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第4話

 翌日の朝。  地平線から陽が昇って明るくなり始めると、早速四名は馬車でソーラスを出発した。  幸いにも雪は降っていなかったが、重苦しい曇り空だった。  そして今、コスティ、クルキ、イングヴァルの三人は幌馬車の中で話し合いを始めるところだった。  ――これから一緒にやってくってんじゃ、手札の見せ合いをしなきゃいけねえだろ。  そう言ってアカートは御者の隣で指示を出す役を買って出た。無論イングヴァルと一緒にいたくないが故の方便なのだが、現地に着いてからまごつくよりは今話し合っておいたほうがいいのは確かである。 「じゃあ、僕から言うけど」  そう言って紺色のキルトの上着に、フードのついた分厚い外套姿のイングヴァルが口火を切った。 「僕は氷や冷気を操って戦っている」  言ってイングヴァルは革手袋を嵌めた手のひらを上に向けた。すると、白い靄のような冷気が集まって氷の塊が出来上がる。 「大きな氷を作ってぶつけたり、魔物を凍らせて動きを止めたり。それで凍らせた魔物を砕いて倒しているね。一応剣も持っている。自分で言うのも変だけど、僕一人で悪魔を倒せるくらいの力はある」 「悪魔を」 「一人で」  最後にちょっとおまけ感覚で付け足された情報が受け止められない、と二人は呆然とした。  魔物が沢山人を食べれば悪魔に成る。  悪魔とは例えて言うなら嵐のような災害である。  人を害するために生まれた装置。  全能神の善性を肯定するためだけに置かれた絶対悪。  角を生やした山羊の頭、真っ赤な目。右半分の女の体、左半分の男の体、下半身は獣の形をしていて、蹄はあるが踵がない。爪のある蝙蝠のような真っ黒な翼に、矢印のように鋭く尖った尾。いくつもの生き物が組み合わさった醜悪な形で悪魔は現れる。  魔物のうちは獣も食らうが、悪魔は人だけを殺す。  ここ数年で魔物、そして魔物から成長して成る悪魔の数が急激に増えており、二人の旅の途中でも悪魔に襲われた村の近くを通ったことがある。  そのときは聖騎士団が悪魔ごと森を焼き払って退治し、出征した兵二百人の半分が死亡したと聞いた。  そんなでたらめな力を持つ悪魔を、たった一人で倒せると言ったのか。  こんな男が院長として祓魔院に釘付けになっているのは痛手だろう。いつでも自由に動けたほうがいい。 「まあ、ちょっと力の相性がいいだけだよ。僕の体は北境の永久氷河と繋がっていて、そこから常に魔力が流れ込んでいるんだ」 「永久氷河って、世界の終末戦争にむけて古の神々が眠っているという、あの永久氷河ですか?」  クルキが問うとイングヴァルは頷いた。  北境とはコスティの出身であるスオミ、そしてここスヴェリアの二つの国を指して言う言葉だが、スオミとスヴェリアの境界を分かつのが永久氷河である。  北境最大の氷河であり、決して溶けることがない。その有様は永久と無限を体現すると氷河の近隣地域では信仰の対象にもなっている。 「つ、つまり魔力が無限ということで……?」  クルキが恐る恐る尋ねるとイングヴァルは頷いた。 「多分、ね。今まで魔力切れというのは起こしたことがない。本当に無限かは証明しようがないけど、人間に使いこなせる魔力の量、というなら桁が違うだろうね」  でたらめな力にはでたらめな力をぶつけるのが何よりの解決、とでも言わんばかりのイングヴァルの力の源に、クルキの顔は青ざめていた。  魔法を使えない自分にはよく理解できなかったが、とにかくイングヴァルは強いということはわかった。 「教会の中では言わないでくれよ。異教の神から力をもらってるなんて知れたら僕が異端審問送りになってしまう」  慌ててイングヴァルは二人に口止めした。  そんな境遇でよくも教会内をうろついているものだ。思えばアカートの同行をすぐに認めたりしていて、多少のことでは動じない肝の据わり方をしているのかもしれない。 「わ、わかった。