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其ノ陸、心

【主要登場人物】 幻洛 伊丹 ふゆは 裂 【その他登場人物】 劔咲 ---------- 「…おはよう、劔咲。」 「ああ、ふゆはちゃん、おはよう。」 あれから一夜明け、ふゆははいつも通り朝食を食べる為、居間へ入った。 皆の朝食を準備している劔咲が、今日は特別楽しそうだった。 「ナギといい関係になれたそうだな。」 「!?」 予想だにしなかった言葉に、ふゆはは朝から驚愕した。 「どど、どうして知っているのっ…!?」 自分はまだ夢でも見ているのではないか。 そう思いながらも、ふゆはは顔を赤くしながら慌てふためいた。 「ん?さっきナギが自分で言いふらしていたぞ?」 しれっと言う劔咲に、ふゆはは一瞬思考が止まった。 「え、えっ…!?ウソッ…!?」 あのナギが、ふゆはとの関係を、自ら進んで宣布するなど思いもしなかった。 あの無口無表情のまま、どういう心境で言いふらしていたのか。 …正直、その状況は微塵にも想像することができなかった。 「…やれやれ、朝っぱらから元気だな。」 居間で静かに騒ぐ二人の背後から、突然低い声がした。 紺色の長い髪を一つに結び上げた長身の男が、呆れたように苦笑いをしながら居間に現れる。 万華鏡神社の警護隊の一人、幻洛だった。 「ああ、幻洛、おはよう。」 「幻洛…、おはよ…、じゃなくて…!は、は、早くナギを止めないと…!」 朝の挨拶もそこそこに、ひたすら慌てるふゆはに、幻洛は思わず笑ってしまった。 「フッ、成る程…、余程いいことがあったようだな、ふゆは。」 ニヤニヤと、幻洛は慌てるふゆはに茶々を入れた。 「ああもう…!か、からかわないでってば…!」 ふゆはは恥ずかしがりながら、その真っ赤になってしまった顔を覆い隠す。 「ああ…そうだ、ふゆはちゃん、伊丹はどうした?今日は珍しく朝食を食べに来ていないんだが。」 劔咲は突然、思い出したかのようにふゆはに訪ねた。 その日、伊丹は朝食を食べるどころか、居間にすら来ていなかったのだ。 スッと、熱く舞い上がっていた空気が冷え始める。 「えっ…?あ、そういえば…、ちょっと忙しいとは言っていたけれど…。」 ふゆはは今朝、伊丹に会っていた。 ただ、今日は本当に忙しそうで、大した話はしなかった。 それでも、伊丹はいつもの柔らかな笑顔で話していた為、ふゆはは特に気に留めていなかった。 「…。」 幻洛は、ふゆはの話を真剣な面持ちで聞いていた。 「朝ごはんも食べてなかったなんて…。伊丹、大丈夫かしら…。」 万華鏡神社の方角を眺めながら、ふゆはは心配そうな顔で呟いた。 「…ふゆは、伊丹が忙しいと言っていたのはいつだ?」 少し険しい表情で、幻洛はふゆはに追求した。 「え…と、ついさっきの事だけれど…。」 「そうか。」 ワシャワシャと、幻洛は大きな手でふゆはの藤色の頭を撫でる。 「あの、幻洛…?」 ふゆはは疑問の表情を向ける。 それに対し、幻洛はフッといつもの笑みを浮かべる。 しかし、その目は一切笑っていなかった。 幻洛は黒い服を靡かせながら、そのまま足早に居間から出ていってしまった。 その横顔は、先程までふゆはをからかっていたとは思えない程、真剣な表情の幻洛だった。 伊丹も、幻洛も、一体どうしたのだろうか。 ふゆはは呆気にとられていた。 「…ところでふゆはちゃん、ナギの事はいいのか?」 「!」 劔咲の一言に、ふゆはは我に返った。 そしてまた、顔を赤くしながら慌てふためいた。 ナギの事も気になるが、まずは落ち着いて朝食を食べなければ。 