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3.天上の雲(3)
何度訪れたか分からない森の奥の一軒家。
いつもは当たり前のように入っていた家。
だが、俺は初めて躊躇した。
あの化物の姿がふと頭に浮かび、正直慄いていたのだ。
そこで、俺ははっと思いついた。
家に入る前に、この辺りを散策してみると言うのは……?
屋敷の中に入れば、恐らく目が覚めるまで出られない。
俺は家に背を向け、歩き出した。
ただひたすら続く木々の波。
果てはないのか、とただひたすら前に進む。
進んで、進んで。
もう引き返すことが億劫になるほど進んで。
そして。
俺は一本の吊橋を見つけた。
吊橋はかなり長く、その先が見えない。
どこに繋がっているのかも分からない吊橋。
俺はただその吊橋の見えない先を眺め。
佇んだ。
先に行ってはいけないような気がした。
少なくとも一人で行ってはいけないような気がした。
なので俺は、長い道のりを引き返した。
随分歩いたと思っていたのに、引き返す道はあっと言う間だった。
すぐ見えた一軒家。
俺は一度深呼吸すると中に入った。
奥の部屋に入ると、彼が座っていた。
嫌悪、と言うより苦手、といった様子で。
また小さく唇を噛んで、上目遣いの困った顔で俺を見ていた。
俺は彼に近づいた。
彼は座ったまま後退る。
それでも俺は近づく。
彼はますます後退る。
困ったな。
俺は少し苦笑すると、その間を急激に詰めようとした。
その時。
障子の向こうに気配を感じ。
それに気づいた瞬間、障子が開いた。
黒い靄が部屋の中に流れ込む。
そして彼と俺の間を通せんぼする形になって。
ぼんやりした黒い塊の向こうに少しだけ彼の姿が見えた。
頭を抱えて、震えている。
歌以外の音をほとんど零すことがない口から。
小さな悲鳴が漏れていた。
助けないと!
俺は手を伸ばすが、黒い靄を掻くばかりで。
彼に手が届かない。
そうしている間も、彼は俺の方を見ようとせず、ただ脅えて。
俺は必死に彼を呼びながら手を伸ばしたけど。
彼には届かなかった。
また目覚めは最悪だった。
まぁ、最悪な目覚めにも結構慣れてきたが……。
そんな俺は、大分冷静に受け止められるようになっていた。
恐らく。
あの化物につけ込まれる隙があると良くない。
俺と彼との間に亀裂が入ると駄目なんだ。
そんな気がした。
というわけで。
『ごめんなさい。どうかしてました。』
俺は感情的になって吐いた野蛮な台詞を、あっさり撤回した。
我ながら、情けないと思う。
男相手に、ここまで翻弄されている自分がいるなんて。
彼を守るとか何とか、強い想いを抱き続け。
彼のためなら、どんな強者にだってなれるつもりなのに。
彼相手となると、俺は完全なる弱者になる。
数分後、メールが返ってきた。
『もういいよ。』
どういう意味……?
気にしてないよ、ってこと?
それとも、『貴方なんかもうどうでもいいよ』、ってこと?