黙ってます」 「ええ、黙ってますから安心してください」  自分たちがそう返すと、イングヴァルは安堵の溜息をついた。 「……では、次は私が」  言って今度はクルキが軽く挙手をして名乗り出た。 「私は身体強化、属性付与や強化の魔法をこの籠手や脛当にかけて、魔物を殴ったり蹴ったりしています」 「ん、うん……?」  イングヴァルはクルキの言葉の前半は普通に聞いていたものの、後半で急に雑になった説明に戸惑う様子を見せていた。 「もっと詳しく言えよ、院長さんが困ってんじゃねえか」  思わずクルキに言うと、クルキは焦った顔をする。 「く、詳しくって言ったって、殴る蹴るの言葉以外にどうやって殴る蹴るを説明したらいいんだ……!」 「それは知らねえけど、もっと言い方ってのがあるだろ」 「いや、大丈夫だ。そこは十分にわかっているから」  イングヴァルはそう言って言葉を区切った。 「それにしても、身体強化はわかるけど属性付与、強化というのは……? 僕も魔法は門外漢だけど、自分以外の物に魔法をかけるのは難しいと聞いた」 「ところが私は逆なんです。他のものに魔法をかけるほうが簡単で、普通の魔法が難しい」  言って、クルキは何かを探すように当たりを見渡した。  そして麻袋に入っている林檎を取り出し、今度は懐からペンと小さいインク瓶を取り出した。 「私がこの林檎に"鉄のように硬い"と書きます」  クルキは言いながらペンにインクをつけ、"鉄のように硬い"と林檎に書いた。  すると文字が赤く光り、その光は林檎を包んで消え去った。 「これでこの林檎は硬くなりました。試しにナイフを立ててみて下さい」  クルキはイングヴァルに林檎を手渡す。 「そんなに簡単に……?」  イングヴァルは訝しがりながらも腰に提げていたナイフを抜き、林檎を刺そうとする。かきん、と鉄を打ったような音が鳴った。 「ほ、本当だ。刃が入らない……。ただ文字を書いただけなのに……」  イングヴァルは目を丸くして驚いている。 「私は色々あって文字を操れる体質なんです。だから属性付与や強化は対象に書き込むことで簡単にできます。すみません、もう一度林檎を」  言われてイングヴァルは林檎を渡した。  林檎を受け取ったクルキは、イングヴァルに林檎に書いた文字を見せる。  その文字に籠手の指先で触れると、文字が動いて籠手に吸い込まれていった。 「これで林檎は元通りです」  クルキは自分の言葉を証明するように、林檎を一口かじってみせた。 「すごいな……。これは色々応用ができそうだ。羊皮紙に書いた文字を何の痕跡もなく消せるってことだろう?」 「まあ、できますが……?」  妙に具体的な例を出されてクルキは戸惑う。 「文書の改竄が簡単にできるなぁ」 「そ、そして、コスティの矢の鏃にも同じ属性付与と強化をかけています」  そう言ってクルキは自分の力の悪用から話題を逸らした。 「すごいね。うちにいるナエマの聖別も大したものだけど、あれは魔物や悪魔にしか効かないからなぁ。でも、この力は対象も用途も自由なわけだ。アカートが紹介したいって言ってた訳がわかったよ」  その言葉に思わず顔が強張った。  自分はイングヴァルやクルキのように特別な力も持っていない。ただ弓が使えるだけの人間だ。 「や、矢に強化をかけていると言っても、当たらなければ意味はないので……! 動いている的にちゃんと当てられるコスティの腕があってこそです」  クルキはコスティを庇うようにそう言った。 「うん。わかっているよ。うちに一番必要なのはコスティ君のような人間だ」 「え、俺……?」  コスティは突然名指しされて戸惑った。 「祓魔院の人間は、僕含めてみんな人間離れした力を持っていてね。そんな人間だけでまとまっていると、段々と感覚がずれていってしまう。でも、世の中には何の力も持たない普通の人のほうが圧倒的に多いんだ。そのことを忘れてはいけない。僕たちはそういう人たちを守るためにいるんだよ。祓魔院にいると、どうしても教会内部の人間が敵に見えてしまうからね。だから、コスティ君」  そう言ってイングヴァルの青い瞳がコスティの目を見据えた。 