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35.和久寺 秋一(4)

「リョウヤさんは、一体どういう経緯でこちらの世界に来たんですか?」 「実は俺……」  呆然としたまま、リョウヤはシュウイチに全てを離した。  4歳の頃、兄と共に山の上にあるジンジャに向かう途中で、誤って崖から転落してしまいこの世界に落ちてきたこと。幼かったため、元の世界の思い出はあまりないこと。  兄は日本に帰れぬまま死んでしまったので、短い間しか一緒にいられなかったこと。  兄亡き後は、ずっと一人で生きてきたこと。 「そうだったんですか。大変、でしたね」 「そんなことねーよ。にいちゃんはここにいるから。ずっと、俺の中に」  とん、と胸を叩く。  シュウイチが、そうですか、と静かに目を伏せた。 「でも、少し納得しました。だからリョウヤさんの日本語のイントネーションも、少しこっち寄りな部分があるんですね」 「やっぱり、そっか……」 「でも、本当にちょっとですよ? むしろ4歳でよくそこまで覚えてましたね。他に話せる方もいなかったんでしょう?」 「うん、忘れちゃいけないと思って毎日練習してたんだ。ひとりで」  記憶の中にいる兄と、会話をしながら。 「凄いですね、お一人で……あの、僕は千葉出身なんですが、リョウヤさんは東北のどこにお住まいだったんですか?」 「実は、それもうろ覚えでさ。結構田舎の方だったと思うんだけど……あっでも、トーホクのジンジャで買ったオマモリは持ってるよ。ナギサにいちゃんの形見なんだ」 「今、手元にあるんですか?」 「ううん、ない。忌人狩りにあった時、逃げてる最中に落っことしちゃって」    本当はギリギリで預かってもらったのだが、傍にアレクシスが控えているのでそこは濁しておく。  あのオマモリだけは、奪われたくない。  リョウヤの命の次に、いやそれ以上に大切なものだ。 「ちなみに、その神社の名前とかって覚えてますか……?」 「えーっと、確か……ツキ、ツキなんとかって言ってたような」  懸命に記憶を辿るが、それ以上は遡れなかった。 「月という字が付く神社ですか。結構多そうですけどね。うーん、ネットさえあれば一発で検索できそうなんだけどなぁ」 「ネットって?」 「いろいろなことを調べられる、辞書のようなものです」 「辞書……」  それがあれば、あちらの世界への行き方も、わかるのだろうか。 「あと僕、地理が苦手でして。ナビを使っても迷うくらいの方向オンチなんですよ。すみません、知識不足で」 「ううん、俺が覚えてねーのが悪いんだよ。でも、80年かぁ。そっか……そうだったんだ……」  勝手に膨れ上がっていた期待が一気に萎んでしまい、俯く。 「──あのっ、どうか気を落とさないでください。いわゆる異世界転生……いえ、転移ですから、漫画やアニメのようにうまくはいきませんよ。逆に、同じ時代の人間がピンポイントで揃う方が不自然です」  言われた内容の8割は意味がわからなかったが、顔を上げると、シュウイチはとても穏やかな顔をしていた。  動揺を隠せないでいるリョウヤを、労わってくれているような眼差しだ。 「でもさ」 「リョウヤさん、聞いてください。実はここだけの話、もしかしたら僕は……自分が違う世界から来たと信じている、頭のおかしな人間なんじゃないかって思い込んでいた時期があったんです」  シュウイチの瞳が、一瞬だけ揺れた。 「なにしろ、見た目も言語も生活様式も違う世界に突然来てしまいましたからね。毎日毎日、孤独と戦う日々でした。読んでいた小説も、追いかけていたドラマも、出会ってきた人たちも全て僕の妄想で、僕が歩んできた人生は夢だったんじゃないかって、ずっと苦しくて……」 「シュウイチ、さん」 「この腕時計だけが、あちらの世界の記憶を確かなものにしてくれる唯一の希望でした」  シュウイチが、手首に嵌めている時計を見た。  この世界には、身に着けられる時計といったら懐中時計しかない。  ナギサが言うには、顔も覚えていないリョウヤたちの父も腕時計を嵌めていたらしい。 「ですから、今こうしてリョウヤさんとお話しできてとっても嬉しいんです。今日はここに来て下さって、本当にありがとうございました」  テーブルの上できゅっと握りしめていた手に、そっと手を重ねられた。  視界の隅でアレクシスに睨みつけられたような気もしたが、重ねられたシュウイチの手の方が大事だった。 「それに……僕のいた時代のほうがいい、なんてことはありませんから。さっきも言いましたがきな臭いところも沢山ありましたし、もしかしたら……ゾンビが蔓延して世界的なパンデミックに陥ってるかも」  わからない単語もあったが、冗談っぽく微笑んでくれたシュウイチは、本当にリョウヤのことを憂いてくれていた。 「……時代が違っても、お互いに人であることに変わりはありませんよ」  その一言はじんと、響いた。  きっとシュウイチだって、全く違う時代から来たリョウヤと話が合わなくて、ガッカリしているだろうに、そんな素振りは一切見せない。  ううん、とリョウヤは首を振った。  リョウヤは、自分には人を見る目があると自負している。  そんな自分のカンが言っているのだ。このシュウイチという人は、とても優しい人だと。

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