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2.天上の人(2)
その後は彼も俺も、夢の話にはそれ以上触れなかった。
俺は食事も漫ろに、ひたすら呑みながら。
ずっと彼の歌う歌について語り続けた、ような気がする。
最後の方はあまり記憶にない。
彼と打ち解け、次々と彼の歌や音楽についてひたすら喋り。
いつの間にかどっぷりと彼の歌にはまっていることを思い知らされた。
気がつけばホテルの部屋だった。
ガチャガチャした音が聞こえた。
それに誘われ目を開き、体を起こす。
すると彼がベッドの端に腰を下ろしテレビを観ているのが見えた。
体も頭も重い。
「あ、気がついた」
彼が振り返った。
「俺……」
「結構大変だった。ここまで運んでくるの。貴方背が高いし」
俺の荷物に入っていたカードキーを見つけ、ここまでタクシーで連れてきてくれたらしい。
「俺、実家だし。家よりここの方が近かったから」
「そうか……。ごめん」
「いえいえ」
すっかり砕けた口調。
いつの間にか、こんなに打ち解けていたんだな、と妙なところに感心した。
「ところで。服、どうかした?」
なぜか、彼は会った時とは違う服装となっていた。
「んー……」
彼が答えを渋る。
彼の髪や肌からふわっと花の様な香りが漂っていた。
「え? 何々? どうした?」
急に不安が押し寄せた。
「……服に吐かれた」
「え!」
ぼそっと呟いた彼の台詞に、俺の脳が揺れた。
「だから近くの店でこれ買って、着てた服は捨ててきた」
「ご、ごめん。ほんとごめん」
俺は真っ青になりながら言葉を綴った。
「服、弁償する。いくらだった?」
彼はきょとんとした後、小さな笑みを浮かべて言った。
「いいよ。今日のお詫びって言うか、ね」
「え?」
「遠くから来てくれたのにさ。ライブ、俺出てなかったでしょ? だから、チャラってことで」
シャワーは使わせてもらったよ、と、また彼は笑みを浮かべた。
なんて良い人なんだろう。
「ごめん……」
感激しながらも、俺はまた彼に謝った。
「いいって。そんないい服でもなかったしさ」
俺は「ん……」と、まだ煮え切らない返事をした後、尋ねた。
「今日のライブ、何で出なかったの?」
と言うか、最初から出る予定はあったのだろうか?
すると彼は少し苦笑して答えた。
「スランプ、かな。これからCDの参加もあるし。まぁ療養中ということで」
「そっか……」
「ぅん」
シャワーでも浴びてきたら、と提案する彼に従い、俺はバスルームへ向かった。
その後、帰ろうとした彼を引き留め、ずっとホテルで過ごした。
折角会えたんだからまだ帰したくない、という俺の我侭に彼は付き合ってくれた。
勿論その本音をストレートに言いはしなかったが、どこか察してくれていたのだと思う。
後は何をするでもなく、ホテルで寛いでいた。
俺はベッドに寝転び、彼はその隣に腰を下ろして。
「あのさ、あの歌あるじゃん?」
ふとそんなことを尋ねる。
が、その後すぐ、これではあまりに大雑把な質問だと思った。
「あの歌?」
彼の問いが部屋に舞う。
当然だな。
俺は言葉を変えた。
「夢の中で歌ってた曲」
あ、またやっちまった。
『夢の中で歌ってた曲』って言っても……。
彼が明るい声を立てた。
「あ、うん。それが?」
…………え?
俺はがばっと起き上がり、彼の顔を見つめた。
今、彼は何と言った……?
『あ、うん。それが?』
ってことは。
何の曲か分かってるから言うんだよな?
「どうしたの?」
彼はきょとんとしている。
あれ?
おかしくないか? おかしいよな。
俺、夢の中で聞いた曲が何だったか、話したっけ……?
彼は相変わらずきょとんとしていた。
綺麗な黒目が俺を映していて。
その視線を受け入れながら、俺は脳を回転させた。
俺は確かに動画サイトで彼が歌っていた曲を夢の中で聴いたとは言ったけど。
それが動画リストのどの歌だったかなんて言ってない。
間違いない。
言ってない!
