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31.ひとりぼっち(3)

 誰が、俺を愛してくれたんだっけ。  俺の名前はなんだっけ。  俺は……俺は、そうだ、リョウヤだ。良夜。坂来留川、良夜。サカクルガワリョウヤ。チューシューの、メーゲツから来た名前で、良い夜って意味で。四季がよっつあって、綺麗で、暗闇を照らして導いて、月の反対に、俺の本当の世界があって、オトウサマとオカアサマが心配してくれてて、待っててくれて……俺と、俺と──誰を?  あの人って、誰だ? 名前も出てこない。なんでだろう、さっきまで考えていた気がするんだけど。ええっと……俺は誰の良夜なんだっけ。リョウヤは……そうだ俺だ、良夜だ。あれ? でも、それじゃあ。  良夜って、誰だ? 「……、ぐ」  耳の奥から、キィンと耳鳴りが反響する。  これはマズい。マズい時の音だ。頭を振りかぶる。  わからない。どうして俺は今こんなところにいるんだろう。橋の下にいたはずだ。この手足についている重い枷はなんだ。見たことない。いつ、嵌められた?  どうしてこんなに体が痛いんだ。子宮が痛い、膣口が痛い、腹もいたい、肛門も痛い、乳首も痛い、男性器が痛い、口も痛い、喉もいたい。イタイいたい、全部痛い……嫌だ。  ガシャンと手を振りかぶってタイルの床に叩きつける。何度も何度も、何度も。それでも枷は外れない。硬すぎる。息が切れて、息ができない。苦しい。  世界が暗い。前にも、こんなところに閉じ込められた気がする。路上生活をしていた頃とは違って1日3食用意される日々だったので、慣れていたはずの空腹はかなり染みた。ずっとぐぅぐぅ鳴っていてコケを食べた。喉が渇いて、這いずり壁から滴る水滴を啜った。美味しかった。神の恵み、みたいに。  自分だったから耐えられた、他の人だったら無理だった。他の人って……誰だ? だって誰も来てくれなくて、指の先も闇に覆われて見えなくて。自分が今どこにいるのかさえ、わからなくなってきて。思い出したくないことまで思い出して、体が冷たくなって。  毛布を断ったことを、死ぬほど後悔したんだった。 「あ、ぁ、そっか……そうだった……な」  俺、地下牢に閉じ込められたんだった。  キャシーに悪いことしちゃったな。毛布断ったり、突き飛ばしたり。気にしてなきゃいいけど。気分屋で口が悪くて気難しい奥様だな、なんて思って引いてくれたらそれでいい。  深く近づかれるのは困る。アレクシスは許さないだろうし、なにより俺が、縋りそうになってしまうから。  一度でも縋ってしまったら、俺は。 「あー……く、そ」  膝に顔をぎゅっと押しこめ、息を殺す。どう足掻いても震えが止まらない体を、石ころのように丸めた。こうして自分で自分の体を抱きしめていれば、これ以上冷たくならないことを知っていた。  うん、大丈夫だ、すぐに元気になれる。臭いものをしゃぶらされるのも、青臭い体液を飲まされるのも別に初めてじゃないんだ。小さかった頃に既に経験済みだ。噛み千切ろうとしてやったことだってある。ざまあみろだ。半分しか千切れなくて、捕まってタコ殴りにされて生爪剥がされたけど。  アレクシスに捕らえられるまで処女膜をぶちぬかれなかったこと自体が奇跡だったのだ。ヤラれそうになって、相手の性欲を削ぐために垂れ流してやったり色々した。惨めだったけど、突っ込まれるほうが惨めだ。だからこんな扱い慣れてる、どうってことない。だって擦り続けた体はもうあったかい。心まで、ぽっかぽかだ──ほら。  寒い。   「だれ、か」  寒い。寒いよ。こんなにも寒いのに、傍には誰もいなくて。 「だれか……」  息まで冷たくて凍えてしまいそうで……違う! しっかりしろ。頭を膝に打ち付ける。震える唇からは、弱々しい言葉ばかりが出てくる。いつから自分はこんなに弱くなったのか。情けない。貧弱だ。 「ちが、う、俺は、傷付かない……きずついて、なんかい……こんなの、なんでもない大丈夫、だいじょうぶ、だいじょ、ぶ、……」  体を揺らしながら、ぶつぶつ、ぶつぶつぶつぶつ。リョウヤの声は、饐えた臭いを放つ便器に泥のように沈んでいく。掬い上げてくれる人は誰もいない。俺は、いつだってひとりぼっちだ。  だから、何度だって震える体を擦る。 「いたいの……とんでけ。だいじょ、ぶ、痛く、ない、大丈夫……」  寂しいのはもう、嫌だ。 「違う! おれは、おれは1人じゃない。俺には──あ、ぁあ……」  髪をかきむしる。そうだ──思い出した。とろりと崩れた笑みを零す。嬉しくて、嬉しかった。歯を出して笑った。ようやく思い出せた。   「にいちゃん、ナギサ、にいちゃん……!」  そうだ、俺にはナギサがいたんだった。よかった、本当によかった。  遠い記憶の中で笑うナギサの体温を手に乗せる。ナギサはいつだって心の中で生きている。だから、俺はいつだってナギサに愛されている。愛されてるから大丈夫なんだ。こうやって抱かれていれば、今日与えられた痛みも全てが深いところへ沈んでいく。沈む、沈む、ほら、もうここまで落ちた。手の届かないところまで落ちた。心の奥深く、底のさらに底まで沈んでいって……そのうち、闇に呑まれてもう見えなくなった。無くなった。  だからもう痛みはない。痛くもないし辛くもない。だって俺は。 「ナギサの良夜だ」  震えが治まる。顔を上げれば、低い天井にあるはずのない夜空が見えた。吐しゃ物に濡れた手を伸ばす。そこにあるのは月。俺はいつか、あの煌々と浮かぶ月を越えて、かつて暮らしていた二ホンに帰るんだ。そうして、お父さまとお母さまに笑顔で迎えてもらって、幸せになるんだ。  みんなが待ってる。 「月、きれいだなぁ……帰ろうね、にいちゃん」  ふらりと体が傾いた。崩れ落ちるように冷たい床に倒れ込む。  あの月がほしいと、こんなにも哭いているのに。かつて2人で見上げた月は遠く、遠く。  しゃんと、狂っていくのは世界か自分か。  熱で朦朧とする中、目を閉じる。月はもう見えない。あるのは冷たい床と吐しゃ物で汚れた便器。あれ、なんでここ、こんなに汚いんだろう、誰が俺の部屋で吐いたんだ? 毎朝メイドが掃除しているのに。  メイドの1人かな、ひとりで苦しむのは寂しいだろうから、できることなら、背中を……擦って、あげたいな。      誰か俺を見つけて。  ────────────────  ぐつぐつ。

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