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4.大邸宅(2)

  「おかえりなさいませ、旦那様」  まずは年配の使用人がリョウヤを買った男に頭を下げ、後に続くように残りの使用人たちも一斉に頭を下げた。「おかえりなさいませ」の大合唱に面食らう。  あまりにもリョウヤが生きてきた環境とは世界が違いすぎる。月と蟻ぐらいの差だ。 「お目当てのものは見つかりましたでしょうか」 「あれだ。あそこで呆けているやつ」 「ああ……」  顎でしゃくられ、使用人の視線が一斉にリョウヤに集中した。危ない。見上げても見上げても続く屋敷に圧倒されて逃亡の気持ちが萎えかけていた。悪意に満ちた視線を逸らすことなく受け止め、弾き返してやる。  こんな視線慣れっこだ。 「汚いですね」 「ああ、酷い臭いだ。あとで客車も掃除しておいてくれ」 「承知いたしました」 「おい、連れてこい」 「わっ」  再び引きずられて、足がもつれて転びそうになる。 「だから、もうちょっと丁重に扱ってってばっ」 「……見ての通り、うるさい上に教養といったものを何も身につけていない忌人だ」 「さようでございますか。しかし、本当に黒いですね。あれが稀人ですか」 「そう説明は受けた。貧民街で隠れて生活していたらしいからな、血統書やこれまでの飼育書などは存在しない。あとで店主の話を詳しく聞いて調べておけ、クレマン」 「かしこまりました」 「それと、まずは身支度を整えさせろ。臭くてかなわん。鼻がひん曲がりそうだ」  カチンときた。   「あのさ、さっきからなんなんだよ臭い臭いって! これでも3日に1回は水浴びしてたんだけど!?」 「……体中の垢をこそぎ落とし、全て終わったら部屋に放り投げておけ。枷は外すな」 「承知いたしました」 「あとはバスティン子爵に書簡を出す、用意を頼む」    指示を受けた壮年の使用人が、周囲に控えている使用人たちを動かしていく。この屋敷の主人は、やはりリョウヤには目もくれずさっさと中へと入っていってしまった。リョウヤをここに連れて来た張本人だというのに、彼こちらには微塵も興味がないようだ。もちろん願ったりかなったりではあるが、これはこれでムカつく。  そして、男たちに無理矢理連れていかれたリョウヤはというと──    * * *   「いったた、痛いよ! 髪ハゲるってばっ」    素っ裸にされて、まるで野生動物か何かのようにまる洗いされていた。 「もっと丁寧に扱ってよ、ッ……うぎゃっ」    全員が顔をしかめていたのだから相当汚かったのだろう。ばしゃん! と綺麗なお湯を何度も何度も頭からぶっかけられて、両脇を抱えあげられて湯舟にざぶんと押し込められて、引きずり出されてはまた洗われた。  あの男の命令通りたまりにたまっていたであろう体中の垢をこそぎ落された結果、擦られすぎて肌は真っ赤だし、なんだか妙な匂いのするクリームや液体を塗りまくられて肌はぴりぴりするし、髪なんて、洗われる前の方がまだ艶はあったんじゃないかと思えるぐらいギシギシしている……その艶の正体は頭皮から染み出した油だったかもしれないが。  終始、気味悪そうな視線に晒され続けた。何人かの年若い女性の使用人が、髪を洗っている最中に「ひっ」と小さな悲鳴を上げていたので虫でもひっついていたのだろう。仕方がない、そういうところで暮らしていたんだから。いくら必死に水浴びをしていても、そもそも貧民街は衛生的に問題があるところだ。皮膚病にだってかかりやすい。リョウヤの兄は、複数の病気にかかり衰弱死した。  医者に診せる金も、なかった。  どれほど長い時間、口の中や、口では言えないようなところまでつるっと洗われていただろうか。全てが終わり体を拭かれ髪を乾かされる頃には指を動かすのも億劫なほどぐったりした。 「つ、つかれた……」  リョウヤを全く敬っていない冷たい表情の使用人たちに、用意されていたらしい真新しい服を着せられて、見知らぬ部屋に放り込まれた。「旦那様がいらっしゃるまでおくつろぎ下さい」と言われたが、こんな状況でくつろげる強者がいたらお目にかかりたい。  ここまで逃げる隙は全くなくて、この部屋に連れてこられてやっと1人になれた。 「うわ、部屋ん中も広いな……」  部屋の中をぐるりと見回す。白い天井にはシミ1つなくて、壁は上の3分の2ほどが白い花柄で、残りは紺色の二種類だ。入ったことはないが、高級街にあるホテルの一室はこんな感じなのかもしれない。  置かれている調度品も高そうだ。刺繍の施された絨毯は無駄にふかふかしていて、歩いているような気がしない。カーテンもでかくて重そうだ。先の尖った物などはない。 「このテーブル、なんのためにあるんだろ」  足でつんつんとつついてみる。もしかして足置きか? 金持ちだ……というか、この部屋にある調度品を1つでも壊したらどれほどの損失になるのだろう。リョウヤを買った紙切れぐらいはあるのだろうか、それとも足りないのかな……足りなさそうだな。ただ、確かに絢爛豪華な趣きではあるが。 「なんっか薄暗いし、部屋っていうか檻みたいだな……ここ」  燭台が少ないからなのか、広いわりにはやけに圧迫感があり、空気が肌にべっとりまとわりつくような湿っぽさが漂っている。また、この部屋で唯一の逃避ルートはこの出っ張った窓ぐらいだったが、無駄に取っ手をガチャガチャ動かしただけになってしまった。 「どうやって開くんだよー……」  いまいちわからない。それに、仮に椅子で窓を割ることができたとしても、けたたましい音に気付いて誰かが部屋に入ってくるだろう。運よく窓から出られたとしても、そもそもどう降りればいいのかわからない。足場は無いし、両手は後ろで固定されたままだし、この部屋はかなりの高さがある。  出始めの月が、ここからすっかり見えてしまうくらいだ。  最上階だとすれば、4階である。そこから思い切って飛び降りたら、頭は確実にカチ割れる。運よく割れなかったとしても、体中の骨がとんでもない角度で折り曲がりそうだ。  いくら足腰に自信があるとはいえ、そんな状態で逃げられる可能性は極めて低い。下手すれば死ぬ。八方塞がりとはまさにこのことだった。 「うーん、無理じゃん。どうやって逃げよう」 「ほう。まだ諦めがついてないとは、強情な奴だな」  突然聞こえてきた声に振り返る。開かれた扉の側には、リョウヤをここに連れて来た張本人が立っていた。彼の頭には白いタオルが無造作にかけられ、白銀の髪の先から溶けているかのような透明な水滴が、ぽたぽたと垂れている。リョウヤと同じく、体の汚れを洗い流してきたのだろう。  無意識のうちに、数歩だけ後ずさる。腰が窓枠にぶつかって足が止まった。  

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