俺は何かに操られるように口を開いた。
「俺、夢であんたが何の曲歌ってたかって、言ったっけ……?」
「え……?」
彼はとぼけたが、俺は彼がほんの一瞬見せた焦燥を見逃さなかった。
「言って、なかったっけ⁇」
彼はなおもとぼける。
でもとぼければとぼけるほど、俺の疑心が膨らんでいくことに彼は気づいていない。
「言って、ない」
「そうだった、かなぁ?」
「うん」
もしや、という気持ちが強まる。
そして、俺の口は素直にこう開いていた。
「あんたさ、夢を見たんだろ……?」
「え⁉」
また彼の目が丸くなった。
けど、呼び止めた時のそれとは色が違う。
瞳に、ほんの少しの濁りと陰が見える。
驚愕に見せて、焦っている。
「……見てないよ」
「嘘つくなよ」
「見てないって」
言葉を重ねれば重ねるほど、嘘臭くなる。
「じゃ、なんで何の曲が分かったんだよ」
「貴方が言ったんじゃん!」
執拗に尋ねる俺に彼が声を上げた。
「貴方は森の中を歩いてて、家を見つけて。歌声がするから中に入ったら、俺が赤い着物を着て歌ってたって! その時に言ってたよ!」
俺の胸が黒い穴にすぅっと吸い込まれていった。
俺は、確信してしまった。
「やっぱり、……あんた、嘘ついてるよ」
真っ暗になった胸から必死に言葉を紡ぐ。
「何で? 何でそうなるんだよ⁉」
「だって、俺、『赤い』着物だって、言わなかった……」
「――!」
彼から完全なる蹉跌が見えた。
曲名を、言った覚えはない。
着物の色だって言ってない。
夢の話をした時はまだ素面だったのだから、確信をもって言える。
言ってない!
どうして彼は、どちらも分かったんだ……?
彼の顔が強張っていた。
「……っ、ほら、女物の着物だって言ってたから、咄嗟に『赤』だと思ったんだよ」
声が上擦っている。
なぜ? なぜ⁇
なぜそこまでして夢を見たことを隠す……?
真っ黒になった俺の胸に、得体の知れない色の焔が揺らめいた。
夢を見たことを隠す理由。
そんなもの、一つしかないんじゃない、のか?
俺は彼の腕を掴んでいた。
びくりと跳ねる彼の腕。
「な、何⁉」
大きな驚愕。
びびってる……?
「夢を、見たんだろ……?」
しつこく繰り返す。
「見て、ないよ。見てない」
彼も軽く頭を振って、しつこく否定した。
弱い声だ。
それは、自分に言い聞かせているようでもあった。
「離して」
静かに諭す彼の声。
語尾が微かに掠れて。
もう、核心まで来ていた。
彼の腕を引き寄せて、そのまま彼の身体をベッドに倒した。
彼が体勢を立て直す前に、俺はその身体に重なる。
背景に違いはあれど、夢で見た光景と、同じ光景。
額にかかる短い髪をそっと掻き上げ、頭を撫でる。
「何、するの?」
細く空気を含んだ声が微かに震えて。
「夢で、したこと」
一瞬にして彼の顔が強張った。
この状態ならば、何が起こるのか察しはつくだろうが、明らかに彼は『夢』と関連付けて現状を把握しているように見えた。
「……ぃや……だ」
拒絶と懇願が交じる声が体の下から聞こえる。
彼の身体は微動だにしない。
――ように見えたが、時折手足が小刻みに揺れるのが肌で感じられた。
「乱暴にしないから」
「だめ、だって……。俺、ほら、……男、だし……さ」
その後も何かと言い訳をしようとする彼の口を手で塞いだ。
夢と同じ光景。
夢と同じように進んでいく現実。
その狭間で、俺は境界線を見失った。
手を退け、彼に口づける。
柔らかい、夢の感触。
夢と同じ感触。
舌で唇をなぞり、その隙間から舌を滑り込ませる。
微かに彼の体が揺れるが、抵抗する素振りはない。
柔らかな舌の感触を弄ぶ。
そしてまた唇だけを合わせるだけのキス。
でもお互いの呼吸を隅々まで思い知る、そんな深いキス。
彼にキスを繰り返しながら、また彼の髪を掻き上げた。
ふと、俺の指が濡れた。
彼の様子を窺うと。
たちまち、俺の胸に真っ白な空洞ができた。
空虚を映す目から次々と零れる液体。
時々吐き出される不器用な浅い呼吸。
「おい……」
恐る恐る声をかける。
すると浅い呼吸はだんだん加速してゆき、彼は顔を覆うと、やっと声になるぐらいの悲鳴を上げた。
俺は焦った。
彼はやっとな呼吸を繰り返しながら、声にもならないのに必死に叫ぶ。
「ごめっ、……落ち着いて。頼むから。落ち着いて……」
頭を撫でて宥める。
俺の下から彼の嗚咽が漏れた。
女の子でも見せないような恐慌状態。
恐らく、いつもの彼じゃない。
もしかして、怖くて抵抗もできなかった……?
「泣くなよ。な、俺が悪かった」
彼が咽る。
その音がそのまま俺の胸に反響して、俺はとんでもないことをやってしまったんだと実感した。
俺の胸に蒸気を帯びた熱が溜まる。
時々しゃくり上げながら泣く彼を上から抱いたまま。
髪を撫でて、安心させてやり。
そしてひたすら泣きやむのを待った。
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