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第5話
最初に感じたのは冷たさだった。
次いで体中を襲う激しい痛み。
顔を伝う血だけが温かい。
「いっ……!」
あまりの痛みに、痛い、とすら口にすることができなかった。
一応、止まりはしたようだ。
辺りを見回すが雪に覆われた山の斜面しか見えない。
手当たり次第に綿でも千切っているかのように大雪だ。
腹が妙に熱い。
見てみれば、木の枝が腹に突き刺さっていた。
「が、はっ……っ」
それを見た瞬間に口から血を吐き出す。
これは流石に、駄目だ。
諦めが頭を過ぎる。
まさかこんなところで、という思い。
いや、今まで運がよかっただけなのだ。魔物と戦うのは命懸けだ。コインを投げて常に表を出せるわけがないように、こうなるのも時間の問題だっただろう。
手が自然と胸元に伸びる。
骨にひびでも入っているのか、ただ動かすだけなのに激痛が走る。
痛みを乗り越えてそれを掴む。
常に胸から提げていた、赤く赫 く石。
クルキと自分を繋いでくれた運命。
――まだだ。
消えかけていた意志に火がつく。
記憶を掘り返して気付いた。
ここ最近のクルキは、ずっとどこか不安そうだった。
自分が情けなかったから。
自分にもっと力があったら。
クルキが戦わなくてもいいくらいに自分が強ければ。
そう思うと、こんなところで死んでいられない。
クルキを悲しませたくない。
体中の痛みに耐えて、何とか体を起こす。
助けを呼ばなければ。
立ち上がろうとしたが無理だった。右足が関節ではないところで曲がっていた。
また心が折れかける。
意志だけあったってどうなる。
普通の人間であることを恥じることはない、とか。誰かが言っていたけれど。
普通の人間は簡単に死ぬんだ。
何かないか。この状況から助かる一手が。
また周囲を見回す。
雪で視界が利かない。ちらちらと視界を遮る雪が鬱陶しい。
もうどうしようもないのか。
そう思った瞬間だった。
ふと視線を下すと、箱のようなものがあった。
その箱を見た瞬間に怖気が走る。
さっきまでこんなものはなかった。
まさか、目を離した隙にどこかから現れたとでもいうのか。
五角形で構成された面を持つ小さな箱。
自然のものではない。明らかに誰かが意志を持って作ったものだ。
――お前は、■■■■。
また虫の羽音のような音がする。自分に話しかけているかのように。
――お前は、何を望む。
今度は明瞭に音が聞こえた。
この箱からだ。なぜかはわからないがそう感じた。
この箱は言っている。願いを叶えたいならば手に取れと。
だが、こんなものは明らかに手にしていいものではない。
本能がこれに触れるなと警鐘を鳴らしている。
――お前は、何を望む。
箱は語りかける。
何を望む。考えるまでもない。
答えは一つだ。
「コスティ! どこだ! 返事をしてくれ!」
クルキはそう言いながら斜面を駆け降りる。
降りしきる雪で視界が悪い。
コスティは目の前で氷塊の波に飲まれて流されていった。
ああ、なぜ彼を助けられなかったのだ。
自分には彼を助けるだけの力はあったはずなのに。
「コスティ……!」
この雪だ。早く助けなければ命に関わる。
彼がいなければ自分はここにいなかった。ただ消えゆくだけだった。
彼が自分の存在を証明してくれた、だからクルキ・ムラッティ・ルーネベリの名前を取り戻すことができた。
その彼が絶体絶命の危機に陥っている。
命と引き換えてでも助けなければ。
しかし、何も見えない。何も聞こえない。
もっと自分に力があれば、簡単に彼を見つけるくらいはできたのに。
「待てクルキ! 一人でどこ行くんだ!」
後ろからアカートに肩を掴まれる。アカートの後ろにはイングヴァルが暗い顔をしている。
当たり前だ、自分の攻撃の巻き添えを食らって仲間が行方不明になっているのだ。
「止めないでください!」
叫んで手を振り払う。
わかっている。この大雪の中で森の中を行くのが自殺行為なことくらい。