そそくさと、ふゆはは卓袱台に着いた。 今日も、いつも通りの一日が始まる。 そう思っていた。 ……… 万華鏡神社と屋敷を結ぶ、一般の者は入ることが出来ない小さな林道。 その境界した塀に、伊丹は背を預け、項垂れていた。 陽は厚い雲に遮られ、まだ朝だというのに薄暗かった。 周囲の竹林が、時より強い風で唸るようにざわめく。 「っ…はぁ…、」 苦しそうに、伊丹は息を吐いた。 「…重、い…。」 自身の腕を掴みながら、伊丹は迫りくる何かに耐えていた。 生憎の天候故か、今日は小鳥のさえずりさえも聞こえない。 ただ、風でざわつく竹林の葉が、現実の思考を遮るように煩く聞こえた。 もう、そこは既に現実ではないかのように。 「伊丹。」 ふと、聞き覚えのある低い声に、伊丹は現実に引きずり戻される。 「幻洛、さん…?」 ああ、またか、また貴方は、僕の邪魔をするのか。 あの日の夜、一瞬だけ目を合わせてしまっただけで、こんなに付きまとわれるようになるなんて。 嫌いだ。 嫌いだ。 貴方、なんて…。 「…こんな時間に、心外ですね。まだ村の巡回に行かないんですか?」 平然と、皮肉を交える。 思わず悪態をつきそうになりながら、以前のことも無かったかのように、伊丹は笑顔で応えた。 その笑顔は誰にも向けられていなかった。 「ふゆはが心配していた。」 伊丹の問いを無視するかのように、幻洛は言葉を発する。 ふゆは、と聞き、伊丹は一瞬言葉が詰まる。 「…心配?何がです?いつも通り、僕は仕事に追われて忙しいだけですが?」 伊丹はただひたすら、冷淡に答える。 偽る、という下衆な行為をする自分自身に、伊丹は内心苛ついていた。 「シラを切るのもいい加減にしろ。」 幻洛の声が、より一層低くなる。 じり…、と着実に、ゆっくりと伊丹に歩み寄った。 「お前、その呪いをどうするつもりだ。」 あの日の夜、幻洛が言いかけた言葉だ。 やはり、既に読まれていたのかと、伊丹は心の中で舌打ちをした。 「…呪い?幻洛さん、貴方は何か良からぬ怪異にでも、」 「覚(さとり)相手にいい度胸だな。」 低く鋭い幻洛の声が、シラを切り続ける伊丹の言葉を断ち切った。 幻洛は距離を詰め、伊丹の顔の横に片手をつく。 伊丹の背後にある塀が、鈍い音を上げた。 「…幻洛さんには関係の無い事ですから。そう無駄につきまとわれると、こちらも迷惑なんですよ。」 追い込まれた伊丹は、今までのことを肯定も否定もしなかった。 ただ、その言葉もまた偽りであった。 「なら、俺の眼を見て言え。」 「っ…!」 幻洛の言葉に、伊丹は思わず息を呑んだ。 呪いの件が認知されている時点で、もう逃げることなど出来なかった。 だけれども、それでも、その金眼を見ることが伊丹には出来なかった。 一向に顔を背ける伊丹に、幻洛はこちらを向かせようと、ついた手とは逆の手を伸ばした。 「っ!触るな!!」 咄嗟に、伊丹は声を荒げながら手を払い除け、幻洛の額に自身の指を突き立てた。 「!?」 途端に、幻洛の視界が傾く。 プツリと世界が遮られ、思考が暗闇へと引きずり込まれる。 『その隈取り…、お前、覚の血が混じってるのか?ハハッ、そいつは不運だな。…知らないのか?昔から、覚の血を持つものは…』 聲が、聞こえる。 あの時の、聲が。 『アハハ!覚なんて下衆な血が流れてるヤツに好意を持つとでも思ってたの?一回アタシを抱けたからって、勘違いしないでよね。…気持ち悪すぎて反吐が出るわ。』 気持ち悪い。 気持ち悪い。 気持ち悪い。 ―――なぜ、俺の身体には覚の血が流れているのだろうか。 他者の心を見透かせる程度の能力が、これ程まで誰かに不快を与えているなど、思いもしなかった。 