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2.天上の人(3)
しゃくり上げる声が小さくなったころ、彼が小さな声で呟いた。
「……ご、めん」
謝られることは何もなかった。
「いや、悪かったの、俺だし」
「……ん」
彼は一度すすり上げると、俺の下から逃れるように体をずらした。
その動きに合わせ、俺は彼を解放してやる。
それから彼は横向きになると、胎児の様に身体を丸めた。
「自分でも、こんなパニクるとは、……思わなくて」
俺には彼の小さな後ろ姿だけが見えた。
「そっか」
「ん……」
静かに時は流れていた。
彼は背を丸めるだけで、何も言ってはこない。
俺はどうすべきか迷っていた。
こんな状態の彼を帰すなんて絶対できない。
勿論続きをするわけにもいかない。
なら、何ができる?
一番易いのは、やはり尋ねることだった。
「なぁ、何度も悪いけど、……あんた夢を見たんだろ?」
「……ぅん……」
叱られた子供が泣きながら白状するような声だ。
「何で嘘ついたんだ?」
「…………」
言いたくないのか、迷っているのか。
俺は気長に待った。
その甲斐があった。
「言っておくけど、やられそうになったことで、パニクったんじゃないから……」
体格に違いはあっても、俺だって男なんだから、やろうと思えば殴って抵抗するぐらいのことはできた、と言う。
きっと、それはただの意地ではなかったんだろうと思う。
「じゃ、なんでそれをしなかった?」
「…………」
また無言となってしまった。
俺は頬杖をついて彼の小さな背中を眺めた。
華奢な身体が丸くなって、なお小さく見える。
その肩が一瞬だけ震えた。
「『夢』と、同じ光景が見えた……から、だよ」
俺は、現実でも『あの夢』から逃げられないんだって、思ったからだよ……。
夢と同じ光景。
夢と同じように進んでいく現実。
その狭間で、境界線を見失ったのは彼もだったんだ……。
「本当に、最初は気づかなかったんだ……。貴方があの夢の人だって……」
でも、細かな話を聞くうちに、もしやって段々不安が込み上げてきて。
でも、きっとあの夢とは別の夢だって自分を納得させて。
でも、急に夢と同じ展開が見えて。
彼はその言葉を吐き出した後、尋ねた。
「貴方は、俺に夢を見たかどうかしつこく訊いてくるけど……、貴方はどうなの?」
「え? ……俺?」
「貴方だって、夢の全てを話してないでしょ……? フェアじゃないよ……」
涙声で責められた。
俺が全てを曝け出した後でしか、あんたの『真相』は聞けないのか。
フェアじゃないのはどっちだ、と一瞬言いたくなったが、もともと事を始めたのは俺だったのでそう責めはしなかった。
「まぁ、事情が分かってるみたいだから言うけど。初めて会った、しかも男に『俺、夢の中で貴方とヤったんですよ』って言える?」
「そうだけど……」
拗ねたような声でそう呟き、彼はまた黙り込んでしまった。
また彼の後ろ姿を眺める時間が流れた。
こんな時でも、俺の中には『衝動』があった。
彼に触れたい。
頭をそっと撫でて、覆いつくして。
肩を抱き寄せて、また腕の中に収めたい。
セックスをしなくてもいい。
ただ寄り添うだけでいい。
『愛』より『哀』に近い感情。
……いつの間にこんなに強い感情を持ってしまったんだろう。
「あのね」
急な彼の声に、そんな感情を嗅ぎ取られたのかと、一瞬ドキッとした。
「何?」
「……これ、だけは言っておく」
「ん……?」
「俺は、確かに、夢を見たよ。……でも、きっと貴方が見た夢とは違う。……多分、違う」
「なんで?」
返事はない。
おい、それこそフェアじゃないだろう。
さすがにそこは問い詰めたかった。
「そこまで分かってるのに、話せないわけ?」
「気持ちの整理が、つかない」
その気持ちは分かる。
だが冗談じゃない!
こっちは期限付きで来てるんだ。
彼のせいってわけじゃないけど、話してもらわないと困る。
それでなくても、まだ夢は続いてんだ。
どうしたら、彼は話す気になる?
でも時間はかけられない。
どうする?