コスティを探しに行って自分も遭難したら本末転倒だ。
でも、同じ死ぬなら、せめてコスティの隣がいい。
そう思った瞬間だった。
芯から冷えるような恐怖が体を襲う。先程の魔物より冷たい気配。
見れば、いつの間にか降る雪が黒く染まっている。
「何、これ……」
黒い雪は白い雪を汚していく。異様な光景に足が竦む。
「馬鹿な……、悪魔の気配だと……!」
アカートが困惑の声を上げる。
だって、魔物は一通り殺したはずなのに。どこから悪魔が現れたというのか。
身体を襲うのが寒さなのか恐怖なのかわからない。
わかるのは身体が凍えていることだけ。
悪魔が現れたなら、尚更コスティを助けないと。
そう思うのに体が動かない。
これ以上進んだらいけない。本能がそう叫んでいる。
そのときだった。
前方に人影が見える。
雪の中でも目立つ薄紅色の髪。
「コスティ……!」
「やめろ、近付くな!」
アカートの制止の声も無視して影に駆け寄る。
だって全身がぼろぼろだ。服も破れて、血だらけで。立っているのがやっとのようにふらついている。
何より腹には深々と木の枝が刺さっている。
足が雪に取られるのがもどかしい。
早く彼を連れ帰って手当をしなければ。
そして違和感に気が付いた。
彼は何か長いものを手に持っている。
それを手に取って構えた。
その一連の動きで彼の持つものが大きな銃だと把握する。
なぜそんなものを持っているのだ。
「クルキ君、伏せろ!」
イングヴァルがそう叫び、目の前に氷の壁が築かれる。戸惑いで身体が動かない。
火薬の爆ぜる甲高い音と共に氷の壁は砕けた。
薄紅色の光が迸る。光は急に軌道を変えてクルキの横を通っていった。
「ぐ、ぅ……っ」
後ろでイングヴァルの呻く声と、どさり、という音が聞こえる。
そんな。まさか。
恐る恐る後ろを振り向くとイングヴァルが倒れていた。
「クル……キに、近付く……、な……」
風に乗って微かにコスティの声が届く。確かにコスティのものだった。
コスティの薄紅色の前髪が風で乱され、額が露わになる。そこには悪魔の象徴である逆さの五芒星をした紋章が浮かび上がっていた。
「クルキ、一旦引くぞ! あいつは悪魔に憑かれてる!」
アカートがイングヴァルを抱き起こしながら言った。
コスティが悪魔に憑かれているなんて。
信じがたかったが、彼が正気ならイングヴァルを撃つ理由がない。
だとすると、やはり悪魔に憑かれているというのか。
コスティの影は銃を下ろし、足を引きずってこちらに近付いてくる。
そして、こっちに来い、とでも言うように手を差し出した。
「コスティ……」
わからない。彼が何を考えているのか。
クルキは思わず後ろに引いた。
コスティはこちらに手を差し出したまま止まっている。
「逃げるなら今のうちだ! 早く!」
アカートの声が聞こえる。
コスティが悪魔に憑かれているというなら、彼を救うための準備が必要だ。
クルキは唾を飲み込んだ。
「コスティ、絶対に君を助ける……!」
それだけ告げてクルキはイングヴァルを背負うアカートの後に続いた。
何度も転びそうになりながらも無理に足を動かし続け、気付けば拠点にいた。
アカートが幕舎の中に入る。その後を追う。
アカートはベッドの上にイングヴァルを寝かせると、限界を迎えたのか地面に膝をついた。
しかし、まだやることがあるとイングヴァルの服を脱がしにかかる。
言うことを聞かない凍えた指でベルトを外し、分厚いキルトの上着をはだけた。
その下にあった身体は異様な状態だった。
心臓の位置にある傷を氷が覆い、今つけられただろう腹の傷も氷が塞いでいる。
そういえば、確かに彼が撃たれたときは血が流れていなかった。
「お、おい、大丈夫か……!」
予想外の有様にアカートが戸惑いながらイングヴァルに呼びかける。
「う……っ」
目を閉じていたイングヴァルは呼びかけに答えるように呻いた。やがてゆっくりと目を開ける。
「あ、あぁ……。生きて、いるね……」
イングヴァルはどこか呆けた様子で言いながら腹の傷に手をやった。