ただ、居るだけで誰かを不快にさせている。 こんな冷遇された世界になど、生まれてきたくなかった――― 過去、幻洛自身に降り掛かった精神的恐怖の記憶が、頭の中で鮮明に蘇っていた。 それは伊丹による、その者が過去に経験した恐怖の記憶を見せつける術だった。 心の奥底で固く閉ざされた遠い過去の記憶が、否応無しに引きずり出される。 長い年月をかけて塞いでいた心の傷が、たった一瞬で、再び深くエグれていく。 「っぐ、…!!」 幻洛は思わず伊丹から離れ、そのまま膝をついた。 一瞬の術から解放されたものの、その記憶は延々と、呪いのように幻洛の脳裏を彷徨っていた。 「はっ…は…、呪いを、どうするか、だと…?たかが覚の分際で、何もできない愚か者が口を出すなッ!!」 己の前で跪く幻洛に、伊丹は罵声を浴びせる。 その怒りに満ちた声は、微かに震えていた。 「…これ以上、僕に関わるな…!」 その表情は、幻洛と同じくらい苦しみに満ちていた。 伊丹は不快そうにしながらも、静かに、足早に神社の方へ立ち去った。 それまで騒めいていた竹林の葉が、途端にしんと静まり返る。 「…クソッ!結局…こうなるのかよ…!誰かを救いたいという気持ちさえ、俺は…ッ!」 感情を荒げ、蹌踉めきながらもなんとか立ち上がる。 エグられた心の傷から大量の血が滴る感覚に、幻洛はギリッと鳴るほど歯を食いしばった。 『ーーー僕は好きですよ、貴方の能力。』 「…!」 過去の重苦しい記憶が蘇る中、ふと、伊丹の聲が聞こえるような気がした。 それは幻洛が初めて伊丹と出会い、彼から言われた言葉だった。 ―――覚の血族であるという理由だけで受けてきた冷遇に耐えきれず、故郷を捨てた幻洛。 誰も自分を必要としていない。 自分がいなくなっても、悲しむ者など誰もいない。 いっそのこと、このまま…。 幻洛は行く宛もなく、数日間飲まず食わずに歩いた。 そんな中、偶然辿り着いた先が万華鏡村の境目にある竹林だった。 その竹林で、柳緑色の頭から狐耳の生えた妖狐、…伊丹と出会った。 伊丹と出会った時、彼は怪異である邪狂霊に襲われていた。 狩衣が裂け、錯乱しながら抗う伊丹が目に映った幻洛は、一刻も早く彼を助けるべく、持っていた薙刀を構えて急行した。 疲れた、腹が減った、そんな事など考える余地もなかった。 今ここで手を差し伸べなければ、あの者は死んでしまうかもしれない。 消えてしまいそうな命が、生きるために戦っている。 救わなければ、ならない。 その一心で幻洛は戦った。 結果的に、幻洛はその邪狂霊を殺めることで事は収束した。 目の前で、容赦なく胴体を引き裂いて殺した。 突然目の前に現れた男が覚の血を持っている者だったなど、この妖狐にも、さぞ軽蔑されるのだろうな。 邪狂霊の返り血を浴びた幻洛はそう思っていた。 今更、誰かに軽蔑されるなど慣れた事だ。 どんな善意を行ったとしても、所詮、自分はその程度のアヤカシなのだから。 幻洛は無言のまま、すぐにその場を去ろうとした。 しかし、その返り血に濡れた腕を伊丹に掴まれ、そのまま引き止められた。 幻洛はその手を振り払うことなく、伊丹を見つめた。 右目を包帯で隠されたその妖狐の左目は、まるで深海のように蒼く、そのまま暗闇に引き込まれそうなほどで… とても、綺麗だった。 伊丹の悲願するような思いに、幻洛は万華鏡神社に付属する屋敷へと招かれた。 屋敷には、彼の愛弟子である妖狐、ふゆはもいた。 ふゆはは幻洛という突然の客に、静かに驚いていた。 こんな血塗れた浮浪者を屋敷に上げるなど、お前のツレも相当正気ではないヤツと思うがな。 幻洛はそう心の中で嘲笑った。 