「君の視点は、僕らにとって大事なものだ。大きな力は大きな災いを呼ぶこともある。僕もこの力を得るのに大きな代償を支払った。力を持たないからと恥じることはない。それでいいんだ。そのことを覚えていてほしい」 「……は、はい……」  真摯なイングヴァルの言葉になんだか恥ずかしくてそう返すしかできなかった。自分が大事と言われることがあるなんて。  しかし、自分はもっと強くなれるようにと大きな力を望んでいる。そう思うと自信を持った返事をするのも憚られるものだった。  それから馬車を走らせ続け、北にある森に辿り着く。  曇り空で太陽は見えないが時間は昼頃だろう。  山の麓に広がる森で、背の高い針葉樹が我々が森の支配者だとでも言わんばかりに並び立っている。  ここからは街道を外れるため馬車が通れず、荷物を自分たちで運ぶことになった。  第一に拠点の確保。それから魔物の探索、退治とイングヴァルは指示を出した。水の補給を考えると拠点は水源の近くがいい。丁度この近くに湖がある。まずは湖を目指した。  山の近くで高低差があり、雪が積もっている中を進んでいくのは骨が折れた。  その途中、いくつもの獣の死体を見つけた。無残に食いちぎられて腐っているそれは魔物の仕業であると示している。  魔物は物を腐らせる瘴気を漂わせながら徘徊し、獲物をその牙にかけるのである。  魔物が近くまで迫っている。気を引き締めながら歩いた。  一時間ほどで湖に到着した。  湖の近くに地面が平坦な場所を見つけ、そこに幕舎を立てることにする。  イングヴァルはアカートとクルキに幕舎を組み立てるよう指示すると、荷物を漁って白い結び目のある縄を取り出した。金糸でも織り込んであるのか、金色にきらきらと輝いている。 「なんですか、それ」 「聖索だよ。これで魔物や悪魔の動きを封じたり、周りに廻らせて結界にしたりする。これを近くの木に結ぶんだ。魔物が近寄れないようにね」  コスティはイングヴァルと共に、拠点を囲うように木に聖索を巻いていった。 「ん……?」  その最中、森の奥で何かが動いたような気がして手を止めた。 「どうした?」  コスティが森の奥を凝視しているのを見てイングヴァルは声をかける。 「森の奥に何かいたような……」 「それは確かかい? 瘴気の臭いはしなかったが」 「こっちが風上だから瘴気は流されてると思います」 「わかった。行ってみよう。準備してくれ。幸いにもクルキ君には仕事がある」  イングヴァルはそう言うと幕舎を組み立てている二人に近寄った。  イングヴァルは手短に状況を説明し、自身とコスティの二人で探索に出ると言った。  それを聞きながらコスティは弓矢の準備をする。弦の調子を確かめ、矢の本数を頭に入れた。イングヴァルも剣帯を腰に巻いて剣を提げる。 「コスティ君、そういえば君は瘴気の対策はどうしていたんだい?」  そう問われてコスティは服の上から首から提げた石に手を当てた。 「クルキにお守りをもらったんで、それで」  イングヴァルの言う通り、魔物は瘴気を纏っている。魔物に近付くということは瘴気を吸い込む危険がある。その対策をしなければ魔物退治はできない。  コスティはずっとお守りにしていた真紅の石に、クルキから瘴気よけの属性付与をしてもらっていた。おかげで息苦しくなる覆面などをしなくとも魔物に近付ける。 「万全だね。じゃあ行こう」  そう言われて、コスティは先程何かが見えた場所へと向かった。 「これって……」  二人は呆然と立ち尽くす。  その前には巨大な蟻の体に獅子の頭がついた、奇怪な魔物の死体が転がっていた。  腰から下が引きちぎられており、腐った臭いを放つ体液が零れて地面にしみ込んでいる。 「共食いか。ここに魔物が現れて一日しか経っていないのに……。数が多すぎたんだ。ここらにいる獣を食いつくしたから共食いをするしかない」  言ってイングヴァルは珍しく顔を顰めた。 「魔物同士が食い合うなら、数が減っていいんじゃないですか?」 「共食いをした魔物は食べただけ力を蓄えていくんだ。