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3.天上の雲(1)

 俺は何度も同じ夢を見た。  深い森の奥にある屋敷。  そこに住む、歌の上手い綺麗な青年。  現実のことが何も手につかなくなるぐらい。  俺は何度も同じ夢を見て。  そして、ついに現実世界で彼に会うことができた。  天気は快晴。  俺は荷物をまとめていた。  もともとライブのためだけに来たようなものだったので、大した荷物もなければ時間もない。 「さて、と」  俺はベッドに目をやった。  彼はまだ眠っている。  会う前から、俺と夢の世界を共有していた青年。  昨夜、彼と一緒に寝た。  彼を抱きかかえて、寄り添って。  珍しく夢は見なかった。  そして、まだぐっすり眠っている彼を見るところによると。  恐らく彼も見てはいないのだろう。 「おーい」  ベッドの端に座り、彼の肩をそっと揺らす。  恐らく昨夜の一件で疲れていたんだと思う。  小さなぐずり声とともに彼が目を覚ました。 「朝……?」 「あぁ」  起き上がると、彼は小さく頭を振った。 「頭、痛い」  ひたすら泣いて寝てしまったからだろう。 「これ、飲んで」  持ってきていた頭痛薬と水を渡すと、彼はそれを受け取り飲み込んだ。  彼はふぅ、と息を吐いて、ぽつりと呟いた。 「濃い一日だった……」 「あぁ」  俺もそう思う。  ところで、と彼が顔を上げた。 「今日、何時の飛行機?」 「昼の便」 「そっか。じゃ、もう空港に行かないと駄目じゃない?」 「うん……」  もう少し傍にいたかった。  でもきっと、もう少しいても、同じだったと思う。  ずっといるか、すぐ帰るか、どっちかが正解なんだ。  俺たちはタクシーで空港に向かった。  彼は空港まで見送ってくれた。 「あ、そうだ」  俺は携帯電話を取り出した。 「番号とメアド教えて」 「あ。うん……」  彼も携帯を取り出す。  そして互いの番号を交換した。 「もし何かあったら、連絡して。俺もするから」 「分かった」  彼はどこか覚悟を決めたように返事をした。  これでひとまず何とかなりそうだ。  そう思って安心した。  また夢を見た。  森の奥にある一軒家。  そこに現れたのはやはり、二日前に会った青年。  ふわっと妖しげでいて、どこか幼い笑顔。  俺は屋敷の奥に導かれて、そしてまた彼の歌を聞く。 『あのさ』  俺は初めて声をかけた。  ……?  彼は何も語らない。  でも姿にそう書いてある。  首を傾げて、目を少し大きく開いて。 『化物ってどこにいるの?』  すると彼は少し怖がって、障子を指差した。  青白い光を映す障子の向こう。  外にいるようだ。  俺はその障子を開けようと立ち上がった。  が、すぐ彼の手によって止められた。  懇願する瞳。  服の裾を掴んで懸命に首を左右に振って。  小刻みに震える手。 『分かった。開けない』  俺がそう言って座り直すと、彼はほっとした姿を見せた。  俺はその体を引き寄せた。  彼は素直に引き寄せられ、俺の腕に抱かれる。  現実の彼に比べ、随分素直、と言うか幼い印象を受けた。  このままキスしようか、と思ったが。  正直躊躇っていた。  多分、だが、『この彼』はキスを拒否しないんじゃないだろうか、と思う。  でも、起きた後が怖そうだ。  電話で怒鳴り込まれるんじゃないだろうかと思うと……。 『歌、歌って』  そうねだると、彼は嬉しそうに頷いて歌いはじめた。  透き通って中性的な美しい声。  初めて会った時に比べ、生き生きと歌っているように見える。  まるで水を得た魚の様な姿を見て。  彼は本当に歌が好きなんだと思った。  暫くして、俺たちは電話やメールでは不便なこともあるので、チャットをするようになった。  お互い自宅に居る時はPCの前にいることが多い、という点からその方が合理的だったのだ。  そして、時々ボイスチャットもする。  夢のことについて語る日もあれば、全然語らない日もあった。  ボイスチャットをしていたある日のこと。  俺は彼に尋ねた。 「―あのさ」 『―何?』 「―夢の中だと何であんな大人しいの?」 『―んー……』  少し悩んだ後、彼はこう答えた。 『―なんか、俺じゃないんだよね。俺なんだけど』  分かりにくいので、説明を追加してもらった。 『―んー、まぁ俺も上手く言えないんだけど』  記憶はちゃんと残っているんだけど、パーソナリティーというものが違う、らしい。  本来のパーソナリティーと重なる部分もあるが、かなり受身で内気。  