それでもひとまず彼がメールを送り返してきた、ということは絶交されてないということだ、ということにして、ひとまず安心することにした。
また夜、彼と過ごさんと、彼の住む屋敷へ向かう。
奥の部屋の襖は開かれていて。
彼がいた。
彼は少しだけ微笑んだ。
少し無理して笑っている気がしたが、それでも笑おうとしてくれてることが嬉しかった。
彼の隣に座って、そのまま彼の歌を聞く。
澄んだ歌声。
世界を浄化せんばかりの声。
俺は彼に腕を伸ばした。
声がやみ、ザッ、と畳を擦る音がした。
彼が俺の手を躱した音。
まだ警戒している。
『もう、しないから』
すると彼は少し迷った顔をして。
少しだけ肩を縮めてじっと固まった。
抱いてもいい、ということらしい。
俺はもう一度手を伸ばした。
彼は硬直したまま俺の手を受け入れた。
そのまま引き寄せて、頭を抱く。
すると彼の緊張が少し解けたようで。
また彼は小さな声で歌いはじめた。
その歌が終わった時。
俺は一つ提案した。
『外に出てみない?』
彼の目が大きく見開かれ、その後彼は激しく頭を振った。
『大丈夫。少し庭に出るだけ』
それを聞いて、彼は臆しながらも俺に従った。
彼の手を引いて、障子へ近づく。
障子を開ける瞬間、彼の手がぐっと俺の手を握った。
俺はその手をしっかり握り返した。
障子を開いて、裸足のまま俺が先に下りる。
冷たい土の感触。
少し痛い。
彼を抱きかかえようかと振り返ると、彼は自ら庭へ降りた。
俺に手を引かれてだけど、それでも自分で降りた。
でも、すぐに俺にしがみついた。
化物がいるから、なんだろう。
しがみつく彼を支えながら、俺はそっと歩いた。
化物が隠れている松の木とは反対方向へ。
でも屋敷の外へは出ようとしない。
化物の目が届く範囲で動く。
それがつまりは俺の計算なわけだけれど。
ゆらっと揺らめき、化物がじっと俺たちを見ていた。
俺はその視線を十二分に感じ取っていた。
でも、怖くはなかった。
次の日の夜、ボイスチャットで彼に尋ねた。
「―夢の中で庭に連れ出したけど、どうだった?」
『―楽しかった、かな? あ、出られるんだ、って思った』
「―どこかが痛いとか、そういうのはなかった?」
『―なかったなぁ。まぁ、足の裏は痛かったかな?』
靴があればいいんだけどね。
そう言って彼は小さな笑い声を立てた。
彼に苦痛がない。
それを確かめたことにより、俺の『計画』はまた一つ前に進んだ。
それから俺は夢を見るたび、少しずつ彼を外に連れ出すようになった。
彼も外を楽しんでいるようだ。
彼が言った冗談が本当になり、靴も手に入った。
ただ、俺は屋敷まで履いてきたスニーカーだったけど、彼は草鞋だった。
また化物が見ていた。
一番奥の松の木から隠れて。
俺は無関心を装い、彼を連れ出す。
ついには庭を出て。
毎日、毎日、少しずつ遠くへ。
でも必ず戻ってくるようにして。
そうして化物の信用を得て。
すると最初は見張りについてきていた化物も次第についてこなくなった。
でも庭ではじっと俺たちを覗っていて。
いいか、化け物。
とにかく今は俺たちの行動を見ておくんだ。
そして俺たちを信用しろ。
そうなることによって、俺の『計画』は成功する。
その『計画』が成功すれば、俺の『仮説』は『実証』されるんだ。
それからというもの。
ボイスチャットでの彼の声が少し明るくなった気がした。
閉じ込められていた空間から少し解放されたせいだろう、と思う。
でも、まだ歌は歌えないのだと言う。
少なくとも、一人でいる時は歌えないらしく。
実のところ、ホテルで歌ったきり歌っていないらしい。
つまりは動画をアップすることなどままならないわけで。
『新作まだ?』
と言う既存の動画についたコメントを見るたびに、事情を知る俺の胸はチクッと痛んだ。
早く彼を解放しなければ。
俺の中で焦りが生じた。
夢の中。
外の散歩を楽むようになってある程度が経過したころ。
俺はついに『計画』を実行した。
俺たちは屋敷の外の、そこそこの距離まで出られるようになっていた。
二人手を繋いで森を歩く。
そして少し散歩をすれば屋敷に戻る。
……いつもならば。
そう。
これはいつもの散歩だ。
そう自分自身に言い聞かせて。
屋敷が見えなくなるぐらい離れたころ。
俺は彼の手を引っ張った。
『走って!』
彼は目を丸めてまごついたが、俺が走り出したので、それに釣られて走り出した。
俺は走った。
無我夢中になって走って。
彼も訳が分からないまま、必死になって走って。
それでも俺の方が速いので、彼に負担がかかり。
そんな彼を気遣いながらも、気ばっかりが急いて。
でも彼を抱えて走るよりは、一緒に走った方が速いので。
彼の手を握り、ただひたすら二人で走った。
吊橋が見えてきた。
もう少しだ!