最近の報告では共食いした魔物が悪魔に転化した例がある。よくない状況だ。早く魔物を片付けないと手遅れになるぞ」  コスティの疑問にイングヴァルは答えた。 「でも院長さんは悪魔と一人で戦えるって……」 「後ろを気にしなければの話だ。君たちを巻き添えにしないように気を付けながらでは、どうかな……。前に悪魔と戦ったときは辺り一面が氷漬けになってしまった」  その言葉に息を呑んだ。  悪魔と直接対峙したことのないコスティにとっては想像しかできないが、そこまでしないと殺せない相手なのか。 「これから……」  これからどうする、と言いかけた瞬間、ぞくりと寒気がして辺りを見回す。  魔物の気配だ。死んだ魔物の臭いで近付いてくる魔物の瘴気の臭いに気付けなかったのだ。 「あっちだ……!」  木の隙間、東に魔物の姿が見えた。  人ほどの大きさもある二本の角を生やした兎。長い手足で雪を物ともせずにこちらに向かってくる。その巨躯による跳躍は馬が駆けるよりも速い。  考えている時間などなかった。  すぐにでも動かないと魔物の牙がこちらに届く。魔物のほうが圧倒的に速い。人の足では逃げ切れない。  手が自然に矢筒に伸びて矢を手に取った。  右手で弓を構え、矢を番えて左手で弦を引き絞る。  狙うのは額。空中にいる瞬間。  どんな速度で移動していたとしても空中では動きを変えられない。  こちらを翻弄するようにジグザグと跳ぶ角兎の動きを先読みする。 「っ……!」  クルキはこの場にいない。矢の当たる心配はない。  それでも手が震える。体が芯から冷えていく。  その間にも大きな跳躍で角兎は距離を詰める。あと三回の跳躍でこちらに届く。  迷えば死ぬ――!  左手が矢を離した。  放たれた矢は空気を切り裂くように飛び、角兎の額に吸い込まれるように刺さった。  角兎は断末魔を上げたかと思うと、その体が膨れ上がって爆ぜた。その肉片が辺りに散らばる。 「……ば、爆発するんだ、矢が……」  隣にいるイングヴァルが驚きを隠せない、といった声で言う。  その声にはっと我に返る。いつのまにか止まっていた息が漏れた。 「できたじゃないか」  そう言ってイングヴァルはコスティの肩を叩いた。 「君ができなければ僕がやるつもりだったけど、心配はいらないみたいだね」  安堵と同時に心に澱が沈む。  一人ならばできるのだ。しかし、貪欲な自分は更に望んでしまう。  自分はクルキと共に戦いたい、いや、守ってやりたいと。  イングヴァルは角兎のいた場所に向けて歩き出した。 「矢は回収するだろう?」 「は、はい……」  返事をしてコスティも後に続く。 「それにしても頼りになるな。遠距離からの攻撃は弓の特権だ。それも一撃で魔物を倒すなんて。クルキ君は接近戦だし、僕も大雑把な攻撃しかできないから助かるよ」  あまりそういうことを言われるとむずがゆくなるからやめてほしかったが、褒められて悪い気がしないのも事実だ。  しかし、これ以上は調子に乗ってしまいそうな気がしたので話を逸らすことにした。 「そういえば、院長さんに一つ聞きたいんですけど」 「何だい?」 「アカートのおっさんのこと、どう思ってるんですか?」  突然振られた話題にイングヴァルは考える時間をくれ、と言うように沈黙を返した。 「……そうだな。悪い人間ではないのはわかっているよ。頼めば仕事も丁寧にやってくれる。そういう点では信頼している。ただ、何と言えばいいのかな。相性が悪い気はするね。でも、誰にも好かれるなんてことは無理だろう? 僕たちは仕事仲間であって、友達になろうっていうわけじゃないんだし」 「それは、そうなんですけど」  イングヴァルの言うことは正しくはあるが、それで解決するという話ではない。その理屈だと現状に対して何もしないのが正解になってしまう。  だが、アカートがあれほどイングヴァルを嫌っているのを表に出しているのは雰囲気が悪くなるというものだ。 「一回、本音で話してみたらいいんじゃないですか。