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32.掴めない感情(4)

「キャシーが言うには、特別奥様のお世話をしていたわけではなかったそうです。むしろ他のメイドと同様に冷たく接していたと……奥様にはこう言われたそうです。見ていられなかったから、と。だからこそ申し訳が立たないと終始泣いておりました」  クレマンはアレクシスに用事を言い付けられていたためそ、あの出来事は人伝にしか知らない。動揺したキャシーがグラスを落とした瞬間、リョウヤに強く呼びかけられたが、それはきっと、アレクシスの意識を自分に向かせるためだろう。  不穏な空気を感じ取り、怯えていたわけではなかったのか。そうか。 「処罰はどういたしますか」 「おまえに任せる……元々あれは母のものだ、壊れようがどうでもいい。オークションにかけるつもりも美術館に寄贈するつもりもなかった。万展にもな。あれをいたぶる道具にしただけだ」 「承知いたしました」  同時に、納得もした。リョウヤがここに連れてこられるまで、群れることなく1人で生きてきたのだろうと自然と断言してしまっていた理由も。  国境沿いの貧民街に住む忌人たちは、目立たないよう静かに暮らしている。そんな中、希少種である稀人がいると噂になれば、群れ全体が忌人狩りの連中に目を付けられるだろう。  リョウヤが、他者を危険な目に合わせる道を選ぶだろうかと、無意識のうちに考えていた。  そう、アレクシスも気付いていたのだ。自覚していなかっただけで。 「……わかり辛い方ですね」  誰がとは、言われなくともわかる。 「私は、奥様のなさる行動全てに、何かしらの理由があるのではと思えてなりません」  だがクレマンのように素直に認めるのは癪で、ふいと顔を背ける。 「それは考えすぎだろう」 「旦那様は、奥様をどうなさりたいのですか」 「……」  眉根が寄る。 「奥様に何をお望みなのですか」 「なにを?」 「はい。随分と、気になさっていらっしゃるように見えましたが」 「馬鹿を言え。気にしてなどいない」 「そうでしょうか、昨晩も一昨日の夜も、奥様のお部屋の前をうろうろしていたではありませんか」 「……」  メイドが居なくなったのを見計らって少し様子を見ようとした。しかし、部屋の中には入れなかった。  ドアノブに手をかけられなかった理由が、わからない。故にクレマンの質問には答えようがない。なにしろ当のアレクシスでさえ、リョウヤに対する予測不能な感情の揺れを、把握しかねているのだから。  リョウヤを見ていると胸がざわつく。  確かに、強い精神の持ち主であるリョウヤに対して、畏れのようなものは一瞬、抱いた。それは認める。だが自身の胸の奥には、畏れとは違う何かが潜んでいるような気がしてならない。  それは形が不鮮明で、掴もうとしても掴めないものだ。いや、掴んでしまったら全てが終わるような気がする。それも、良くない方向で。だから、目を背けていたいと願っているのだ。 「なぜ、僕は……あいつを泣かせたいんだ……」  感情のままに、ぽつりと呟く。  ふっと、隣でクレマンが嬉しそうに笑んだ気配。 「──御心のままに、接してあげてください」  顔を上げる。やはりクレマンは、分かりやす過ぎるほど穏やかな顔をしていた。 「心の、まま……」 「はい。そうすれば、何かお分かりになるかもしれませんよ。坊ちゃん」 「……だから坊ちゃんはやめろ」  何が心のまま、だ。心のままに接したからこそ、今こうなっているというのに。 「今の私がお話できるのは、ここまでです」  だがクレマンは答えを与えてはくれなかった。  突き放されたようで、考えろと促されている。なくなったグラスも、そっと取り上げられた。 「……おい」 「飲み過ぎです、そろそろお控えください。明日もきっと、奥様は早く起床されるでしょうから」      * * *    次の日の朝早く。目が覚めたアレクシスがダイニングルームへと向かえば、いつも通り定位置に座っているリョウヤがいた。  前日まで寝込んでいたことが嘘のように、けろっとした顔をして。  そして、リョウヤは相変わらずの質素な朝食を、「これうまいね」なんて言いながらもきゅもきゅと頬張り。  扉の前で立ち尽くすアレクシスに、リスのように膨らんだ顔を向けて、平然と言った。 「あんた今起きたの? 相変わらずだね、おそようアレク」  ───────────────  アレクシスは素人童貞です。  

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