7 / 38
3.天上の雲(2)
そしてまた夢を見た。
薄暗い家の中。
灯りがないのに、ものが見える。
月明かりの様な青白い光が差し込むせいだ。
一番奥の部屋に彼は座っていた。
彼は俺の姿を見つけると、にっこり笑って挨拶に頭を傾けた。
今日は出迎えてくれなかった。
あんなことを言ったからかもしれない。
やはり少し現実とリンクしているのだろうか?
彼の傍に腰を下ろして尋ねた。
『今日は、怒ってるの?』
なぜ?
そんな仕草でまた彼が頭を傾ける。
『いや、なんでもない』
彼の無垢な瞳を見ていると、問い詰める気が失せてしまった。
また彼の体を引き寄せて、歌をねだった。
彼は大人しく引き寄せられて歌を歌う。
彼の体からふと花の香りがした。
正直。
現実とのギャップに戸惑う。
キスしてきたら連絡を絶つ、と言った彼なわけだけれど。
夢の彼はとても従順で。
嬉しそうに俺の腕に抱かれて歌を歌う。
……これでキスをするなって?
でも駄目なんだろうな。
そんな感情に、混乱する。
そういえば、抱き寄せることについては何も言わなかったな。
と、また生まれた新しい思考にも気を取られつつ。
一通り歌を聞くと、俺は彼に尋ねた。
『今日、香水か何かつけてる?』
彼が頭を左右に振った。
だが、何かに気がついた顔をすると、部屋の一角を指差した。
そこには一枝の鈴蘭が生けてあった。
あの香りか。
それを認めつつ、疑問が湧く。
『あんたさ、外出られるの?』
彼が少し首を傾げ、その後頭を左右に振った。
『化物が採ってきたとか?』
彼の頭がまた斜めに傾いた。
分からないらしい。
『障子、開けてもいい?』
そう尋ねると、彼は頭を左右に振った。
困ったような、怖がったような顔で。
でも俺は見たかった。
その化物とやらを。
『開けるよ』
必死で頭を振り、止めようとする彼を穏やかに振り切って。
俺は障子を開けた。
そこには、何もいなかった。
ただ、日本家屋にありがちな、和の様式の庭が広がっているだけだ。
でも、彼は怖がっている。
頭を抱え、小刻みに揺れて。
『化物ってどこにいる?』
酷だな、と思いつつも、俺は怖がる彼を抱き、庭へ目をやるよう促した。
彼は脅えながら、一番右側にある松の木を指差した。
目を凝らす。
すると、なんとなくだが。
ぼんやりとそこだけ、妙に黒いことに気がついた。
もやもやっとして、淀んだ空気が松の木に隠れて。
そして、じっとこっちを覗っているような……。
目で見ているというよりは、感じているといった感覚だった。
得体の知れないものに対する恐怖、というものは少し感じられたが。
あまりにちっぽけで、強い恐怖は感じられなかった。
でも彼に目をやると、やはり彼は脅えていて。
俺は障子を閉めた。
『ごめん』
彼を抱き直して謝る。
すると彼は頭を左右に振ったが。
ずっと脅えて俺の胸に顔を押し付けていた。
また鈴蘭の香りがした。
ひとまず、『化物』の存在を確かめることができ、少し解決に近づけた気がした。
だが、何か腑に落ちない、気持ちの悪さがある。
それが何なのか考えるうちに。
夢ばかりが解決に向け進んで、現実での解決が遅れているからでは、ということに気がついた。
夢というものは、その人間の現実と表裏一体になっている部分があると言われている。
つまり、同じ夢を見続ける理由はただの偶然や怪奇ではなく。
現実に抱えている問題が起因となっていることが多い、というわけで。
俺は直接彼に話を聞くだけでなく、彼のことを自分なりに調べることにした。
彼は動画サイトで自身の歌をアップしている、アマチュアのシンガーソングライターだ。
爆発的な人気ではないながらも、結構な人気で。
根強い固定ファンがいる。
そして、それほどの人気になれば、色々と情報が出てくるものだ。
実際俺はそれらの情報を辿ってライブ情報を知ったわけだし。
俺はいつものように、検索エンジンの検索窓に彼のHN(ハンドルネーム)を打ち込んた。
すると、ずらっと検索結果が縦に並び。
一番下には、その検索ワードと一緒によく検索される言葉がずらっと横に並んだ。
その関連キーワードの中から、俺はあるキーワードに目を留めた。
【――― △△△】
「―――」が彼のHNであるのは置いておき。
『△△△』?
聞いたことがないHNだ。
いや、そもそもHNなのか?
彼の影響から、そこそこ有名なアマチュアシンガーなら、名前ぐらいは知ってるのだが。
俺は気になり、『△△△』について調べることにした。
その言葉は、アマチュアアーティストのデータベースで見つけることができた。
つまりそこそこは有名な人、と考えて良いのだろう。
しかし、説明文は短いものだった。
【△△△はXX年X月まで活動していた4人組バンドである。】
『まで活動していた4人組バンド』。
つまり、△△△はHNじゃなくてバンド名。
今はもう活動していないのか。
ただ、説明文を読み進めていくと、その後ボーカルは【No name】で活動しているらしい。
なぜそんなバンドと彼が関係あるのか?
少なくとも、彼のアップした動画リストにその名前は存在せず。
それらしい【No name】も存在せず。
コラボしたわけでもなさそうなのだが……。
ひとまず俺は、一度そのバンドの歌を聴いてみることにした。
残念ながら、そのバンド自体がアップした動画はもう残っていなかった。
しかし熱心なファンが音源を残していて、それを聴くことができた。
適当なものを選び、それを再生してみる。
綺麗なメロディラインとともに、ボーカルの声が聞こえてきた。
……え?