俺たちだって気まずいし……」 「本音、ね……」  イングヴァルがそう返したところで先程の角兎を仕留めた場所まで辿り着いた。  周囲には肉片が飛び散って腐った臭いをまき散らしていた。見た目といい腐臭といい、あまり気分のいいものではない。  残っていた矢を拾い、辺りを見回す。  そこで気付いた。  森のもっと奥深くに黒い霧が立ちこめている。 「あれは……」  目に見えるほど濃い瘴気。  これだけの瘴気を纏うとなると、かなりの力を持った魔物だろう。 「近付いて様子を見よう。あれがさっきの魔物を食った魔物かもしれない」  言ってイングヴァルは警戒しながら歩き出した。  少し近付くと魔物の気配がする。背骨の中を冷たい水が通り抜けるようなこの感覚は、何度味わっても嫌なものだ。  そのとき、強い風が吹き抜ける。風は木々の間を通り抜けて黒い瘴気を散らした。  瘴気の中にあるものを見て、思わず声が出そうになったのを飲み込んだ。  二階建ての家ほどもある巨大な影。身体の前半分が蹄のある四つ足の動物で、後ろは蛇の姿をしている。  前肢だけで巨木ほどの太さはあろう。  頭部は枝に隠れて詳細はわからなかったが、異様な魔物であるということはわかる。  前肢が持ち上がって地を踏むと大地を揺らす。その巨躯は地を踏み鳴らしながら森の奥深くへと進んでいた。 「まずいな。あれは悪魔になるのも時間の問題だ」 「気付かれないうちに引き返したほうがいいんじゃ……」 「そうだな、一旦戻ろう。設営も終わっているだろうし、情報を共有しよう」  言ってイングヴァルは来た道を戻り始める。コスティも一歩踏み出した瞬間。  ――お前は、■■■■。  そう囁かれた気がして振り返る。  雪の降り積もる森の奥に、巨大な魔物の背が見える。先程と何ら変わりのない風景だ。  虫の羽音のような雑音だったが、確かに自分に語りかけていた。 「院長さん、今何か聞こえました?」 「いいや? どうかしたのかい?」 「……いや、何でもないです」  今はあの巨大な魔物をどうするかが優先だ。  イングヴァルに聞こえなかったということは、何かの聞き間違いだろう。  深い森は迷い込んだものを惑わす。  見えないはずのものが見える、聞こえないはずの音が聞こえる。  そういった話は珍しくない。猟師の祖父も父もそういった経験があると聞かされた。  自然の前に人間はあまりに無力で、自己は曖昧なものだ。  自分の抱える漠然とした不安が、ただの風の音に意味を与えてしまったのだろう。  そう思ってコスティはクルキたちの元に向かった。  自分たちの足跡を辿って拠点まで戻る。  聖索の巡らされた木の向こうには、四人が余裕をもって寝転がれるほどの立派な幕舎が立てられていた。  その前には石で竈が組まれ、金属製のポットが火にかけられている。ポットの様子を窺うようにクルキが背を向けて座っていた。 「…………」  今まで普通に歩いていたイングヴァルが不意に足を止めた。 「どうしました?」 「い、いや。ちゃんと設営してくれたと思って」  言ってイングヴァルは笑った。しかし声に張りがない。  薄っぺらい虚勢で、咄嗟についた嘘というのが丸わかりだった。  よくよく見れば顔色が悪いようにも見える。 「院長さん、調子悪いんですか?」  コスティがそう尋ねると、仕切りなおすかのようにイングヴァルは咳払いをした。 「僕は大丈夫だ。さ、行こう」  そう言った声は普段の調子に戻っていた。  しかし先程の虚勢を見ていると、さらに虚勢を重ねたのだなとしか思えない。  イングヴァルは幕舎に近付いていった。  足音に気付いてクルキが振り向いて立ち上がった。 「院長、コスティ。どうでしたか」 「色々収穫があった。みんなで共有したい。中に入ろう」 「わかりました」  言うとクルキは火に灰をかけると、ポットを持って幕舎に入る。イングヴァルとコスティもそれに続いた。  幕舎の中はほのかに暖かかった。  幕舎は大きな円形で底冷えを防ぐために絨毯が敷かれており、四角形を描くように折り畳みベッドが置かれている。  