小さな客間へ案内された幻洛は、伊丹と共に疲弊しきった身体を休めた。 その間、伊丹と様々な話を…、というよりは、伊丹が一方的に話をしていた。 赤の他人に自分のことを語るなど、幻洛には出来ない事だった。 話は幻洛の種族についてのものだった。 幻洛は混血のアヤカシだが、身体に流れる血の半分は覚のものだ。 その証として、幻洛は生まれつき目の周りに隈取りが記されていた。 幻洛が覚の血族であることを知った伊丹は大変驚いていた。 伊丹は非常に興味深そうに幻洛のことを尋ねた。 それは警戒心によるものなどではなく、純粋な好奇心によるものだった。 なんでも、万華鏡村には覚というアヤカシそのものがおらず、珍しさのあまり皆が慕う種族だと伊丹は言った。 故に、覚に関する逸見も、この村の者たちにとっては皆無であった。 自分の存在を否定しないことを知った幻洛は、これまでの出来事を淡々と伊丹に語った。 他者の心を読み取る能力の事。 それに準じて、千里眼のような力が使える特殊能力の事。 そして、その能力のせいで、周囲から煙たがられてきた事も。 『僕は好きですよ、貴方の能力。』 伊丹は偽りのない笑顔でそう言った。 きちんと、幻洛の金眼を見ながら。 何故、伊丹が幻洛の能力を称賛したのかは思い出せない。 ただ、その言葉と、初めて向けられた純粋な笑顔が、いつの間にか幻洛の中で唯一の心の拠り所となっていた。 いつからだったか、伊丹を特別な感情で見るようになったのは――― 「ッ…!」 ズキンッ…と、心が痛む感覚に幻洛の思考が現実へと引き戻される。 忌々しい記憶に押しつぶされていた、伊丹との大切な記憶。 その記憶が、炎のように幻洛の中で蘇る。 「…こんな事で、諦められるか…ッ」 幻洛は傷つきながらも達観したような目で、その場を去る伊丹の背を見ていた。 ……… 亥の刻。 伊丹は屋敷へ戻らず、万華鏡神社の仕事部屋に身を置いていた。 無論、夕食すら食べることなく。 「伊丹…。」 ふゆはは今日の夕食を持ちながら、伊丹がいつもいる仕事部屋の前で心配そうに呟いた。 伊丹の式神が、困った様子でその部屋の前に立っていた。 「ふゆは様、今、伊丹様は…、」 「構いません…、入ってどうぞ…。」 部屋の中から、聞き慣れた声がした。 しかしその声は、聞いたことのないほど弱々しいものであった。 式神は一礼しながら、ふゆはの入室を許可した。 ふゆはは普段より重く感じる襖を開け、部屋に入った。 そこには、壁に背を預けながら縁側の窓際に座り、何も見ていない表情で外を眺める伊丹の姿があった。 その色白で整った綺麗な顔は、闇夜の光のためか、より一層白く輝き、今にも消えてしまいそうだった。 あの厳しくも優しい、優しくも厳しい自分の師が、とても美しく、儚く見えた。 ふゆはは思わず息を呑み、その姿に見惚れてしまった。 そんな美人で儚い姿の者を、遠い遠い昔、どこかで見たような気がした。 それは、自分がこの世に生を受けた時。 優しい愛情を与えながらも、その背負っていた病により、幼きふゆはを残し、この世を去っていった者。 母…、上…? ハッと、ふゆはは止まっていた息を吐く。 自分は今、何を考えていたのだろうか。 ふゆはは小さく咳払いをし、その心を整える。 「…伊丹、大丈夫…?今日は朝も、昼も、何も食べてないから…。」 ふゆはは伊丹の側に座り、彼の隣に今日の夕食を置いた。 「みんな、心配していたわ。」 伊丹は視線のみ、ふゆはの方へ向けた。 みんな、とは、誰から誰までのことなのだろうか。 心配、という概念は、皆どのように感じているものなのか。 わからない、自分には、何もわからない。 