この吊橋を渡ってしまえば。
恐らく、全てが解決する!
そう思って彼の手を一層強く握った。
その時。
彼の足が、ぴたっと止まってしまった。
『何してんだ!』
焦った俺はつい語気を強めてしまった。
すると彼は、はっと我に返り、また片足を前に出したけど。
その一瞬が命取りとなった。
突如、暗雲が立ち込めたような空。
かと思えば、黒い影が空に広がっていて。
あっ、と思った時にはもう遅くて。
俺の手は彼の手から離れ。
やばい、と思った時にはもう。
彼が黒い靄に呑み込まれていた。
『やめろ! やめてくれ!』
俺は叫んで、必死に手を伸ばした。
黒い靄に呑まれながら、彼も必死で俺に手を伸ばす。
靄の中から彼の白い腕が見えて。
恐怖で色を失った二つの瞳が必死に助けを求めていた。
その瞳からは雫が零れて。
その身体を包む靄には大きな目が一つ。
その目はぎょろっと俺を睨んでいて。
激しい憎悪と、どこか悲痛に満ちた瞳。
俺は恐怖で凍りついて。
それ以上腕を伸ばせなくなってしまった。
荒い呼吸とともに目を覚ました。
全身の震えが止まらない。
今にも悲鳴を上げてしまいそうな感覚に襲われる。
そしてそれと同時に、しまった、と息を呑んだ。
これじゃ、彼が夢の中に取り残されたままだ!
でもこんな状態ですぐに眠れるわけがない。
もう夢の中には戻れない。
俺はすぐ傍にあった携帯電話を引っ掴んだ。
頼む、出てくれ。頼む、頼む!
震える指で必死に操作し、彼の電話番号を探しコールした。
数コール。
まだ出ない。
頼む、頼む、頼む、頼む、頼む‼
俺は必死に念じて。
あと一コールで留守番電話に変わる、という時。
やっと彼が出た。
『…………』
明らかに受け取った様子があるのに、声が聞こえない。
「もしもし? もしもし⁉」
俺は必死に呼びかけた。
でも彼の声は聞こえない。
もしや、化物がついに現実にまで、という発想まで浮かんでしまい。
冷静さをなくした俺は完全に恐怖に取り憑かれていた。
『……も……し、もし……?』
今にも消えてしまいそうな彼の声が聞こえた。
「もしもし⁉ 大丈夫か⁉ 目、覚めたか⁉」
彼の意識が完全に覚醒するよう、夜中だというのに大声で話しかける。
『ぅ……ん。……だぃ……じょう……』
大丈夫だと言いながらも彼の声はか細くて。
でもそれ以上何を言えばいいのか分からなくて。
この恐慌状態をどう解消していいのかも分からなくて。
俺は頭を掻き毟った。
すると向こうでまた、弱々しい声がした。
『……け、て……』
「な、に……?」
浅い呼吸に消える言葉。
必死で耳を傾ける。
すると、彼の悲痛な声が聞こえた。
『たす、けて……。お願、い……。た、すけ、て……』
俺の頭の中で何かが割れた気がした。
もし脳がガラスでできていたら、今頃俺の脳はバラバラになっていたと思う。
そんな衝撃が頭を襲い。
「分かった。すぐ行く。すぐ行くから!」
そう叫んでいた。
俺はPCを起動させた。
電話を切らずに、彼にできるだけ声をかけて。
空港のフライト情報を調べ、彼の住む場所まで行く一番早い便を調べる。
一番早い便のチケットはまだ入手可能だった。
すぐに購入手続きを行う。
手続きが終了するや否や、ボストンバッグに衣服を詰め込んだ。
それでもまだ二時間ぐらいある。
長い時間だ。
もっと早く彼のもとへ行くことはできないのだろうか、と苛々する。
でもそれを落ち着けてくれたのは、皮肉にも彼との電話だった。
「チケット取った。すぐには行けないけど、でもすぐに行くから」
そう語りかけると彼の少し濡れた声が聞こえてきた。
『うん……。待ってる……。待ってる、か……ら……』
その声に押し潰されそうだった。
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