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32.掴めない感情(2)
正直、この数日間でいつ言われるのかと思っていた。なにしろアレクシスが館を歩くたびに、全員ではないが、使用人たちの非難めいた視線がちくちくと突き刺さってくるのだ。
原因は十中八九、リョウヤだろう。
だが解せない。何故、使用人たちがリョウヤのことをこれほどまでに心配するのか。
「どういう風の吹き回しだ? おまえも、あれの突飛な行動には随分と辟易していたじゃないか」
リョウヤは特別、行儀よくしていたわけではない。
食事中にテーブルクロスにソースは零すわ肘は立てるわで、マナーも何もあったものではなかった。肉に勢いよく被りついて、頬がぱんぱんになるほどに詰め込む姿は、飢えた乞食そのものだ。
使用人たちも関わりたくないとばかりに避けていたではないか、特別リョウヤを好いていたとは言い難い。
「メイドたちも率先して冷遇していただろうに……なんだ、あれがおまえらに媚びでも売っていたのか」
「そのようなことは一切ございません」
「なら何故。ますますわからん」
「確かに始めの頃は、みな奥様から距離を取っておりました。なにしろ初めて見る稀人でしたので。良い感情も抱いておりませんでした。卑しく、汚らわしい生き物だと。けれども、奥様は……」
一度言葉を区切ったクレマンを目で促す。じっと目を見られて居心地が悪くなった。
「なんだ、言え」
「とても、お優しい方ですので」
「……優しい?」
隣に立つ老紳士をまじまじと見あげる。伸びた背筋やオールバックにされた白髪と、口ひげを生やした彫りの深い顔立ちは一見すると優しそうに見えるが、その実この男の本質は厳しい。
「あれが?」
「はい」
そんなクレマンが、こうもはっきりと断言してくるとは。
アレクシスのやること全てに是を唱える男ではないものの、珍しい。
「……優しいという単語ほど、あれに似合わないものはない」
「そうでしょうか」
「おまえらだって、散々あれには手を焼かされて来たじゃないか。見ろ、あいつはいまだに癒しだなんだのと言って馬にちょっかいをかけ、厩舎を藁と泥だらけにする。一言もなく狭い場所で寝こけて行方をくらます」
この間はクローゼットの中で丸まっていたと聞く。本当に行動の全てがとんでもない。野生児だ。
「奴隷の分際で、メイドを手伝う素振りすら見せん。しかも好き勝手に部屋を改装した挙句、花瓶をカチ割ったんだぞ。あれの命をいくつ差し出させても足らんほどの価値だというのに、全く悪びれる様子もない」
何様のつもりだと、リョウヤに対する鬱憤がどんどんと溢れ出てくる。一度区切るためにウィスキーをあおった。冷たいアルコホルが喉を通っていっても、胸の奥にある重苦しさは残ったままだ。
これほどまでに、並々ならぬ負の感情を抱いたのはあれが初めてだ。
「あれは僕の子を生むという大役に胡坐をかきすぎだ。反抗はする、口も悪い、睨みつけてくる、ガサツ……あれほど、貞淑な妻に程遠い存在はない」
アレクシスが完璧だと認めたルディアナの足元にも及ばない。比べることすらもおこがましい。
「旦那様は、誤解なさっています」
「何が誤解だ。あれは……あれは、僕を見て笑いもしない」
アレクシスを淡々と一瞥するだけで、愛想笑いの1つもだ。何もしていない時でさえ眦が鋭く見える。いつも顎を引いているので、横顔だってキツめだ。
少しはニコリとすればいいのに。そうすれば少しは可愛く……可愛い?
自分で自分自身に驚いた。今、何を考えた。
「奥様の優しさが見えないのは、どうしてだと思いますか?」
身の内で吹き荒れた一瞬の動揺を噛み殺し、クレマンにじとりとした視線を送る。もはや意地だった。
「知るか」
「理由は、とても簡単ですよ」
「嫌味か? あいつの優しさとやらに気付かない僕が悪いとでも?」
「そのようなことは申しておりませんが」
「……いいからもったいぶっていないでさっさと話せ。僕は気が短い」
それは存じておりますが、としれっと返された。幼少期は行き過ぎた行動をとるとこのような諭され方をした。ただし小さい頃ならまだしも、跡目を継いでからこうした言い回しをされるのは初めてだった。
それほど、目に余るということなのだろう。
確かに……今回ばかりはやり過ぎたと、自分でも思ってはいた。
「奥様が見せようとしていないからです」
「見せようと、しない?」
それは、あまりにも予想外の言葉だった。
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