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4.大邸宅(1)

 馬車の後ろに引っ付いている荷台に詰め込まれたことはあるけれども、客車に乗せられたことは初めてだった。    こんな状況じゃなかったら、革の張られた高級感溢れる座席を堪能していたに違いない。しかし悲しいかな、今はそんな余裕がない。精神的にも肉体的にも。  最後に足蹴にされたのはかなり響いた。口は開いても呂律が回らないので、何かを言おうとしてもああ、とかうう、とかしか間抜けな声しか出せない。肘掛け部分に頭を乗せ、青年の前の席にぐったりと横たえられ、ぐわんぐわんと意識が遠のいたり近づいたりしている状態で逃げるなんて不可能だ。  リョウヤがなんとか人間としての尊厳を保とうと頑張っている間、男は終始黙したままだった。しかもリョウヤに一瞥もくれず、まるでこの空間から自分以外を弾き出そうとしているかのように、トゲトゲとした雰囲気を醸し出している。  馬車がガタ、ゴトンと揺れるたび、手足と首の枷がカチカチ鳴ってうるさい。鍵は目の前の白い男が持っているはずなのだが、外してくれる気はさらさらないようだ。男はふう、とふかしていた葉巻煙草を口から離し、ピカピカに磨かれ光り輝いている四角い灰皿に置き、おもむろに手袋を外し始めた。  リョウヤの顎を掴み、頬を殴打して少々血が付着してしまっていた白い手袋だ。  するりと滑らかな所作1つに、育ちの良さが見え隠れしている。 「……汚いな」    とぼそりと、一言。リョウヤにわざと聞かせようとしたのか、つい漏れてしまったのかは定かではないが、男が引き抜いた手袋を躊躇なく窓の外へと放り投げた。  窓の隅で、路上で靴磨きか花売り、または新聞売りで生計を立てている少年少女たちが、闇に消えた手袋に一斉に群がり始めた。  革でできた手袋は高級品だ。彼らにとっては玩具でもなくたっぷりとした金になりそうな一品なのだろう。  だが危険な行為だ。  群がった子どもたちが万が一にも飛び出してきたらどうするのか。馬車に轢かれたまま路上の隅っこに放置されえ、無情な雨風に晒され続け、蠅や蛆がたかり鳥につつかれる肉壊となってしまった子どもたちをたくさん見てきた。何度、誰も触れようとしない崩れた亡骸を、共同墓地に持って行ったことか。  見捨てられた不衛生な遺体のせいで病気だって蔓延するんだぞ。そりゃあ貴族はすぐに医者に診せられるからあっという間に完治するのかもしれないけど、医者にも見捨てられてしまうリョウヤたち貧民層にとっては、風邪の1つだって死の元だ。   「こ……こ、で……捨てるな……よ。あぶ、ない……だろ」    いろいろと言いたいことはあったが、口に出来たのはそれぐらいだ。そろそろ意識を保っているのも難しくなってきた。けれども無様な姿を晒すのだけは避けたい。これはリョウヤのプライドだった。   「──貴様の汚い涎がついた手袋をはめ続けろと? ふざけるな、手が腐る」  この男にとってリョウヤは、今頃孤児たちに引っ張られて、もみくちゃになっている手袋以下の存在なのだろう。できれば今すぐにでも、そのスカした胸ぐらを掴んで最低野郎と罵ってやりたいが、もうそんな気力もない。  今の一言で、力を使い果たしてしまった。 「それに、飛び出してきたところで轢けばいいだけだ」  発言の全てが最低過ぎて逆に困る。クズではなくてカスだったか。これ以上喋ることはないとばかりに、男は吸いかけの葉巻煙草を咥え直した。  長い脚を組み替えながら紫煙をくゆらせ続けるその顔は、ちっとも美味しそうにはみえない。むしろ不味そうだ。吸いたくなければ吸わなきゃいいのに。  指で触れたらひんやりしそうな端正な横顔は、まるでカチカチに凍り付いた氷像みたいだった。 「あん……た、って、息も、つめた、そう……だね」    その一言を最後に、かろうじて残っていた思考すらも溶けていく。懸命に力を込めていてもくっついてしまうまぶたの隙間から、青年の赤と一瞬だけ目ががあった、気がした。      ぱちりと目が覚めた時には目的地に着いていた。  長い時間気絶していたからか、体もばっちり動いたし口も動いた。 「ここどこ?」    外から扉を開けられたが、さらさら出る気はなかったので頑として無視していると、隣に座っていた青年──リョウヤを購入した男──に乱暴に馬車の外へと追い出された。   「ちょっ……離してよ! 自分で歩けるから! 乱暴にすんなって」  転げる寸前で従者たちに両脇をガッチリ抱えられて、そのまま引きずられる。「痛いってば!」と叫んでも無視された。手が後ろなので、物として運ばれているような感覚に近い。決して逃がすなと主人に命令されているようで、力も緩まなければ誰も目を合わせようともしない。  リョウヤを購入した男はというと、リョウヤに一瞥もくれず長いコートをばさりと翻してさっさと前を行ってしまった。  ずるずると歩かされながらも、周囲を観察して逃げ出す機会をうかがう。腕はともかく、足首にまとわりつく枷が重い。足を上げるのも一苦労だ。しかも断ち切られた鎖もついているため一歩進むごとにじゃらじゃらとうるさい。リョウヤのような人種の人間は、人よりも華奢で発育が遅いわりに体力がある。壊れにくい体だからこそ奴隷として重宝され、脚力があるからこそ、逃亡を阻止する目的で嵌められる足枷も重いのだ。  舗装された石畳を進んでいくと、噴水や庭園が目に入った。広すぎる、いかにも貴族の輩が好んで造らせそうな庭が長く続くばかりで、両脇を支えてくる屈強な男たちを振り切って逃げだすことは不可能だろう。  タイミングを見計らっているうちに、やけにごてごてしたアーチ状の門をくぐらされた。両端から空を丸く覆い隠すように緑の蔓や葉が茂っていて、かなり圧迫感がある。  そしてそこを通り抜けると、一気に視界が開けた。夕暮れ時の薄暗い視界に、突如として飛び込んできたそれにあんぐりと口を開ける。 「うっわ……なにここ、城? でっけえ……」  目の前に聳え立っていたのは見たこともないほどの大邸宅だった。横に広くて立てに長くて……とにかくでかい。大きくて高い。部屋が数え切れないくらいありそうで、いち、にい、さん、よん、ご、ろく、とそこまで数えて止めた。  しかも広い玄関付近には、この家の使用人たちがずらりと並んでいたのだ。  数を数えるだけで日が暮れそうだ。

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