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32.掴めない感情(3)

「昨晩、新人のメイドが白状しました。もうこれ以上黙っていることはできないと。以前、奥様のお部屋のカーテンを開けに行った際、壁に取り付けられていた花瓶を誤って落として割ってしまったようです」 「花瓶……?」 「はい。フィリップ・モンテがデザインした花器です」 「それは……」  言葉が続かない。それはまさしく、つい先ほどアレクシスが話題に出した花器のことじゃないか。 「割った瞬間を奥様に見られてしまったようです。出稼ぎに出てきたメイドです。とても賠償できる額ではなかったため、旦那様に知られるのが恐ろしくてパニックになり逃げだしてしまったと……それは、奥様がお部屋の改装を始める日の、ちょうど朝の出来事だったようです」 「……」 「旦那様。奥様は割れた花瓶について、なんとおっしゃっておりましたか?」 『あれ廊下に置いた時ちょっとガチャンっていっちゃったんだよね。割れてたらごめん。弁償はどう考えても無理だから体で払うよ。今晩はあんたのお好きな体位でズコバコどーぞ』  一言一句覚えていたのは、それほど衝撃的だったからだ。 「つまり、あれが敢えて自分のせいにしたとでも?」 「無造作に家具を廊下に置いていたのも、わざなのではないでしょうか。自分がやったのだと思わせるために」 「……意味が、わからない。一体何が目的で」 「本当に、わかりませんか?」  クレマンが毎朝時間をかけてセットしている口ひげが、柔らかく下に伸びた。 「旦那様は、奥様のそのようなところを、見たことがあるのではありませんか?」  ぱっと頭に浮かんだのは、あの雨の日の出来事だ。  リョウヤはバートンに殴られていた忌人を、なんの迷いもなく助けに行った。逆に自分が殴打され、誰にも庇ってもらえなくとも誰も責めなかった。しゃしゃり出ていった自分の責任だときっぱり明言していた。  確か、罰を与えた夜も例の花瓶を話題に出したな。リョウヤは珍しく、どこか焦っているようにもみえたが──はたと、思い出す。そういえばあの時。 「その花瓶を割ったメイドはもしかして……キャシーとかいう名前か?」  クレマンが微かに目を見張ったことで、事実を悟る。 「御存じでしたか」 「……いや」  苦虫が、喉の奥まで這いずってくるような気分になった。

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