布が突っ込まれて、苦しい。 流れる涙も拭えずに、奇妙な部屋で時間を過ごした。

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