空いた中心には毛布が置かれ、その上にお馴染みの炎の入った硝子玉が置かれている。祓魔院の建物にあるものより小さいが、これ一つで明るさと暖かさが確保できるとは何とも便利なものだ。  アカートがベッドの上に荷物を広げて状態の確認をしていた。見慣れない道具がいくつも転がっている。 「ああ、戻ったか。備品はどれも使えそうだ」  アカートはそれだけ言うと備品を木箱にしまい込んだ。 「話したいことがある。座ってくれ」  イングヴァルが言うと、アカートは空いたベッドに腰掛けて話を聞く体制を整えた。  クルキは入口近くの机に置いてあったカップにポットから茶を注ぎ、イングヴァルとコスティに渡してポットを地面に置いた。  それからベッドに座り、コスティに座れというように隣を示した。 「ありがとな」  礼を言ってコスティはクルキの隣に座る。  イングヴァルはカップを持って空いたベッドに腰掛けた。  そして自分を落ち着けるように息を吐いてから口を開く。 「一言で言うと、状況はあまりよくない。魔物の発生から一日足らずで魔物の共食いが発生している。さらに、家ほどもある巨大な魔物が一匹。目に見えるほどの瘴気をまとっていた。その魔物が魔物を食らっているんだろう。悪魔になるのは近いと言える」 「となると、日が沈む前にそのデカブツをなんとかしてえもんだな」  イングヴァルの簡潔な説明にアカートはそう返した。 「そうだね。今はまだ昼過ぎだ。僕としては、軽く昼食をとってから巨大な魔物の退治に行きたい。クルキ君も来てくれるかな?」 「はい。私はいつでも行けます」  クルキはやっと出番が来たというように頷いた。 「じゃあ、君にはここで留守番を頼むよ」  言ってイングヴァルはアカートに指示をした。しかし。 「俺も行きてえんだが」  とアカートは言った。 「俺が戦力にならねえのは重々承知だ。だが、それでも一回は院長さんがどの位強いのかを見てえんだよな」 「……僕が失敗するところを見たいのかい?」  自嘲するようにイングヴァルは言った。 「勝手に言葉以上の意味を読み取るんじゃねえよ。言葉の通りだ、お前がどの位の実力を持ってるのか確認したい。それ以上の意味はねえ」  イングヴァルの返しに、珍しく焦るようにアカートが喋った。  イングヴァルは手に持ったカップを見ながら沈黙している。 「お前の仕事ぶりはよくわかってる。教会内で上手く立ち回ってるし、ちゃんと結果は出してる。そこは俺だって文句のつけようがねえ。よくやってると思ってる。だが、俺はまだお前の戦ってるところを見てねえ。信頼してねえわけじゃねえんだよ、試すわけでもねえ。本当に確認したいだけだ。祓魔院の持ってる手札がどんなもんかを知りたい」  アカートはそう言って誤解のないよう念押しした。  イングヴァルを嫌っているアカートにしては、珍しく彼を認める発言であった。  イングヴァルは少しの逡巡の後、答えた。 「わかったよ。ただし自分の身は自分で守ってくれ。じゃあ、僕は外にいるから。各々食事をとっておくように」  力なくイングヴァルは言って立ち上がると幕舎を出て行ってしまった。 「……何だ、やけに元気がねえじゃねえか」  そう呟いてアカートはコスティのほうを見つめる。何かあったかと聞きたいのだ。 「院長さん、さっきから調子悪そうなんだよな。どうしたのかって聞いたんだけど何も言ってくれなくて」 「なるほど。あいつは俺たちを信頼してねえわけだ」  そう言ってアカートは肩を竦めた。 「これから命を懸けて魔物と戦うってのに、調子が悪いのを隠されてもな」  しかし、本当に弱っているときほど弱っているのを悟られたくないものだとコスティは思う。数日前までの自分のように。  それを信頼していないと判断するのも気が早いのではと思ったが、自分が言えることではない。  自分とてクルキを信頼していないわけではない。  信頼しているが故に迷惑をかけたくない場合だってある。  イングヴァルは自分たちのことをどう思っているのだろうか。  ――アカートはほら、誰にも遠慮しないじゃろ。