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2.天上の人(4)
首や腕がビリビリと痛んだ。
全身に雷を叩きつけられたような感覚。
「今、も……?」
声が震える。
彼の頭が肯定の意を見せた。
「だから、ライブに出られなかった……。それが本当?」
また彼の頭が肯定の意を見せた。
「俺が歌えば、夢の化物がどこかから見てるんじゃないかって……。どこかから覗いてるんじゃないかって……。歌おうとすると、喉が詰まって、体が震えるんだ……」
彼の手が頭を抱え込んだ。
俺も夢のせいで何も手につかなくなり、現実に支障をきたすようになっていた。
でも、彼はもっと酷い状態だった?
「それからも、俺は夢を見て……、そして、貴方が現れた……」
最初は、誰だか分からなかった。
あの化物とは違う気配。
困惑した、と彼は語る。
「俺は、ただ歌い続けることしかできなくて、……そしたら何かが俺の手に触れた……」
夢の中なのに、特別な温かさがあって。
だからこそ、不安と恐怖を感じた。
「あの化物じゃないって、すぐ分かった。でも、誰なのか分からなくて……。そしたら……」
そこからは、……分かるでしょ?
彼が尋ねる。
「ああ。覚えてる……」
彼に触れた。
唇を奪って、熱くなる身体に触れ、その躰内に埋めた。
思い出すだけでも、胸が苦しくなって、頭がぼんやりとしてくる。
「最初、何なのか全然分からなくて」
「俺は歌わないと、殺されてしまうかもしれないのに、貴方は歌わせてくれなくて……」
少し責めた口調。
そして彼は息を殺すように呟いた。
「…………っ、俺、貴方に犯られた……」
一瞬自嘲するような声を漏らし、彼の感情が走り出した。
「俺、男なのに、よく分からないまま、犯られて。化物の気配をすぐ傍に感じて……。どうしたらいいのか、分からなかった……っ!」
気づかなかった。
彼が何の反応も見せないから、俺は受け入れてくれたのだとばかり思っていた。
「でも、ふと、目が少しだけ見えて……。俺を抱いてるものがなんとなく分かって」
暗がりで顔は見えなかった。
でも化物じゃなくて。
人の形をしていて。
それだけでも、救われて。
「もしかしたら、と思って、声が出なかったけど、俺は、必死に叫んだ」
助けて。
お願いだから。
お願いだから、助けて。
化物が見ていた。
その一部始終を見ていた。
でも逃げるなら今しかないと思った。
「必死だった……っ」
目の前で、青い炎が揺れていた。
次第に辺りが暗くなっていく。
俺は、何を見ていたんだろう?
彼は、助けを求めていたんじゃないか……。
でも、本当に、そうは見えなかったんだ……。
「俺とあんたは、同じ夢を見ながらも、同じ夢にいなかったのかもしれない……」
俺は呟いた。
「言い訳とかじゃなくて、その……」
言葉が詰まる。
「俺の夢では、『あの』時のあんたは、俺を、……求めて……」
彼を傷つけそうで怖い。
「あんたは、……俺に、『もっと、抱いて』くれって言った……んだ」
「!」
彼の体が大きく跳ねた。
責められるかと思った。
キレられるかと思った。
泣き喚かれるかと思った。
でも、彼は静かに言った。
「……そう……か。……」
彼の心が遠く離れていった気がした。
「じゃ、俺が、夢と同じ光景を、現実で見たなんて言っても、何も思わないよね……」
俺の気持ちなんて、分からないよね……。
そう言って。
彼が体を起こした。
「帰る……」
「おい!」
ふらっと立ち上がりドアへ向かう彼の腕を、俺は必死で掴んだ。
「待てよ。まだ終わってないだろ」
「終わったよ!」
部屋の空気を裂く怒声とともに、手を振り払われた。
やっぱり、彼は怒っていた……。
いや、失望したのかもしれない。
俺に。
彼の中の何かを壊してしまったのは確かだったから。
「話すべきことは全部話した! もういいだろ!」
「落ち着けよ! まだこっちだって言いたいことがあるんだ! 訊きたいこともある!」
「何だよ! 話せとか聞けとか!」
「そうだけど!」
俺だって落ち着いてなかった……。
いや、落ち着いていられるわけがない。
怒りに任せて喚く彼を治めるためには。
抱きしめるしか思いつかなかった……。
「離せよ!」
「落ち着けって!」