あの男なら、それすらも読み取ることが出来るのだろうか。 「…ありがとうございます…。少々、予想外の仕事に巻き込まれただけなので…。」 伊丹は預けていた背を起こしながら姿勢を正し、いつもの笑顔をふゆはに向けた。 予想外の、仕事。 そう、あれは予想外で、それを対処するだけの、ただの仕事だったのだ。 それで、いいんだ。 「そう…。」 ふゆはは短く、目を伏せながら返事を返した。 夜風が、やんわりと吹き付けた。 リンリンと、虫の声が木霊する。 「私だけじゃ頼りないかもしれないけれど、無理しないで…。仲間を、家族を頼ってね…?」 「…。」 仲間、家族…。 それは昨日、伊丹がナギに向かって言った言葉。 まさかこんな形で、こんなにも早く自分に帰ってくるとは、伊丹は思いもしなかった。 心身ともに疲弊しきっている師を前に、あまり長居はすまいと、ふゆはは立ち上がる。 「伊丹…、独りで抱えちゃダメだから、ね…?」 部屋の襖へ向かう途中、ふゆはは振り返り、心配そうな顔で伊丹を見つめた。 「…大丈夫です、ふゆはさん。僕はもう、大丈夫ですから…。」 伊丹はふゆはに微笑み、名残惜しそうに去り行く小さな背を見送った。 静かに、その襖が閉ざされる。 途端、伊丹はそのままゆっくりと突っ伏した。 「…、ごめんなさい、ごめん、なさい…。」 誰に対して、何に対して謝罪の言葉を述べているのか。 伊丹は既に、”自分自身”を見失っていた。 包帯で巻かれていない左目から、ひとしずくの涙が零れ落ちる。 伊丹は己の狩衣の裾を、皺になるほど強く握った。 ただ、冷たく、暗いところから、助けを求めていた。 ……… 「今日も異常はなさそうだな…。」 ふゆはが伊丹の仕事部屋に訪れていた同時刻。 屋敷の屋根上から村全体を見渡す、赤い髪の男が居た。 その顔の左には、濃い傷跡が残っていた。 万華鏡神社の警護隊の一人、裂だ。 ふと、裂は自身の背後から何者かの気配を感じていた。 その気配は、よく知っている者のものだった。 「こんな時間に来るとは珍しいな、幻洛。」 「…ほう、やはり分かっていた、か。」 フッと幻洛は鼻で笑った。 もはや振り返らずともその正体はわかっていたようだ。 忍術に長けている者ゆえ、気配を感じ取るなど容易いことなのだろう。 幻洛は、村を見渡す裂の隣に座った。 「で、どうしたんだ?」 こんな時間に起きているなど、明日の巡回任務に支障が出るのではないか? 裂は不思議そうに、幻洛に尋ねた。 「…裂、お前は、大切な者が破滅の道に進んでいたら、命をかけてでも止めるか?」 思いがけない質問に、裂は一瞬思考が止まった。 「…は?何だ、急に…」 「まあ、ただの例え話だ。そう深くは考えるな。」 幻洛はいつものように、顔に笑みを浮かべながら話していた。 深くは考えるなと言われても、あの幻洛が、こんな意味深な質問をするなど、考えてしまうに決まっているだろう。 裂は額に手を添えながら、少し時間を取った。 「…、俺は、相手の意志を尊重する。」 裂はゆっくりと答えた。 「相手が、心の底から破滅を望むなら、俺は止めようとはしない。相手の望みを止めるなど、結果的には自分のことしか考えない、ただの我儘だろう。」 「…。」 我儘、か。 あいつが本当に、心の奥底から破滅することを望んでいたならば、その通りだろうな。 自分のことしか考えない…?いや、俺は俺自身のことなど、正直どうでもよかった。 俺は…、ただ…、あいつの為に…。 幻洛は裂と共に、暗闇に包まれた村を見渡しながら、目を細めた。 「…まさか…、今日の伊丹の件が絡んでいるのか…?」 そんな幻洛を横目に、裂は事の真相を察した。 