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32.掴めない感情(1)

「旦那様、お疲れ様でございました」 「ああ」    今日も、一日が長かった。午前と午後と視察を2つ終わらせ、突然訪問してきた行商人との商談も終わった。普段であればそういった輩はすげなく追い返すのだが、執事が聞く価値ありと判断したので顔を合わせ、最終的な判断はアレクシスが行った。自身の洞察力の鋭さは自分が理解している。結果として、試験的に新たな事業として取り入れることにした。  肩の力を抜き、だらりと椅子の背もたれにもたれかかる。 「お行儀が悪うございますよ、坊ちゃん」 「坊ちゃんはやめろ。疲れてるんだ、見逃せクレマン」  クレマンに対して威厳を保つ必要もない。グラスを渡されたのでそれを受け取り、一口だけあおった。強いアルコホルの香が鼻から抜ける。心地よさを覚えていたその芳香さが、今は苦い。 「例の件についての調査結果が出ました。こちら、報告書です」 「……ああ」  手渡された数枚の紙の束を、しかと受け取る。 「端的に申し上げますと、奥様のお兄様は実在していたようです」  それは、少々意外な事実だった。 「狂言ではなかった、か」 「はい。10年以上前に南のノーズド地域の外れにある貧民街で、稀人の少年と2人で生活していたとの裏が取れました。その少年がお兄様でしょう」 「正確な年数は」 「わかりません」 「わからない? 兄弟そろってあの髪と目では目立つだろうに」 「人目を忍んで暮らしていたらしく、目撃者は少なかったようです」 「そうか……」  この世界にきたのは4歳の頃だと本人は言っていた。だが、10年以上前か。直ぐに兄とは死に別れたとも言っていたので、それを2~3年だと仮定すると、リョウヤは16歳から18歳くらいなのだろう。闇市の店主が言っていた通りだ。だがそうであるならば、たった1人の幼子が、忌人狩りに捕まるまでどうやって生きてきたのか。  群れに混じって生活していたという線は薄い気がする。 「その後の足取りは」 「追えませんでした。ただし奥様が忌人狩りに捕らえられたのは、ノーズドとは全く別の場所でした。一か所に留まることはせず、長らく様々な場所と転々としていたようです」 「10年以上も、そうやって隠れていられたというわけか……」 「はい」  ぱらりと読む。それにしても圧倒的に情報が少ない。しばらく、飲む気になれないグラスの中のウィスキーをくるくると回し、氷同士をぶつからせる。やることは多いはずなのに、手持ち無沙汰だ。  アレクシスのデスクの上の書類は、自分らしからぬほどに散らばっていた。手際よく仕事をこなすアレクシスにしてはかなり珍しい状況である。なにしろ、サインしなければならない書類まで高々と積み上がっているほどだ。  ここ数日のツケが回ってきていた。仕事の他に、気になることがありすぎて。 「……あれの、様子は?」 「あれ、とは?」 「クレマン、わかるだろう」 「入ってよろしいのですか?」 「なににだ」 「間に」  ぐっと、口が曲がる。口内に残っていたウィスキーが苦い。 「これ以上の口出しは無用だとおっしゃられましたので、ご自分で確認されるものだとばかり」  ……わかっているじゃないか。 「言え、許す」  我ながら傲慢な言い訳になってしまったとは思ったが、もはやこれは癖だ。 「奥様でしたらまだ自室でお休みになられております。今朝、手洗い場で倒れているのをメイドが見つけて直ぐにベッドにお運びいたしました」 「具合は」 「嘔吐しておりました」 「……」  事実をありのままま伝えられてさらに口の中が苦くなる。  あれからもう3日が経つ。リョウヤは高い熱を出してずっと臥せったままだ。上の口からも下の口からもあれだけ酒を飲ませられればそうなるだろう。  気を失ったリョウヤの汚れた体は、専属のメイドたちがせっせと洗った。しかもアレクシスが命ずる前に。  しっかりと治療も行われたらしい。これもまた、アレクシスが指示を出す前に。   「旦那様」 「……なんだ」 「間に入ってよろしいでしょうか」 「いちいち聞くな、嫌味な奴だな」 「では申し上げます。いささか乱暴に扱いすぎなのでは。皆、奥様を心配しておりました」 「なるほど、おまえが代表か」 「はい」 「……随分と、あれの肩を持つな」  

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