そしてゆっくりと起き上がる。
「……ここは……」
言って辺りを見回し、アカートとクルキが目に入って状況を理解した。
「……そうだ、僕は撃たれたんだ。コスティ君に……」
靄を晴らすようにイングヴァルは頭を振った。
「お、お前、腹に穴が開いて平気なのかよ」
「ああ、今は少し痛いだけさ。君にも話しただろう。僕の体には永久氷河から魔力――生命力が直接注ぎ込まれているんだ。弾は貫通しているし、何日かすれば治る」
言ってイングヴァルは凍り付いた腹の傷に手を当てた。
「……そうか」
アカートはひとまず安堵し、仕切りなおすように口を開いた。
「お前が無事なら、次はコスティだ」
「そうです、早くコスティを何とかしないと……!」
そう口に出すが、具体的なことは何も思い浮かばない。
「待て。少しは猶予がある。それに、悪魔が憑いてる限りは死ぬことはねえ。悪魔があいつを生かし続ける」
アカートは限界を迎えた足に鞭打って何とか立ち上がった。
「猶予って……」
「悪魔は人間を殺す。現時点で一番あいつに近い人間といったら俺たちだ。まず俺たちを殺しに来る。それまでは時間があるってこった」
「……僕が行く。元はと言えば僕のせいだ」
言ってイングヴァルは服を整えると立ち上がって歩き出す。しかしアカートが強引にその前に立ち塞がった。
「馬鹿言うな! 悪魔と戦うのと悪魔憑きと戦うのは別だろうが!」
「で、でも、この中で悪魔に対処できるのは僕だけだ……!」
「さっき撃たれただろ! 何の対策もなしに行ってどうにかなる問題じゃねえんだよ!」
「だからって君たちがどうにかできることでもないだろう!」
イングヴァルがそう叫ぶと、アカートがイングヴァルの頬を叩いた。
「何を……!」
「何かっこつけてんだよ、さっきから一人で何でも解決しようとしやがって……! 目の前に俺たちがいるだろ、頼れってんだよ!」
「……それ、は……」
アカートの言葉にイングヴァルは目を見開く。そして、悪戯がばれた子供のように目を伏せた。
「いつもの優等生の院長様はどこに行ったんだよ。お前、何かおかしいぞ」
「……そうだな。全部、全部僕が悪い」
言ってイングヴァルは目を閉じる。
「すまない。僕は、冬にいい思い出がなくて……。とても、とても怖い思いをしたんだ。それがずっと頭の中にあって、呪いみたいに頭から離れないんだ……」
そう告げるイングヴァルの声は震えていた。
アカートは黙ってイングヴァルの懺悔を聞いていた。
「ここに来る前はできると思っていたんだ。ちょっと魔物を倒すくらい、なんでもないって……。でも、今の状況が昔と似ていたものだから、怖くて、たまらなくて……。君の言う通り、僕はずっとおかしかった。何でも一人でやらないとって思っていた。イグナシウスさんに、みんなで協力しないと駄目だと言われていたのに」
「今は? 協力する気があるか?」
「……ああ。一刻も早く、コスティ君を悪魔から解放しないと。みんなで策を練ろう」
言ってイングヴァルはベッドに腰掛け、話し合う姿勢を見せた。
それを見てアカートもベッドに座る。クルキもそれに倣った。
「僕も記録を読んだが、悪魔憑きに関しては君のほうが詳しい。どうすればいい」
イングヴァルに問われてアカートは唸った。
アカートも悪魔憑き――未だに悪魔をその身に宿す人間であった。
「悪魔憑きってのは、文字通り悪魔が人間に取り憑いた状態だ。悪魔が憑いた人間から悪魔を切り離すには、契約を破るか、身体の居心地を悪くさせる必要がある」
「契約を破る……?」
クルキが問うと、アカートは頷いた。
「悪魔は何かを欲する人間を察知して、その望みを叶える。代わりに人間の体に入り込むんだ。だが、望みは最終的に人を殺す、という歪んだ形で成就する」
そこでアカートは顔を顰めた。