裂も、今日の不可解な伊丹の件を知っていた。 万華鏡神社の神主であり、ふゆはの師で親代わりの身でもある伊丹の事だ。 彼も彼で、事が上手くいかずに思い悩む日だってあるだろう。 そう、裂は思っていた。 「…。」 幻洛は聞いているのか聞いていないのか、ただただ無言だった。 「幻洛…、あまりそういう件は首を突っ込むな。」 裂は深く溜息を付いた。 「あの伊丹にも、誰にも知られたくない事情だってあるはずだろ。」 この世を生きる者であれば、あって当然のことだろう。 伊丹の一生は、伊丹自身が決めることだ。 その一生の当事者でない者が、差し出がましい事などすべきではない。 裂は幻洛に、少しばかり強く忠告した。 夜風が、やんわりと吹き付けた。 リンリンと、虫の声が木霊する。 幻洛の髪が風で揺らぎ、普段その前髪に隠された右目が、一瞬ばかり闇夜に包まれた村を映す。 その黄金に輝く両目は、月の放った僅かな光を反射していた。 それでも、俺はあいつを、伊丹を止める。 止めなければならない。 たとえこれが我儘だと蔑まれても。 そう思いながら、幻洛はグッと拳を握り締めた。 「…あいつは、本心では破滅することを望んでいなかった…。」 幻洛は、より一層険しい表情で呟いた。 「は…?幻洛、お前今なんて…、」 不可解な言葉に、裂は驚きを隠せなかった。 「ああ、つい口が滑ったな。…まあ、伊丹が厄介事を解決できずに困っているだけという話だ。」 「はあ…?」 幻洛の適当な物言いに、裂はただ疑問符を浮かべるだけだった。 幻洛はそのまま、振り返らずに軽く手を振りながらその場を後にした。 その様子を、裂はやれやれといった表情で静かに見送った。 「…全く、情の深い奴だ…。」 裂はひっそりと呟き、暗く静まり返った村に溶け込んでいった。 月明かりの照らす夜道。 自らの影が、暗闇へ誘うように付き纏う。 幻洛はふと立ち止まり、夜空を照らす月を見上げた。 「…ただ伊丹を救いたい。それだけだ。」 誰宛にでもなく、幻洛は呟いた。 冷たい夜風が優しく吹き付ける。 『…これ以上、僕に関わるな…!』 あの時、己を取り乱した伊丹は、はっきりと幻洛の眼を見ていた。 そして幻洛もまた、深海のように蒼い伊丹の眼を捕らえていた。 ―――――僕は何故、こんな呪いを背負ったまま生まれてきてしまったのだろう。 これは神のいたずらなのか、それとも、周囲より強い霊力を持つ者の対価なのだろうか。 ゆっくりと、確実に、自分の身体が呪いに蝕まれていくのを実感してきた。 その呪いの進行を抑える為、身体中に包帯を巻き、ずっとずっと、迫りくる恐怖から目を背けてきた。 それでも、呪いの進行は完全に抑えられていないのが、やっと、ようやくわかった。 見えない魂が、よりはっきりと見えるようになってきた。 聞こえない聲が、よりはっきりと聞こえるようになってきた。 あちら側の世界に、刻一刻と取り込まれている。 もう、どうすることもできないんだ。 いつか、僕が僕でなくなる日が来るのだろう。 重い。痛い。寒い。苦しい。寂しい。 怖い。 誰か、助けて――――― 覚の力で読み取れた伊丹の真意。 抗い、幻洛を払い除けた行動は、もはやただの自暴自棄だったのだ。 その程度で、身を引くとでも思ったのか。 「…俺が諦めの悪い男で残念だったな。」 幻洛は誰かを嘲笑うかのように呟いた。 幻洛の金眼のように輝く黄金の月が、暗闇を振り払うように、その帰路を明るく照らしていた。 氷のように冷たい夜風を感じながら、幻洛はゆっくりと屋敷へ戻っていった。

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