良くも悪くも裏表がない。誰にも本音を言う。イングヴァルはその逆、誰にも深入りしない。  イグナシウスに言われた言葉を思い出す。  果たしてそれでよいのだろうか。  ――一人で悩んでいると視野が狭くなるものだからね。相談するのも一つの手だ。それに、君は勇気を出して話してくれた。君が自分を助けたんだよ。  昨晩イングヴァルはこう言っていたのに、自身は誰にも相談しないのだろうか。弱みを晒すだけの勇気を持てないのだろうか。  イングヴァルの不調を不安に思いながら、三人は干し肉とパンの昼食をとった。 「じゃあ行こう。準備はいいかい」  イングヴァルはそう三人に向かって確認した。  こちらも調子は万全かと聞きたい気持ちでいっぱいだったが。  イングヴァルは茶を飲んだだけで昼食もとらなかった。  小一時間外にいて、そろそろ行こうかと声をかけてきたのである。  食欲もないほどの不調なら休んでいてくれと思うが、イングヴァルが指揮官ではどうしようもない。  絶対服従というわけではないが、上の立場の人間に言うことを聞かせるのは難しいものだ。イングヴァルが納得するだけの理由がないといけない。  先程巨大な魔物を見た方角に、イングヴァルを先頭にして向かって歩き始める。 「あいつが駄目だったらお前らが頼りだ。頼んだぜ」  最後尾を歩くアカートは小声でコスティとクルキに声をかけた。  拠点から離れて森の奥に進んでいると、ちらちらと雪が降り始めた。 「時間が惜しい。早くあのでかいのを倒して戻ろう」  イングヴァルはそう告げて、歩く速度を早める。  森の奥から地響きと、木がみしみしと音を立てながら倒れる音が聞こえる。  そして、巨大な魔物のいた場所に着いた。  巨躯を引きずった跡が奥へ奥へと続いている。  畑を耕すのに牛を使うことがあるが、あの魔物はそれと同じことを森でやっていた。  前肢によって降り積もった雪は押し潰され、その下にある凍った土が掘り返されている。後ろにある蛇の体がそれを均して進んでいるようだった。  深々と根を張っている木さえ障害にはならず、無残に薙ぎ倒されている。  魔物の作った道を延々と進む。  進めば進むほどに地響きは大きくなり、やがて地面の振動すら感じられるようになる。  その最中、魔物の死体がいくつも転がっている。  森を蹂躙しながら魔物はなだらかな斜面を登り、山の尾根へと進んでいた。  振り返れば木々の隙間から湖が見下ろせ、自分たちのいた拠点が見える。かなり斜面を登っていたようだ。  やがて、黒い霧が目に入った。  濃い瘴気に囲まれて相変わらず全貌は明らかにならない。後ろからは蛇の尾がちらりと見え、見上げるほど巨大だとしかわからない。  寒さとはまた違った冷たさが背筋を伝う。それだけで今まで相手にしてきた魔物とは一線を画す強さと感じ取れる。 「院長さん……」  本当にあれとやり合うのか、と尋ねる。  イングヴァルは悪魔ともやり合える男だというのは聞いた。しかし今のイングヴァルは明らかに不調なのだ。本当にこのまま戦っていいものなのか。  嫌な予感がする。 「あのデカブツは僕一人でいい。コスティ君、クルキ君は周囲を警戒してくれ。アカート、君はコスティ君の近くにいたほうが安全だ。じゃあ、頼むよ」  イングヴァルは返事を聞くまでもなく駆け出した。 「ちょっと……!」  制止の声も届かない。  先程から何かが少しずつおかしい気がする。  しかし、自分たちの中で最大の戦力がイングヴァルなのは確かだ。  あの巨大な魔物に誰をぶつけるかと言ったらイングヴァルしかいないのも事実だった。  クルキのほうを見つめる。  クルキもこの状況に何かを感じて不安げな顔をしている。 「クルキは左を、俺は右を見るから」  言って魔物の作った道の左右を示す。 「わ、わかった」 「無理するなよ」  クルキは頷いてイングヴァルの後を追うように駆け出した。 「行くぞ、おっさん」  言って自分も走り出して右側の森を警戒する。  濃い瘴気に誘われたのか、早速魔物が目に入った。