かと思えば自分の感情に素直で、でもその表現が鈍い。  そして、心にどろどろしたものがなく純粋。  繊細と脆弱が表裏一体となった感じ、なのだと言う。  確かに、現実の彼はどちらかと言えば大人しい、口数の少ないタイプではある。  でも、それだけではなく。  夢の中の彼はとても無垢な印象を受ける。  そう。  表現は悪いが、まるで白痴の様な。  その言葉がぴったり合う。  少なくとも現実の彼から、そのような印象は受けなかった。  恐らく『何か』が彼本来のパーソナリティーを封印しているのでは。  俺はそう仮説を立てた。  ……精神科医でもなければ、その分野についての知識もないけれど。 「―ちょっと水分補給」  そして俺は席を離れた。  冷蔵庫からペットボトルを取り出してきて、席に戻った。  でもすぐにはマイク付きヘッドホンをつけない。  まだ水分補給もしてないし、少し休憩、というところだ。  俺には、未だ彼の言う『化物』とやらが見えなかった。  でも彼には見えるらしく。  ただ、俺が現れるようになって変わったことは。  俺といる時だけは、化物が屋敷に入ってこない、らしい。  庭(障子の向こうは庭なのだろう。)に気配があるだけで。  近づいてこないのだと言う。  まるで、俺が結界となっているような。  そんな気がした。  はぁ。  溜め息が漏れる。  何となくだが。  俺は彼の夢の中に入って、自分の夢を見ているような気がする。  自分の夢でありながらも、俺は端役。  勿論、彼のことが心配ではあるし、守りたいと思っている。  でも、俺の問題が何一つ片づいていないような感覚。  こればかりは否めない。 『俺の問題』  つまりは、決まっていることだ。  彼と『進展』したい。  夢の中で。  もしかしたら、現実ででも。  夢の問題を解決するには、やはり彼を中心に考えざるを得ない。  でも、『こっちの問題』はやっぱり俺が中心な問題であって。  ……身勝手ではあるが、少しは考えてくれているのだろうか、とどこか物足りない気分になる。  あー……。  彼にもっと近づきたい……。  ゴト、とデスクに突っ伏し、呟いた。 「……キスしちゃ駄目かな」 『―……何言ってるの?』  その瞬間、俺の背筋が跳ねた。  傍にあったヘッドホンから漏れる、明らかに怪訝そうな彼の声。  やばい‼  もしかして俺、マイク切ってなかった⁉ 「―っえ……? あ、えっと、今のは……」  慌ててヘッドホンとマイクをつけるが、この慌てよう……。  しかも言葉が続かない。  間違いなく彼に余計な感情を抱かせた……。  暫く沈黙だった向こうから声が聞こえた。 『―……あのさ、前から気になってたんだけど』 「―……何?」 『―貴方ってゲイなの?』  ‼  衝撃で驚く声も声にならなかった。 『―……もしもし?』 「―あー……」  肺から流れ出た空気が声帯に反応しただけの声が出る。  俺は改めて言葉を作った。 「―違う」  それは本当だ。  付き合ったことがあるのは女の子だけ。  男と付き合ったことなんてないし、恋愛感情を持ったこともない。  ときに気持ち悪い、とさえ思いもする。 『―でもさ』  貴方、夢の中でさらっと俺を犯ったよね?  ……その声に、胃に運んだばかりのウーロン茶が逆流しそうだった。  確かに、平気だった。  夢の中とはいえ、男にそんな欲求を感じるなんてありえない。  少なくともそんな夢を一度だって見たことはなかった。  彼との夢を見るまでは。  ただ、彼は何か違う。  惹かれる。  ただ漠然と、惹かれる。  夢で会ってからも。  現実で会ってからも。  彼の存在が気になって仕方がない。 「―俺はゲイじゃない。……けど、あんたが気になってる」  急な展開。  急な告白。  白状みたいな告白……。  彼は黙っていた。  困っているのか、迷っているのか。  怒っているのか、冷笑しているのか。  様々な想像が巡る。  一分経過。 『―あのね』 「―うん?」  たとえ夢の中でも。  キスしてきたら、もう連絡取らないからね?  大きな衝撃だった。  滝行をしていたら、水に交じって大量の土石が落ちてきたような衝撃……。 「―やっぱり、嫌?」  すがりつく気持ち半分。  そんな強気な態度でいられるのか、という高飛車な気持ち半分。  彼の返事を待つ。 『―嫌じゃない、って言ったら肯定することになるでしょ』  上手い躱しだな、と思った。  イイ女か、あんたは。  その日はそれで終了した。

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