71 / 152

31.ひとりぼっち(1)

『じゃあ私はそろそろお暇しようかな。じゃあね、坊や……最初に言ってた情報だけど、どこかに書いておくから最期の巻までちゃん読むようにしてね。時間はかかるかもしれないけど頑張って』  読む必要のない歴史書に隠しておくだなんて、性格が悪い。 『坊やって、元の世界に帰りたいんだっけ? じゃあちょっとだけ、知ってること教えてあげようかな』  藁にも縋る思いで、頷いた。 『最後まで私の言う通りでにできたら、トクベツな情報をあげるよ。今から私に従順になれるかな?』  やった。死に物狂いでやった。半端な気持ちじゃ、切って捨てられるとわかっていたから。  そうしてやり切って、こんな苦しみがまだこの世に残っていたことを、知った。  目が覚めたら、部屋の中も窓の外も真っ暗だった。しかも見慣れた自室だ。なるほど、気を失っている間に運ばれたのか。  とりあえず起き上がったリョウヤがすぐにしたことは、洗面所に駆け込むことだった。   「う……か、は」    洋式便器を抱えるように吐き続ける。せり上がってくるものは、まだ消化しきれていなかったどろどろの朝食と、ツンと鼻をつく酸っぱい胃液。そして口を押さえてもすきまから溢れ出てしまう、黄色に混じった白濁液。  出るものがなくなっても、リョウヤはえづき続けた。  体の、どこもかしこも痛かった。  子宮が痛い、膣口が痛い、腹も痛い、肛門も痛い、乳首も痛い、男性器が痛い、口も痛い、喉も痛い。  痛くて痛くて、逆に意識は冴えた。 「は……はは、ひっでぇ、や……」  でも、全部出せた。  便器の底でたぷりと揺れる吐しゃ物を見つめる。普段より吐いた量は多く、もう胃は空っぽだ。  命じられるがまま、どんなことでもやった。よがれと言われたから嬌声を上げた。美味いと言えと言われたからしゃぶりながら美味いと言った。懇願しろと言われたから、自ら口をぐぽっと押し開き、挿入してほしいと腰をくねらせた──最後はもう、自分が、自分じゃないみたいだった。  けれども、全てはマティアスから受け取る情報のためだ。彼は性格が最低だが、そういった嘘は言わないだろうと踏んだのだ。それがたとえ些細なものであったとしても、リョウヤにとっては神が落とした希望の雫だ。  神なんて、信じちゃいないけど。 「なんでも、ない……こんなの、平気、だ」  だって、初めて顔を合わせた時からわかっていた。マティアスは、アレクシスとはまた違う意味でおぞましい男だと。  そもそも貴族階級の男性が、リョウヤのような劣等種と面と向かって話そうとすること自体がおかしいのだ。マティアスは終始、リョウヤのことを坊やとしか呼ばなかった。  リョウヤが無遠慮に呼び捨てても、気分を害した様子もなかった。  きっと、マティアスの目に映っていたリョウヤは、珍しい色をした魚か何かなのだろう。狭い水槽で生きていることを知らずに、その先に広がる大海を目指して丸いだけの世界をぐるぐると泳ぐ魚だ。  時折水槽の上から軽く指でつつかれて、腹が破れて、腸がちょっと飛び出て苦しむ。そしてふらふらと泳ぐリョウヤを見ながら、つついた奴らはまたやろうと嗤う。  そう、今日されたことはあいつらにとってはただの遊びで、興味本位だ。それを身を持って体験した。ただそれだけのことだ。だから大したことじゃない、大丈夫──……。 「……ッ、ぐ」  両手で口を強く押さえ、嘔吐感を何度も何度も飲み込んでやり過ごす。指の震えが止まらない。酷く寒かった。熱が出ているのか、それともこの狭い空間に1人きりだからか。  ゆっくりと顔を上げれば、便器の蓋の裏に自分の顔がぼうっと映りこんでいる。横髪にひっついたとろけた食い物の残骸と、首にしっかりついた赤い手形。アレクシスは手が大きく、リョウヤの細い首など片手で簡単に一周できる。  振りほどけないくらい、強い力だった。   『なぜおまえは、自分を、曲げない。なぜだ、これだけのことをされても、なぜ……おまえは』  そう呟いたアレクシスは、普段の苛烈さが嘘のように呆けていた。いつもの彼よりもずっとずっと、幼く見えるほどに。  だからこそ、ああ、と、この時初めて理解したのだ。彼に対して抱いていた、バランスの悪さの正体に。   そう、アレクシスは子どもなのだ。  しかも厄介なことに、大人のふりをしている子どもだ。心が未熟なまま無理に自分を曲げている。本人に、その自覚があるかどうかは別として。  まるで心だけが、子どもの頃に置き去りにされているみたいだと思った。  置いてけぼりにされた子どもは、ずっと迷子のままだ。だからこそ、今だけは目を逸らしてはいけないと強く思ったのだ。この幼すぎる大人から。  狭まりつつある視界で、家柄や権威に覆い隠されていない、ありのままのアレクシスを探しだそうとした。忌人でも稀人でもなんでもない、ただのサカクルガワリョウヤとして。  手を伸ばしたのも、無意識だった。 『──おまえはなんだ。おまえは、一体……』  けれども探し出す前に疲れ果て、気を失ってしまった。まだ本当のアレクシスは見つけられず終いだ。このまま探し続ければ、いつかは会えるだろうか──いや、考えるな。見つけようとしたところで、どうにもならないのだから。  するりと首を撫でると、ズキズキと痛んだ。赤い痣は、そのうち青くなるだろう。本当に、骨ごと折られてしまうかと思った。  素直に泣いて首を垂れれば、アレクシスの怒りはもっと早くに落ち着いていたかもしれない。あんな風に、2人がかりでめちゃくちゃにされることもなかった。  アレクシスが望む通り気持ちなんて二の次で、泣き喚いて許しを乞いさえすれば、彼との関係は今よりもずっと楽なものになるだろう。  けれども、それだけはできない。  絶対に、したくなかった。

ともだちにシェアしよう!