近付かれる前に矢を放って射殺す。  そのときだった。  ぱき、と空気が凍る音がする。  魔物の気配とは違う純粋な冷気が身体を襲う。  前を見るとイングヴァルは瘴気の中に足を踏み入れようとしているところだった。  そして一歩を力強く踏み出す。  その瞬間に地面に雪の結晶をした紋章が浮かび上がって周囲を氷の大地に塗り替える。その氷はコスティの足元にまで届いた。 「うわっ……」  走っている最中に地面が凍ったために足が滑って転んでしまった。大雑把な攻撃しかできない、というのはこういうことらしい。  同時にイングヴァルは手で宙を薙ぎ払った。その手には冷気が白くまとわりついている。  イングヴァルが手を薙いだと同時に信じられないことが起こった。  瘴気が一斉にに地面に向かって落ちたのである。  最初は何が起こったのかわからなかったが、瘴気に包まれていた魔物が氷の塊に覆われているのを見てやっと何がどうなったのか把握した。  イングヴァルは瘴気を凍らせたのだ。  凍った瘴気は雹のように氷の塊となって重力に従い地面に落下する。  確かに物を凍らせるとは言っていたが、空気に漂う瘴気すら凍らせるとは――。 「とんでもねえな……」  一人で悪魔と戦えるはずだ、と驚くのもすぐに終わらせる。  なぜなら、瘴気が消えて明瞭になった視界には大量の魔物がひしめいていたからだ。  慌てて立とうとする。  しかしそれすら無用だった。  イングヴァルがもう一歩を踏み出し、また地に氷の紋章が浮かぶ。  すると魔物の中から針の山のように氷の柱が突き出した。  体の中から心臓を氷で射貫かれた魔物はやがて氷に覆われて氷像となり、地面に倒れることすら叶わない。  イングヴァルは止まらない。  また一歩踏み出すと地面から氷の柱が伸び、それに乗って高く宙に跳ぶ。  そして腰に提げた剣を抜き、氷漬けになった巨大な魔物に剣を突き立てる。  巨大な氷塊はばらばらに砕け散った。  本当にイングヴァル一人で全てを終わらせてしまった。  心配するまでもない。  そう安堵したのも束の間。砕け散った魔物の氷塊が凍った斜面を転がってくる。 「やべ……っ」  このままでは巻き込まれる。  クルキは大丈夫か。視線をクルキのほうに向ける。  クルキは無事に森に入って木の陰に隠れるところだった。  それを見て安心する。自分も何とか立ち上がって脇の森に逃げようとした。 「よそ見してる場合か!」  一歩先に森に退避していたアカートがこちらに手を差し出している。  その手を掴もうと手を伸ばす。  そうしている間にも氷塊はごとごとと音を立てながらすぐそこに迫っていた。  あと一歩踏み出せば手が届く。  あと一歩。  その一歩が間に合わなかった。  氷塊に体当たりされて身体が転がっていく。  ごつんごつんと氷の地面だか氷塊だかにぶつかって衝撃が走る。  何となく予感はしていた。  イングヴァルの不調をそのままにしておいたこととか。  イングヴァルを一人で突っ走らせてしまったこととか。  クルキの無事を確かめる前にまず自分を優先するべきだったとか。  もうちょっと自分たちはましな選択肢を選べたのではないか。  自分たちはもっと話し合うべきだったのではないか。  今になってそんな正答が頭を過ぎる。  ずれたまま積み上げた積み木がいずれ崩れるのと同じように、少しずつ間違った選択をしたツケが今自分に降りかかっている。  もう上下も何もない。ただ勢いに任せて氷塊と一緒に氷の地面を転がっていくだけだ。  これが池に張った氷のように平坦なら滑っていくだけだったと思うが、山の斜面を氷が覆っただけの凹凸だらけの場所を氷塊に巻き込まれながら転がっている。  先程から体中の骨が軋んでいる。あまりの痛みに感覚が麻痺している。  よくもまあ今まで四肢がくっついているものだ、と妙に冷静な自分がいる。  そして、やっと頭にとどめの一撃を食らって意識が落ちた。

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