「それは分かる。けど、できたら話してほしい。……何でも聞くから」
素直に伝えるしかないんだろう。
ベストでなくてもベターな選択だ。
夢は一人で見るもんだ。
でも俺たちの夢ばかりはそれが通じない。
つまりは、それぞれの問題じゃないんだよ。
もし話してくれないのなら、全財産使い果たしてでも(大した額はないが)、このホテルに居ついて聞き出してやる。
「……本当に、聞く? 聞きたい……? 知りたい……?」
「当たり前だろ」
「そか……」
すると彼はぽつりぽつりと話しはじめた。
「貴方は家を見つけて、それから俺を見つけるまで、何度か夢を見たって言ってたよね?」
「ああ」
深い森の中にある屋敷。
そこを目指して俺は歩を進める。
「……家を見つけられずに、終わったことは?」
「あった。最初のうちはそうだった」
「つまり、家自体を見つけられずに終わった夢が何度かあったってことだ」
「そうなるな」
「その間も、……俺があの家の中にいたんだって考えたこと、……ある?」
考えたことがなかった。
家を見つけてからは歌声の主を探していたので、彼がいたことは無意識のうちに認識していた。
でもその家に辿り着くまでの夢で、彼がその家にいたとは考えたことがない。
第一、家があることすら知らなかったのだから。
「なかった」
「だろうね……」
彼が少し身を丸め縮こまった。
「……俺は、ずっとあの家に閉じ込められていたんだ……」
え……。
衝撃の事実、だった。
さっきも言ったように、夢は一人で見るもんだ。
だから相手の事情を勝手に推測することはあっても、相手の事実を知ることは無きに等しい。
まだ出会ってもいなかったころから、俺たちは同じ夢の中にいた?
そして、俺が森を彷徨っている間、彼は同じ夢の中であの家にいた?
ぞっとするような空間の出来上がりだ。
不思議な物語の幕開けだった。
「あの家には、……化物が棲んでいた」
そして、と彼の声が揺れる。
「俺は、その化物に囚われていた……」
金属の空洞を、カランカランと転がり落ちる小石の音。
そんな音が胸から聞こえる。
俺が見つける前から、この人はあの家にいて。
自由を奪われていた……?
「それで?」
横たわったまま、彼が少し姿勢を変える。
「最初、……あの家には二人いた」
「あんた以外にもう一人いたってことか?」
「うん」
鏡の裏側世界を覗いたような錯覚を起こした。
彼は話を続ける。
「どんな人だったのか、分からなかった。ただ、男の人だと思う」
「なんで?」
「……声が、そうだったから。でも、俺と同じ女物の着物、……を着せられていた……」
彼が少し身体を揺らす。
「……見たのは、その時が最期だったけど……」
「え?」
どういうことだ?
俺の体が自然と彼の方へ前のめりとなる。
彼は俺の様子に気づかず続けた。
「化物は、最初、その人に『歌え』と言った……」
でも、その人は歌わなかった……。
また彼の身体が小さくなった気がした。
「そしたら、……化物は、……一瞬にして、その人を、……殺した……っ」
あっと言う間の光景。
大きな爪で、人の形もなくなるほど、ぐちゃぐちゃに。
「そして、次に、俺に『歌え』と、言った……」
彼の声が細くなり、乱れる。
「俺は、怖くなって、……歌った」
怖くて、怖くて、ひたすら、歌い続けた。
「すると、化物は、大人しくなって。……俺に触ってきた……」
「それはつまり……」
「その、犯られたわけじゃなくて……」
間違った推測を正される。
「ずっと、ただずっと、俺の体に触ってくるんだ……」
そのおぞましさに耐えながら、ずっと歌った……。
それが一節の区切りだった。
俺はただただ衝撃の二文字を感じていた。
知らなかった。
だって、これはずっと『俺の夢』だと思っていたから。
「可笑しいでしょ? ……引いたんじゃない?」
「いや、全然……」
笑えもしない。引きもできない。
できるわけがない。
他人事ではないから。
恐らく、これから語られるであろう『続き』から、俺はどんどん『他人』ではなくなるはずだ。
「続き……、聞かせて」
促すと、彼はまたぽつりぽつりと話しはじめた。
「俺は、ほぼ毎晩のように、その夢を見た」
また胸の中で、ザラザラザラっという砂利が転がり落ちるような音が鳴った。
俺は、頻度で言えば二、三日に一度ぐらい。
彼も『ほぼ』と言ったので、毎日ではなかったんだろう。
それでも恐らく彼の方が多く見ているだろう、と推測した。
「ずっと、歌いながら、化物に、弄ばれる夢を、見て」
毎晩、眠るのが怖いのに、いつの間にか眠ってしまい、また夢を見る。
「だんだん、……夢の中で、俺の体は動かなくなっていって、……目もよく見えなくなって……」
少しずつ麻痺する心と身体。
「歌う以外は声も、出なくなって」
そうだったのか。
最初に夢で会った時のことを思い出し、納得する。
「このまま、……死ぬのかもしれないって、思った……っ」
語尾が掠れた。
「誰かに相談しようかとか、医者に、行こうかとか考えたよ。でもこんなことなんて言えばいいのか分からなくて……。勇気もなくて」
そうしているうちに。
「っ俺、現実で歌えなくなってた……」
「え‼」
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