向こうも必死だったんだろうな。
暴れまくっていた。
でも俺も必死だった。
ムードもへったくれもあったもんじゃない。
ただひたすら羽交い絞めにするような。
そんな抱擁だった。
数分後、やっと治まった彼をまたベッドに寝転がし、俺はその傍に腰を下ろした。
またさっきと同じように、彼の背中が見えた。
「その、……ごめん」
気が昂っていたとはいえ、結構乱暴に羽交い絞めにしていたし。
ベッドに寝転がした時も、ほとんど投げつけたに近かったし……。
彼からの返事はなかった。
怒っている、んだと思った。
「…………他に、何があんの?」
彼のいつもより低い声が聞こえた。
さっさと終わらせろ、と言わんばかりだ。
「その後、どうなったんだ?」
彼を抱いたあの後、俺はすぐ目を覚ました。
でも、彼は恐らく夢の中に取り残されたまま。
「……その後って?」
面倒臭そうな声。
「その、コトが終わって、俺が消えた後」
少しの間の後、彼の溜め息が聞こえた。
まだ話さなければならないのか、と言う風に聞こえた。
「……俺は、取り残されて、……呆然としてたら、目が覚めた」
「そっか……」
それで、と俺は新たな質問をする。
「俺があんたを抱いてる間も、化物はいたって言ったよな?」
「うん」
しつこい、と言わんばかり。
「ずっと、見てたよ」
「ふん……」
俺は疑問に思った。
その化物とやらは、俺には見えなくて。
化物は彼に執着、いや、彼の歌に執着していて。
で、俺はその歌を止めた。
そして彼を抱いた。
でも、化物は怒ることなく、静かにその一部始終を見ていた。
なぜ?
まだよく分からないが、やっぱり。
……助けられるのは、俺だけじゃないのか?
俺は一つ提案した。
「あんたさ、今日ここに泊まって」
「……は?」
機嫌が悪いからか。
少し口が悪いように感じるが――。
「俺と一緒に寝よう」
すると彼の体が跳ねた。
「嫌だよ! ……っ、男相手に、エロいこと考えてるくせに……!」
「考えてないよ!」
『今は』
さすがにそれは本当だ。
下心なんて全くない。
少なくとも『今は』ない。
この状況で下心を持てたら。
俺は間違いなく鬼畜の変態だ。
「こうやって」
彼の横に横たわり、後ろから彼を抱く。
「寝るだけ」
「……こうやって寝ないと駄目なわけ?」
なんか騙されている気がする、といった感じの彼の声。
「うん」
こうしていれば、夢の中で彼を助けられるような気がして。
と、思いつつ。
やっぱり、下心があったのかもしれない。
彼の体温を感じていたい。
抱きかかえた瞬間、胸が熱くなってそう思った。
多分、俺の鼓動は彼の背を通して彼に届いていると思う。
彼は、どう思うだろうか。
心配になったが、彼は大人しかった。
「あのさ」
もう一度声をかける。
「何?」
「このまま、ちょっと歌ってみない?」
「……え?」
彼の身体が強張った。
でも俺は続ける。
「どんな歌でもいい。短いやつでいいし。あんたの好きなやつで良いから」
「歌えないって、言ったじゃん……」
「だからだよ」
だからこそ、俺がいる時に歌ってみてほしい。
俺が傍にいて、彼を守れる時に。
まだ彼は戸惑っているようだったが、少しの間をおいて、ぽつりぽつりと歌いはじめた。
透き通った音だった。
彼の中性的で綺麗な声がふわりと耳に届く。
体勢が悪いからあまり声は出ていないけど。
アカペラでもメロディにブレがない確かな歌声。
心地良かった。
そして、堪らなく彼が愛しかった。
これは何だ?
様々な感情が強く湧き上がって、何も考えられなくなる。
真っ白な光に包まれるような感覚。
強烈でいて、優しい、世界。
焦燥にも似た感情を煽られつつも、得体の知れない安堵に包まれ。
刹那、刹那でありながら、それが永遠であるかのような感覚。
様々な感覚が交錯する中、つまりはそれが『愛』なのだと結論付けた。
最後、彼の歌声が少しブレた。
俺はそれをただの技術的な失敗だとは思わなかった。
「歌えたじゃん」
「ん……」
彼の湿る声が聞こえた。
やっぱり、彼を助けられるのは俺しかいないんだ。
俺はそれを確信し、少し熱を帯びる彼の体をより強く抱きしめた。
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