俺はヘッドホンを耳に押し当てた。
どういうことだ?
じっと音に耳を傾ける。
この声……。
今より少し低いような気もするが。
それは、紛れもなく彼の声だった……。
一体どういうことなんだ?
俺はそのバンドの情報を集めた。
そして俺はある掲示板で見つけた情報に、また衝撃を受けた。
概括すると、こういうことらしい。
彼と思われる人物がボーカルを務める『△△△』は、ある事件を境に解散。
その後彼はソロとして、【No name】で暫く活動。
最近になり、今の名前でまた活動することとなった。
もしかして。
最初に化物に殺された、という人物は△△△だったころの彼、もしくは【No name】だったころの彼なのでは?
俺は彼が語った夢の冒頭部分をそう解釈した。
それにしても。
彼が事件に巻き込まれ解散を余儀なくされていたなんて……。
結構彼のことを知り尽くした気でいたのに……。
二重のショックだった。
その日の夜。
「―ね」
『―ん?』
俺たちはまたボイスチャットをしていた。
「―あの。これ、答えたくないなら、まぁ、答えなくていいんだけど」
本音としては『できたら答えてほしいんだけど』が正解だが。
正直、言い出しにくかった。
その『事件』については、彼があまり触れてほしくないもののような気がしたので。
『―……なに?』
「―以前、別名義で活動してた?」
『―……』
薄い空気の漏れる音がし、その後彼は肯定した。
『―実は、ちょっとした事件に巻き込まれちゃったことがって』
まぁ、事件と言っても大したことじゃなかったんだけど。
ちょうど【No name】でやりたいなとは思っていたし。
一度自分を隠すきっかけにはなった、と彼は語った。
「―そうか」
俺もそれ以上は突っ込まなかった。
さほど夢と関連している事件だとも思わなかったので。
ただ、心の奥に小さな薄暗い靄があるのは否めなかった。
まるで松の木から覗いていた、『化物』の様な。
それがずっと俺の胸に引っかかっていた。
また夢の中で、彼を抱きながら彼の歌を聞く。
透き通った柔らかな声。
本当に綺麗な声だな、と俺はつい彼の頭に擦り寄ってしまう。
また良い香りがした。
あー……。本当に駄目……かな。
キスしたい……。
……本当はそれ以上のこともしたい。
発情中の青少年より性質が悪い状態。
正直、限界。
歌の途中。
俺は彼の顎を捕まえてキスをした。
彼の全身が跳ね、振動が俺の腕を伝う。
と同時に、俺は突き飛ばされていた。
彼は少し俯いて軽く唇を噛むと、さっと立ち上がり身を翻した。
『おい!』
彼は逃げる。
俺は追いかける。
彼はますます逃げる。
衣の裾に足を取られることなく、軽やかに逃げていく。
廊下を器用に曲がり、開けられた襖の間を縫ってどこまでも。
家の中をくるくると小器用に逃げ回る。
彼より大柄な俺は彼ほど器用に走り回れない。
転びそうになるのを必死で踏み留まりながらも彼を追う。
そして何度目になるか分からない廊下の曲がり角を曲がった瞬間。
俺は心臓が止まるかと思った。
俺の視界に広がっていたのは、真っ黒な靄。
先が見えないほどの黒く大きな気体の塊。
その黒い塊の端からゆらゆらと、触手の様なものが揺れていて。
その真ん中には大きな目が一つ。
ぎょろっと俺を見ていた。
そこで俺は目を覚ました。
目覚めは最悪だった。
心臓はおかしくなったのかと思うほど跳ねていて。
全身汗びっしょりだった。
一応彼にメールを入れた。
『ごめん。』と一言だけ。
数十分後、返事が来た。
『謝るぐらいならやめとけばよかったのに。』
だから‼
なんなんだよ、そのイイ女スタンスは‼
言っとくけど、俺これでも結構モテるんだぞ‼
女にですし、男になんてモテたくもありませんが。
まぁ、今はあんたにモテたいだけですが‼
でもだからって弄ばれたくはありません!
さすがの俺も我慢の限界だ。
俺はまたメールを打った。
『分かった。もう謝らないから。好きにさせてもらう。』
感情に任せて送信ボタンを押した瞬間。
あ、そしたら絶交されるじゃん、と気づき、サーッと血の気が引いた。
彼から返事は来なかった……。
夜、彼はチャットにログインしてこなかった。
やはり昼間の一件が原因だと思う。
メールでも送ろうかと思った。
が、一日ぐらいはこんな日もあるだろうし、とやめた。
あまりしつこくするのも嫌だ。
どうせ眠れば彼に会える。
そう思って、俺はさっさと寝てしまおうとベッドに横たわった。
しかしなかなか寝付けなかった。
暗がりの中、目を閉じるとふと浮かぶ化物の姿。
その姿を思い出すと胸が突き刺されるような感覚を覚えて、知らず知らずのうちに目が開いてしまう。
目を閉じた時の暗闇と、目を開けた時の暗闇。
同じ暗闇なのに、目を開けた時の暗闇の方が安心する。
確実に現実にある闇であることを実感できるからだろうか。
それでも、俺の意識は確実に目を閉じた時の暗闇に引き摺られ。
いつの間にか寝てしまった。
ともだちにシェアしよう!