「悪魔の野郎は意外と律儀でな。望みが叶えられなかったら出ていくんだ。望みを叶える代わりに体を貸す、そういう契約を結んだわけだからな。で、身体の居心地を悪くさせるってのは短絡的だ。取り憑いた先の肉体を痛めつけるとか、神の力の元に退去を命ずるとか、そういうことをして出ていかせる。しかしこれは確実じゃない。あいつはあの通りぼろぼろでも悪魔は憑いてるし、神の力を示すってのも難しい話だ。奇跡を人為的に起こせってんだからな。過去に一度だけ、天使の生まれ変わりと称された聖女が"汝に罪はなし、魂は解き放たれん"と書かれたロザリオと聖水を用いて悪魔を祓ったという記録はある。再現はされていないようだが……」
アカートは言葉を濁らせる。
「……難しいな。コスティ君が何を願ったのかは知りようがないし……。神の力、という点では試したいことはあるけれど」
イングヴァルは言って立ち上がり、荷物を漁った。
「ナエマが清めた道具が……、あった」
言うとイングヴァルは革の小さなケースを取り出し、中身を二人に見せた。聖水の入った瓶、教会の象徴である翼に抱かれた薔薇の意匠が彫られた、首から提げる紐がついた銀のメダルだった。よく見るとメダルはうっすらと金色の光を放っている。
「これは一応悪魔祓いの道具として、お守りに持ち歩いているものだ。クルキ君は会ったことがないね。ナエマというのはうちにいる男で……、何と言ったらいいかな、文字通り神の祝福を受けた男だ。彼の清めたものは普通の司祭が清めたものの何倍もの力がある。何でもないメダルが聖なる光を帯びるくらいには本物だ」
「なるほど……。では、それをコスティに近付けるとか……」
「それができればいいんだけどね」
クルキの提案をイングヴァルは柔らかに否定した。
「彼は銃を持っていた。彼の望んだ結果、あれが与えられたということだろう。銃弾は僕の氷より遠くから、速く届く。そして厄介なことに、彼の放つ弾は軌道を操ることができる。コスティ君のほうが圧倒的に有利だよ」
「……そこが問題だな」
アカートは苦々しい顔で言った。
「彼は僕がクルキ君の前に作った壁を壊したあとに、弾を曲げて僕も射抜いた。ほんの一瞬だった。弾の軌道が魔力を帯びて光らなかったら、何が起こったかもわからなかっただろう」
イングヴァルの言葉にクルキは違和感を抱いた。
あのときの位置関係はコスティの前にクルキがいて、その後ろにイングヴァルがいたはずだ。三人は縦一列に並んでいたと言っていいだろう。
イングヴァルはコスティの銃を見てクルキの前に氷の壁を作り、その直後にコスティが発砲し、弾丸は氷の壁を砕いた。
そこまではいい。
そのあとにコスティはわざわざ弾の軌道を変えたのである。
氷の壁が崩れたあと、弾は薄紅色の軌道を描いてクルキの前で曲がり、クルキの脇を通って後ろにいたイングヴァルの腹を貫いた。
弾を曲げなければ一発で二人を仕留められた状態だった。なのにコスティはそうしなかった。
氷の壁を作ったのがイングヴァルだったから?
弾に二人を貫通できるだけの威力がなかった?
どれももっともな理由であるが、何か据わりの悪い印象を受ける。
「そもそも、あいつが銃を持ってんのがおかしくねえか? あいつは全身怪我してただろ。歩くのだって足を引きずってて、腹に枝が刺さっててよ。そこに何でも願いを叶えましょうって悪魔がやってきて、何を願ったら銃が出てくんだよ。弓ならまだしも」
「確かに。僕だったら自分が助かることを願う、かな。彼は何を願ったんだろう」
アカートとイングヴァルの会話を聞いて、頭の中で何かが繋がりかける。
「でも銃でよかったよな。銃はあれだろ、いちいち前から弾を詰めねえといけねえ」
「そうだね。彼の持っているのが弓だったら、あっという間に連射されて終わりだよ」
あと一つで何かが繋がる。
――クル……キに、近付く……、な……。
彼はそう言って、こちらに手を差し出した。
まさか。
クルキはある一つの結論に辿り着いた。
そんなことがあり得るのか。
にわかには信じがたかったが、その結論なら筋が通る。
「……あると思います。コスティに近付く方法が」
クルキは躊躇いながら口にした。
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